津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

I氏のエッセイから

2008-04-14 10:11:14 | 書籍・読書
 この人のエッセイを読むと、「花や木が大変お好きだな」と感じるし、周りの人達もそう思いご自身も自覚しておられる。五十数編のエッセイに次のように登場する。(暇だねー津々堂)

 1、秋桜、稲田、柿、栗、山法師、花菖蒲、杜若(カキツバタ)、躑躅、花水木、メタセコイア、竹林、
 2、衝羽根、魚子咲きの菊、桜、楢の木
 3、ヒマラヤ杉、
 4、バラ、
 5、銀杏、
 6、蜜柑、梅もどき、雪柳、鉄線、ブナ、夏椿、欅、紅葉した桜の葉、
 7、・・・・・・・・・・・
 8、桐、ユーカリ、いなだ豆の木、屋久島の杉、ブナ、
 9、寄生木(寄生ホヤ、飛蔦)
 10、・・・・・・・・・・・
 11、山茶花
 12、・・・・・・・・・・・
 13、・・・・・・・・・・・
 14、山茱萸(サンシュユ)、連翹(レンギョウ)、山吹、菜の花、花菖蒲、鉄線、朝顔
 15、山茱萸(サンシュユ)、
 16、・・・・・・・・・・・
 17、・・・・・・・・・・・
 18、桃の花、白蓮、桃の蕾
 19、・・・・・・・・・・・
 20、・・・・・・・・・・・
 21、・・・・・・・・・・・
 22、桜
 23、・・・・・・・・・・・
 24、・・・・・・・・・・・
 25、・・・・・・・・・・・
 26、・・・・・・・・・・・
 27、・・・・・・・・・・・
 28、・・・・・・・・・・・
 28、夏椿(沙羅シャラ)、林檎、チューリップ、寄生木、浜昼顔、藤袴、春女菀、小手鞠
    山法師、栗、
 29、・・・・・・・・・・・
 30、・・・・・・・・・・・
 31、鉄線、芍薬、胡蝶蘭、
 32、・・・・・・・・・・・
 33、・・・・・・・・・・・
 34、・・・・・・・・・・・
 35、・・・・・・・・・・・
 36、・・・・・・・・・・・
 37、・・・・・・・・・・・
 38、紫陽花、百合、バラ、
 40、ツツジ
 41、・・・・・・・・・・・
 42、虫狩、芒、蔦、
 42、吾亦紅、虫狩、萩、柿ノ葉、
 43、・・・・・・・・・・・
 44、・・・・・・・・・・・
 45、・・・・・・・・・・・
 46、・・・・・・・・・・・
 47、カーネーション、
 48、トルコ桔梗、バラ、日本の菊に似た花
 49、・・・・・・・・・・・
 50、柿
 51、紫式部、吾亦紅、秋桜
 52、衝羽根、風車、石蕗、楓、杜鵑草(ホトトギス)、七竈(ナナカマド)、
 53、・・・・・・・・・・・
 54、・・・・・・・・・・・
 55、椿、彼岸花、山茶花、冬桜
 56、・・・・・・・・・・・

 その人とは伊集院静氏である。ご夫人篠ヒロ子さんとの御住まいの場は仙台にあるようだ。いかにも都会的なセンスの氏だが、自然を愛する繊細さ魅力的だ。夫人に対するつっけんどんな物言いの端々にも優しさとなって伺われている。いいご夫婦だ。

 私はといえば、いささかお茶を嗜んだせいで植物にも興味が有り、こんなエッセイに出会うと心洗われる。そしてこんな統計学的馬鹿遊びが好きである。
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知行被差上候

