津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

飾り馬

2008-09-21 10:01:51 | 熊本
 二日続けて夏を思わせる暑さでしたが、一転今朝の熊本は雷を伴う雨模様となりました。今日は藤崎八旗宮秋期例大祭、御神行行列や飾り馬67頭と勢子一万人ほどがお祭りを盛り上げるところでしたが、水を指してしまいましたね~。これだとちょっと出かける気持ちにもなれません。

 ところでこの飾り馬の奉納は、小倉時代の細川家でも行われていたようで、何某が何頭、誰それが何頭奉納したという記録が残されています。それでも合わせて14~5頭くらいのものですが、現在では60頭を超えてしまい長蛇の列になり、交通は大渋滞になります。出身学校(高校)や、地域・職場・祭り好きな仲間が集まってグループを作り出場する訳ですが、これも昔の「連」と呼ばれる若者グループとよく似ていますね。昔は「連」同士の喧嘩出会いがよくあったそうですけど・・・

 物凄い雨になりました。若い女の子はお化粧をして、粋なはっぴ姿を披露しながら踊りまわるのですが、まったくお生憎様の状態です。

 雨の中妻の買い物の為に外出、車の乗り降りもまま成らなかったのですが、一時間ばかり後にはどうやら雨も上がりました。夕随兵には見物客も一安心かもしれません。12:52記
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「旧陪臣代数及原禄根帳」

2008-09-20 19:04:59 | 徒然
去る7月6日のブログ「完成と着手」でお約束した、細川家家臣184家の家来(陪臣)のお名前を一覧にする、「旧陪臣代数及原禄根帳」の作成が大幅に遅れている。「何とか一ト月を目途」と、でかいことを云ったが、いろいろ難問があって遅々として進まない。ある方から「そろそろだと思いますが・・」とのご質問を受けたが、何とも申し訳ない限りである。あいうえお順に名前を列記して、その方の主家や身分をご紹介しようと思っていたが、暫く進めている内に、これが途方もない作業を伴う事と思い至った。やはり主家別でないと仕方がないかと頭を抱えている。近々状況報告を申上げたいと思っている。今しばらくの猶予を頂戴したい。
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「くまもと城下の地名」

2008-09-20 16:39:19 | 書籍・読書
 熊本日日新聞に毎日連載されている、「くまもと地名あらかると」は今日で367回を向かえている。熊本地名研究会の会員の皆さんが、手分けして執筆された。一時期切り抜きでもしようかと思い、該当頁を積み重ねていたら見る見る内に、新聞が小山を作り始めた。史談会でご一緒する、執筆者のお一人であるF様に、出版の予定の如何をお聞きしたら「予定あり」とのお返事、新聞の山は廃棄処分と相成った。昨日の新聞に紹介されている。(記事引用)
   熊日新書【くまもと城下の地名】
   県内各地のさまざまな地名を取り上げ、その由来や伝承、歴史や民俗
   などを中心に紹介している本紙連載『熊本地名あらかると』の中から、
   熊本城下町とその周辺の地名百七十余編を抜き出して一冊にしました。

   【編著】熊本地名研究会【体裁】新書判、216㌻【定価】1000円(税込み)
   【発行】熊本日日新聞社【制作・発売】熊日情報センター・096-361・3274

 ちなみに今日現在「熊日コム」の「熊本の本」ではまだ紹介されていません。
 

      
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千代姫様の江戸お引越し

2008-09-20 13:55:51 | 歴史
 9月13日のブログで「大名妻子の江戸引越し」を書いた。
元和二年の文書を二つご紹介したが、その近辺での藩庁の記録「日帳」に忠利夫人の引越しの記事が出てこない。どうしたものかと考えていたら、東京在住S氏から、山本博文氏の著「江戸城の宮廷政治--熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書状」に記載がある旨のご教示をいただいた。あわてて本棚から取り出して確認、「大名妻子の江戸居住令」という条があった。これによると、忠利夫人・千代姫の江戸下向は元和九年(1623)十月十四日・小倉出立とある。まことに言い訳がましいが、「福岡県史・近世資料編」に於いては、元和九年十月が抜け落ちているのである。全く偶然のことであるが、どうぞご確認をいただきたい。

 さて元和二年頃から噂されていた、大名妻子の江戸定府がこんなにもずれ込んだのは何故なのだろうか。元和五年には世子光尚が生まれているが・・・

 江戸細川藩邸の間取図を見ると、いわゆる「奥」の建物が大きな構えを持っていることが分かる。何といっても、将軍秀忠の養女である。千代姫の江戸下向に当たっては、幕府閣僚の意思が大きく動いていたようで、当然のことながら忠利が一緒に旅をする事はない。愛息・光尚が迎えた。千代姫は江戸藩邸に入り、亡くなる慶安二年(1649)十一月まで二十六年間を過ごす事になる。
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細川氏動向--兼見卿記から(12)文禄二年

2008-09-19 15:43:57 | 歴史

 続群書類従完成会の「史料纂集」にある「兼見卿記」第一及び第二を使って、「細川氏動向--兼見卿記から」を11回に渉って書いてきたが、これは脚注があって該当項を探し出すのはわりと楽であった。今回からの分は、天理図書館所蔵の自筆本の翻刻である。天理図書館司書の岸本眞美氏が、同館会報「ビブリオ」に掲載されたものである。こちらは脚注がなく、まさしく全文を読み細川氏に係わる部分を引き出して、ご紹介していきたいと思う。大変な作業になりそうだが、岸本氏のご努力に敬意を表しながら、ボツボツと進めていきたいと思っている。
(文禄元年は12月8日改元、天正19年項に含む)

 文禄二年(1593)
■二月四日:(略)侍従女房衆(幽齋女・伊彌)与一郎(忠興)内儀(玉・ガラシャ)へ昨日見舞、今夕帰宅(以下略)
■四月九日:幽齋立置之土蔵瓦損之間、粟田口瓦師甚左衛門尉召之申付訖、以四石五斗請取之罷帰也
■六月廿日:至丹後下向発足、幽齋出陣已来見舞遅々也、仍令下向了(中略)
■六月廿二日:(兼見)城中(丹州多奈辺=田邊)へ罷向(中略)息御ちゃち(茶知丸・細川孝之・休斎)、カケ香三袋、息女御かゝ(加賀・木下延俊室)、紅帯二袋(以下略)
■七月八日:申刻告来而、幽齋筆者長以・安東平三郎至鴨地下人誘引、芝居之処、殿下御弓之衆四十人出合、不慮ニ令口論、長以・安東於当座殺害云々、追■恩斎幽齋留守居也、遣使者、治定之申訖
■閏九月十四日:幽齋上洛、侍従罷下両、入夜被為見舞出京、向幽齋、令対面、即罷帰了
■閏九月十六日:幽齋来、先侍従方へ来、次予新宅へ入来(中略)今度遠国歴年之在陣無別儀、各帰陣目出存之由、別而令祝儀了、食已後帰京了
■閏九月廿三日:未刻幽齋来、於予宅羞夕餐、入夜帰京了、侍従葉茶壷幽齋遣之、侍従祝着仕了
■閏九月廿四日:幽齋へ家康為茶興行請待之云々、予内々罷出之由、幽齋へ相談之、眼中少煩気也、不罷出也(以下略)
■閏九月廿九日:幽齋来、於侍従入風呂、同夕食在之、今夜抑留於予宅、及深更相談
■閏九月卅日:(略)夜半時分与一郎書状・使者来而云、来月三日於禁中御能在之三日在之(ママ)、其内一番ツヽ与一郎可仕之由仰也、能道具等即今夜丹後へ取ニ可被着飛脚之由申来了、幽齋即被相調書状等被申付了、重而与一郎使者、猶道具之事申来了
■十月三日:太閤御参内、塗輿清涼殿橋許マテ御乗輿也、下輿之時御沓与一郎役之(以下略)
■十月十六日:(略)紹巴法橋三ヶ条不審以幽齋申来、一両日撰之令下書了(以下略)
■十月十九日:出京、向幽齋、紹巴不審之三ヶ条注之持参、幽齋見之、猶幽齋注之委細申訖
■十月廿日:斎了、即幽齋来、昨日三ヶ条之内、三輪神号、注之、
今日幽齋へ客契約也、昼会、急帰京了
■十月廿一日:幽齋書状到来(以下略)
■十月卅日:早々幽齋今朝茶湯一会已後、即来之由被申訖
■十一月一日:未明幽齋伏見へ被越了、先日已来太閤伏見ニ御座候、諸大名悉祗候云々、屋敷普請諸大名急速被申付云々、幽齋屋敷之普請申付之由被申、今日も見舞之義也(略)
■十一月二日:(略)幽齋申来而、伏見之普請主屋敷也、時分柄急度不出来、人足当郷之人足両日可相■雇之由申来了(以下略)
■十一月六日:伏見へ人足如先日申付遣了、幽齋屋敷之普請之由申訖
■十一月十五日:幽齋今夜滞留也