2008-04-13 18:49:29 | 歴史
 「寛文元年以来病気乱心ニ而知行被差上又者依願御暇被遣候面々名付之覚」を見ると、延宝三年九月十六日「煩ニ付知行被差上(候)」として米田甚内(是員)殿、延宝七年十一月二日「御役儀御断ニ付知行被差上候」と米田助右衛門殿とある。二人は兄弟である。米田家四代是長監物の次弟が助右衛門、末弟が甚内だが共に江戸証人を勤めた。又夫々共家老職を勤めたが、助右衛門は隠居無嗣断絶。甚内は先に記す如く病を得て二十九歳で死去こちらも無嗣断絶した。米田家は四代是長女吟が忠利末子元知に嫁いだが、これも陽明学徒追放に際し、藩主綱利に対し諫言これが災いして永蟄居となる。寛文九年十月十一日「煩ニ付知行被差上候、五千石・長岡左近(南條元知)殿」と「覚」は記録している。その嫡子である是庸が命により、外祖父養子になったのは延宝五年の事である。ちなみに四代是長室は南條元信女伊代である。米田家と南條家の深いつながりがある。

  寛文九年(1669) 長岡元知(是長女婿)永蟄居
  延宝三年(1675) 米田甚内(是員)死去(29歳)
  延宝五年(1677) 長岡是庸、命により米田是長の養子となる。
  延宝七年(1679) 米田是正隠居
  延宝八年(1680) 米田是長死去(63歳)

 米田家の波乱の延宝期である。
  
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しっかりしろ行政

2008-04-13 16:12:06 | 熊本
 十数年前行きつけのスナックで、警察出身のご老人と知り合った。県のトップまで登られた鹿児島出身の方である。話しの端々から「西郷派」である。いたずら心がふと湧いて、「初代警視総監川路利良をどう思われますか?」と聞いてみた。きっと睨みつけられた。「鹿児島の恥だ、あのくそやろう」と仰る。これには驚いてしまった。訥々と鹿児島に於ける彼の「西郷に対する裏切り行為」について述べられる。そこで始めて知ったのが司馬遼太郎の「飛ぶが如く」に登場している、川路利良のフランスに於ける「くそやろう」事件である。("大便放擲事件"詳細は同書をどうぞ)「国辱もんだ」日本の警察の育ての親に対して口調は終始穏やかだが辛らつである。(まさしく国辱ものだ)
鹿児島県人のいまだいやされぬ深い心情的対立が残されているのを知った。
 ご自宅は熊本の西方の見晴らしのよい山の上にお在りだという。「マスターと一緒に遊びのおいで」といって下さった。約束は果たされる事なく、お亡くなりになった事を知った。ご老人曰く「都市計画がまずいねー。まわりはラブホテルばかりで住んでいて肩身が狭いよ」 昨日すぐ近くを車で走ってみると、状況は現在も全然改善されない。新幹線の車窓から見えることになるその景色に、熊本を訪れる方々はどう思われるのかと思うと、ご老人ならずとも肩をすぼめたくなる。
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BBSを復活させるか・・?

2008-04-12 18:38:07 | 徒然
 ブログに書き込んでいただく情報は、大変貴重でありがたく思っているが、双方向のやり取りには限界がある。時を経て連絡申上げたいと思うが中々難しい。BBSを復活させようかと、思い悩んである。以前のBBSは、いかがわしい書き込みや写真の添付など、本当にいやな目に合わされた。最近封鎖された幾つかのサイトがあるが、同様のことが原因ではないのかと推測している。「パスワード制限」機能のBBSならばどうか・・?
お詳しい方のご意見を頂戴したいと思っている。
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細川七左衛門殿

2008-04-12 18:27:26 | 歴史
 いろんな処にこの人物の名前が登場するが、何者か分からない。日帳等では「殿」と敬称してある。元和・寛永・正保期あたりの人物だが、細川姓を名乗っているのにも係わらず、正体が知れない。ご存知の方はご教示賜りたい。
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「うー頭 井戸を覗いて かやりこみ」