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夕焼け

2008-09-18 18:28:15 | 熊本
 ちょうど今、太陽が山陰におちて行きます。その光が雲に写って不思議な景色になっています。迷走台風が上陸するのではないかと、身構えていましたが、どうやら熊本は大丈夫のようです。涼やかな風がありがたいという感じです。スズメ(?)の大群が、近所の木に群れてざわめいているのは、この金色に輝く天空のせいでしょうか。少し場違いに、時折蜩がないています。九月も中旬を過ぎ「随兵寒合」は台風のお導きでありました。

 デジカメで記録しましたが、現在何故かPCに取り込むことが出来ません。その内にこっそり貼り付けておきます。
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江戸証人のこと-- 7 

2008-09-17 14:37:45 | 歴史
【文書11】
 家来有吉頼母佐為証人替指上可申者之覚

    沢村宇右衛門
 右ノ宇右衛門儀ハ越中守取立ノ者二て御座候 知行六千石遣置申候
 今程熊本ニ而用所申付置与をも預置申者にて御座候

    長岡右馬助
 右ノ右馬助儀ハ三齋ためニおいニ而御座候 就其権現様・台徳院様
 御代ニも三齋為証人上置爰元ニ居申候 今程与を預置申候 知行其
 父子ニ而五千石余取申候

    小笠原ひせん守
 右ノ備前守儀ハ幽齋時より居申者ニ而御座候 拙者若年之時より越
 中守我等ニ付申候間爰元ニ居申候 知行高父子ニ而七千石余取申候
 是も与を預置申候

    清田石見守
 右之石見守儀ハ三齋時より召仕候者ニ而御座候 知行高三千石遣置
 申候 是も与を預置申候

 右之者共之証人別紙ニ書付申候間此内いつれに而も頼母佐証人替に
 証人上申候様ニ可申付候 以上
    五月十六日        名判
        証人御奉行衆

【文書12】
          覚

 ■沢村宇右衛門
   国本ニ而用所申付置候
              沢村権正 惣領歳二十二三
              沢村団四郎 宇右衛門兄ノ子歳二十三四
 ■長岡右馬助
   国本ニ而用所申付置候
              長岡八郎左衛門 惣領歳三十一ニ
              長岡平左衛門 歳三十程 
              長岡一角 歳二十一二
    是ハ佐渡守為証人差上申候哉と書付申者之儀ニ而御座候
              長岡ぬい助
 ■小笠原備前守
   国本ニ而用所申付置候
              小笠原民部少 惣領歳四十一二  
                     女子二人三歳二歳
              小笠原隼人正 歳三十五六
              小笠原采女 歳三十一ニ
 ■清田石見守
   国本ニ而用所申付置候
              清田七助 惣領歳廿四五 
                     男子一人三歳
              清田助十郎 歳三十二三

                             以上
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河上彦斎

2008-09-17 08:52:34 | 歴史
 荒木精之先生がどれだけ弁護されようと、どうしても好きに成れないのが「河上彦斎」、佐久間象山を殺害した肥後人である。あることを調べようと、いろいろぐぐっていたら「小説」というサイトに出くわした。ここに「河上彦斎」を主人公にした作品があった。まだ読了には至っていないが、興味の有る方はご一読を
          http://www.geocities.jp/sakuya_iti/novel.html
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江戸証人のこと-- 6 (有吉家・沢村家)

2008-09-16 17:22:55 | 歴史
【文書10】   
   私家来有吉頼母佐(英貴)証人国元へ於遣候ハ為右之替人を差上ヶ可
   申者委敷書付可差上之旨先日被仰下ニ付而唯今申上候

一 沢村宇右衛門と申者越中守取立ノ者二而御座候 近年用所をも申付与なとをも預知行高六千石
   遣置申候 右頼母佐為証人替差上者此者之証人上可申候 左候ハヽ宇右衛門忰沢村権頭并
   宇右衛門おい沢村団四郎と申もの此の両人より外宇右衛門証人さし上可申者無御座候 権正と
   申ものハ年も参候ニ付折々ハ用所をも申付者二而御座候 然共証人於差上申ハ右之権頭儀上
   申にて可有御座候 左候は有吉平吉成人仕証人をも指上申時分ニ成候は右之宇右衛門証人と
   又さし替可申候間左様ニ被成御心得可被下候
一 有吉頼母佐証人之替指上せ申儀ニ御座候は有吉平吉儀せかれとハ乍申頼母佐知行一万八千
   石余無相違申付候 其上家老筋之ものにて御座候条又追付証人差上申にて可有御座候 左様
   ニも候ハヽ如今迄頼母助むすめを平吉為証人其まヽ召置可申と奉存候 両人ノ内いつれ成共
   御差図次第差上可申候 委敷ハ口上ニ申ふくめ候 已上
       五月廿日        細川肥後
          内匠殿
          酒井紀伊殿
          内蔵殿

【文書5-抜粋】
一 有吉頼母佐為証人旧冬六さいニ成申候娘を差上申候 然ハ頼母儀当二月ニ相果申候 則頼母佐
  せかれ平吉九歳二罷成候ニ跡職無相違申付候 然共末幼少ニ御座候間右当地ニ相詰申候 娘之
  儀ハ先国元へ差上せ平吉成人仕用所も申付候時分ニ罷成候は其節証人差上申度奉存候条是又
  御さしつ次第ニ御座候事 以上
      正保二年五月十一日    細川越中守・御書判

追記:10/15 綿孝輯録・巻六十一・・光尚公p279
   「六月、有吉頼母証人之実娘を同妹と被差代度由被仰達候ニ付、証人御奉行よりの御奉書」
  其方家中有吉頼母証人実娘と同妹と被差替度由達上聞候処、代候様ニと被 仰出候、可被得其
  意候、恐々謹言
      六月十四日        杉浦内蔵允
                      酒井和泉守
                      牧野内匠守
         細川肥後守殿
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江戸証人のこと-- 5 (松井家)

2008-09-16 10:43:04 | 歴史
【文書8】
             覚
長岡佐渡守証人之せかれ長岡式部惣領吉松当年五歳二罷成候 病者ニ御座候付長岡右馬助忰縫殿助当年十六ニ罷成候 是ハ佐渡守妹之子にて御座候 右両人之内何れ成とも御さしつ次第差上可申上当春書上申候処ニ国元罷越見申候 是ハさ渡守孫ニ候間是を証人ニ指上ヶ申度候 とかく御さしつ次第と奉存候 以上
      午九月五日      細川ひ後守
           いつミ殿
           内蔵殿
           内匠殿 