2008-04-11 14:08:17 | 徒然
 昭和28年の大水害で貴重な写真などを殆ど失ったが、私の歩き出して間もない頃と思われる写真が数枚残されている。その中にでっかい頭の私が、井戸の側で写っているものがある。この写真を見ると表記の肥後狂句が頭に浮かぶ。肥後狂句とは熊本弁を使った狂句なのだが、「うー頭」とは「大きな頭」とでも言おうか、「井戸を覗いたらかやり(返り)こんでしまった」、という単純な句だが「言いえて妙」である。当時の私は健康優良児で、東京市長から表彰を受けたという。亡くなった姉に言わせると、「単なるデブよ」と云う事になるが、頭のでかさが異常で、健康優良児ならぬ栄養失調児ではないのかとさえ思わせる。最近腰を折って草むしりをしていたら、まさに「かやりこみ」状態で、我が身体を支えようとして両手を土の中に突っ込んでしまった。最近は上下のバランスもメタボ状態なりに取れていると思うのだが・・・外でこっそり手を洗い、自分の部屋に駆け込んだ。
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改名

2008-04-11 10:00:28 | memo
 改名がどのような手続きを以って成されるのか、史料を持ち得ない。申し出れば即座に認められるのか・・?。次のような史料を見ると、ある時期まとめて決済という事もあるのだろうか・・?

 ■寛永五年正月二日「日帳」から
 
    今日名を被替候衆

   小笠原肥前守(備前カ・長元)
   小笠原民部少輔(長之)
   氏家志摩守(元高)
   佐(藤)将監
   道家帯刀(一成)
   菅村緒左衛門
   余田三右衛門
   鯛瀬茂大夫
   杉原少三郎
   堀平左衛門
   山田七郎兵衛
   吉田平兵衛
   伊藤治兵衛
   森左太夫
   河嶋善兵衛
   藤井権兵衛
   佐藤七左衛門
   坂崎勘右衛門
   財津善内兵衛
   弓削孫丞
   西沢伝兵衛
   鳴海助右衛門
   山田久丞
   林隠岐守
   八木田丹右衛門
   服部武右衛門
   田屋治部右衛門 

(この時代の文書は「何がどうなった」という書き方をしない。これらの人の名前も、「前の名前はどうであったのか」若しくは「改名後の名前はどうなのか」がハッキリしない。個人の記録を当たるしかないが、日にちが特定できるだけでも「良し」とせねば成るまい)

 ■一方、寛永四年正月(一日)忠利は、惣奉行二名に改名を命じている。

  一、(浅山)清右衛門・(田中氏次)興左衛門も、明日名をかハり可申旨、小谷忠二郎を(以)被仰
     出、則清右衛門ハ修理亮、興左衛門ハ兵庫ニ可罷成旨由申候也


    (二つの記録を見ると、改名は正月の行事ではないのかと思わせる)
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木の芽時期

2008-04-10 21:41:01 | 歴史
 
   木の芽草の芽あるきつづける/種田山頭火

 木の芽立つこの時期は、私が一番好きな季節である。猫の額ほどの庭でも、季節はその移ろいを姿にして見せてくれる。もみじは柔らかい新芽を出しているし、ローズマリーは沢山の花をつけた。草むしりをしていると、実生で生まれたのだろう小さな山椒の木がある。昨年の「加藤清正シンポジウム」のあと、会場で頂戴した清正ゆかりの鶴崎の法心寺の銀杏の実を5・6粒植えてみたのだが、はたして芽を出してくれるだろうか。興味が尽きない。餌を与えるようになってから、毎日沢山やってくる小鳥達のせいではないのか、変な雑草も顔を出している。そんな事を観察するのも楽しみだし、なんといっても掘り起こした土の匂いが嬉しい。

 齢を重ねると、そんな自然の営みもいとおしく感じる。散歩の途中で見つけた白い「大根の花」を手折りて、一輪挿しに投げ入れてみたりする。
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証人忠利のお供の人々

2008-04-10 15:20:19 | 歴史
 慶長五年一月十五日忠興は三男忠利を証人として江戸へ送り出している。
お供した九人の人達だが、消息の知れない人が多い。

■中嶋左近 東大史料編纂所の「大日本近世史料・細川家史料」の人名索引では、慶長十五年尾張
  國名古屋城普請の際、普請役人を勤む。(細川家記)とある。別記、中嶋備中について「細川家臣。
  未詳」としているが、綿孝輯録は中嶋備中左近と記しているから、同一人であろう。  
  侍帳に同人物は見えない。
■福知與兵衛 細川家史料には「細川家臣。未詳」とある。福知平左衛門の関係者か
■松田慶順 細川家史料は「細川家臣。未詳」としている。
■牧五郎 これは牧丞太夫・兼重の二男五助である。松田同様の記載が綿孝輯録にある。
    (1)留守居組 百五十石 (於豊前小倉御侍帳)
    (2)御代官衆 百五十石 (肥後御入国宿割帳)・・吾助
御中小姓
■住江甚太郎 住江小右衛門の息か?
    (1)御詰衆 百五十石 (真源院様御代御侍名附)
■本庄久右衛門 丹後以来の本庄久兵衛の嫡男
    (1)留守居組 二百石 (於豊前小倉御侍帳)
    (2)御留守居衆 二百石 (肥後御入国宿割帳)
    (3)百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
■松田五左衛門 丹後以来の松田七右衛門の嫡子
    (1)馬廻組三番 三百石 (於豊前小倉御侍帳)
    (2)御馬廻衆 三百石 (肥後御入国宿割帳)
    (3)一番長岡右馬助組 三百石 (真源院様御代御侍名附)
    (4)有吉頼母允組 三百石 (寛文四年六月・御侍帳)
■桑原喜兵衛  侍帳など記録に見えない
■稲富平七   侍帳など記録に見えない                               
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何とかせんといかん

2008-04-09 18:20:30 | 徒然
 今日も数点の史料をお送りいただいた。メールで情報をいただいたりしている。過日ちょっと体の不調をブログで書いたら、お見舞いまで頂戴仕大変恐縮している。「死ぬこっあなかばってん・・・とにかく瘠せろ」が、医者のご託宣である。重々肝に銘じているのだが、その肝も脂肪肝だそうな。心臓肥大もある。ウォーキングでも始めなきゃと本気で考えている。「今からの図書館通いは徒歩にするか」等とも思うが、借りる本、返す本が重いから・・・止めとくか・・? 何とかせんといかん。

 今日もまた、史料の送付の準備をし、手紙を書き、メールのお返事を数件爺様は結構忙しい。これが元気の元ともいえる。

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召出しの時期

2008-04-08 17:16:41 | 歴史
 我がご先祖の召出しの時期については、「三齋様豊前より江戸御上下被遊候時分」と先祖附は記しているが、それが何時であったのか不明であった。「福岡県史・近世資料編--細川小倉藩(三)」にかすかなヒントがあった。元和九年閏八月七日の「御用覚書之帳」に、「磯部長八郎(知行高弐百石)此地罷越居候儀 此中不存候而 何も御小々性衆御目見ニ被罷出候せんさくニ付 しれ申候事」とある。我が家の祖庄左衛門の兄が長五郎(長八郎とも)であり、同時期に御児小姓で召出されたと先祖附は記している。ほぼ間違いないのではないかとほっとしている。それにしても、何度も目を通してきた同書だが、すっかり見落としていた。我が家に限らず、まだまだ見落としがあるのかもしれない。心して読まなければ成らない。
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高田老松町

2008-04-08 12:53:18 | 徒然
 東京・文京区関口に御住まいの、熊本ご出身のある方からメールをいただいた。新江戸川公園の情報などをお教えいただいたが、今日の東京は大荒れのようで、お庭の桜もすっかり痛めつけられた事だろう。

 二年程前ある方から昭和21年発行の「大東京區分地図・小石川區明細圖」なる貴重な品を頂戴したことがある。私が生まれた高田老松町がそこにある。ここはかっての細川藩下屋敷があった所で昭和十二年頃には、細川侯爵邸が建設された。現在は和敬塾本館と成っている。永青文庫や新江戸川公園を含む広大な広さであった。先の地図をみると、高田老松町は目白通りの道向こうまで広がっている。その町名の由来は、嘉永年間に発行された「雑司ヶ谷音羽繪圖」でも伺えるが、細川邸の前に大きな二本の老松がある事に由来している。今では目白台一丁目、近くに「田中角栄邸」がある。裏には神田川が流れ、映画「神田川」のロケなども行われたと聞く。細川家邸内には、いわゆる職員住宅のようなものがあり、堅山南風先生や、高野松山先生なども住んでおられた。時の偶然で私はここで生を受けた。そんなこんなが現在の「細川狂い」の元であるのは間違いない。

    和敬塾本館(旧細川侯爵邸) homepage2.nifty.com/matsuken/sanpo01.htm
    永青文庫      www.eiseibunko.com
    新江戸川公園  www7a.biglobe.ne.jp/~tokyo-sanpo/36.htm

 文京区関口は、旧高田老松町のすぐお隣の町である。
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家人

2008-04-08 08:35:46 | 書籍・読書
 最近伊集院静のエッセイを読み始めた。彼のダンディー振りが処々に顔をのぞかせている。あの「夏目雅子」さんが前の奥さん、ひまわりのような笑顔が素敵な女優さんだったが、「美人薄命」の代名詞となった。文中氏は奥方を「家人」と呼ぶ。その家人、夏目さんなのか現在の奥さんなのか、判断に窮する場面もあるが、「家人」という表現はいささかの「てれ」を伴っているように思える。今の奥様は元女優・篠ヒロ子さん、結婚依頼まったく顔をお見せにならないが、氏の文中から素晴らしい奥様振りが伺える。

 旅に出る氏のために準備された下着に、穴があいているのに気付く。其の事を告げると、「この頃はパンツだって高いんだから・・・」 すまし顔の篠さんと、当惑げな伊集院氏の顔が浮かんでくる。
いいご夫婦だ。
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老いの姿見

2008-04-07 17:16:22 | 歴史
 熊本藩実学党の首領とも云うべき横井小楠の遠祖は、北条氏だとされる。その家紋は丸に「三つ鱗紋」である。同様北条氏を遠祖とする同姓、横井孫右衛門なる尾張藩士がいた。1500石取りで「也有」と号した。元禄十五年生まれの大変な教養人であったという。その也有の狂歌を、江戸町奉行根岸肥前守鎮衛という人が、「老人への教訓の歌の事」として、其の著「耳袋」で紹介している。

 一 皺はよる ほくろはできる背はかがむ 頭ははげる毛は白うなる
 一 手は震う 足はよろつく歯はぬける 耳は聞えず目はうとくなる
 一 よだたらす 目しるは絶えず鼻たらす とりはずしては小便もする
 一 又しても 同じ噂に孫じまん 達者じまんに若きしゃれ言
 一 くどうなる 気短になる愚痴になる 思いつくこと皆古うなる
 一 身にそうは 頭巾襟巻杖めがね たんぽ温石しゅびん孫の手
 一 聞きたがる 死にともがなる淋しがる でしゃばりたがる世話やきたがる

なかなか辛らつで面白い。身につまされる事もある。お奉行様は「これを姿見として、己が老いたるほどをかえり見たしなみてよろし」と言う。ご尤も・・・
我が横井小楠先生も、このくらいの洒脱さがあれば・・・?
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湯治の訳

2008-04-07 15:55:57 | 歴史
 信頼に値する情報は片っ端から「侍帳」に転記している。しかし時折「まずいんじゃないの」という情報も有る。寛永八年十月某氏は病気療養のため、別府への湯治を藩庁に願い出ている。「りんひょう(淋病)すんはく(寸白)気ニ御座候」「十四五日之逗留ニ参度候」・・・小倉町奉行Y氏である。病名ははずして書き込んでおこう。
ちなみに「寸白」でぐぐってみると・・
   貴方は18歳以上ですかwww.flc.kyushuu.ac.jp/~michel/exhibitions/19990622_0711/09.html
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