【略系図】
 松井康之
   |-----+--長岡佐渡興長===寄之
   ●    |             ∥---+--吉松(直之)
         |             ∥  |
         |             ∥  +--左膳
         |          +--古宇
         +--たけ      |
            ∥--------+--縫殿助
          長岡右馬介


【文書9】
  家来長岡佐渡守(興長)証人之叓
         さと守養子
             長岡式部少(寄之)
         式部二番めノ子
                左膳 年五さい
右之式部少ハ三齋子越中守弟ニ而御座候 只今国元ニて用所申付候 式部少女房ハさと守姪ニ而
御座候 男子二人持申候 兄七歳二罷成候得共病者ニ御座候間弟を召下可申候 右之通度々証人
御奉行衆迄申入候 いまた被仰渡は無御座候へ共佐渡守八代ニ召置可申旨今度上意ニ御座候上ハ
証人之儀仰渡相待申迄無御座候間右之左せん早々召下可申と奉存候 此外さと守近キ親類無御座
候 此由御老中証人御奉行衆へ被仰入可被下候 以上
      五月廿八日     細川肥後守
           出雲様
           丹波様
              参
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江戸証人のこと-- 4

2008-09-16 10:36:49 | 歴史
これは先に「江戸証人のこと--3」としてご紹介してきたものを、時系列的に整合させるため「4」として編集しなおしたものである。
【文書6】
             覚
私家中長岡さと守為証人母久々爰元ニ相詰候処ニ去年六月廿六日ニ相果候ニ付為替指上可申証人之覚

一 長岡式部少せかれ長松男子当年生申候 式部少儀ハ越中守弟ニテ御座候をさと守養子ニ仕国元
  ニ而用所申付置候
一 長岡右馬助せかれぬひ助当年十六二罷成候 是ハさと守妹之子にて御座候 右両人ノ内いつれ
  成とも御さしつ次第差上可申候 右之外ニ式部少惣領年四歳二罷成候せかれ御座候得とも事之
  外病者ニ御座候ニ付書載不申候 此外ニさと守近き親類無御座候
一 有吉頼母佐娘寛永十年より当御地へさし上当年迄十年相詰罷有候 右之娘之儀妹当年四さいニ
  罷成候 それにさし替申たく奉存候 以上
    寛永十九年
     三月十九日        細川肥後守
        酒井
          和泉守殿
          内匠殿
          内蔵丞殿


【文書7】
        証人之儀重而申上覚
家来長岡佐渡守証人之儀去年三月十九日以書付申上候ハ佐渡守養子長岡式部少せかれ吉松長岡右馬助と申者之せかれ縫殿助ハ佐と守妹ノ子ニ而御座候 右両人ノ内御差つ次第差上可申旨申入候然共右之吉松儀其砌より如申入候 尓今病者ニ御座候 彼吉松弟左膳式部少二男にて御座候 此せかれ儀在所にて見申候処ニ一段息災ニ御座候 当年二さいニ罷成候 佐渡守為証人差上申度奉存候 如何可有御座候哉いつれ成共御さしつ次第ニ而御座候 右之趣当五月ニも書付上申候へとも唯今被下ニ付又書付差上申候 已上
     寛永二拾年八月廿三日   細川肥後守
          内蔵丞殿
          和泉殿
          内匠殿

追記:10/15
 長岡佐渡興長母自得院沼田上野介光長女也、寛永十八年六月廿六日死、為証人江戸江被差置候処、先達而致病死ニ付、式部寄之二男左膳後与兵衛政之を以為代可被差遣旨、証人奉行へ被仰達候ニ付、其通可被成旨、十一月九日之御奉書(綿孝輯録--巻六十ニ 光尚公p334~335)

■一筆申入候、長岡佐渡証人之母相果候ニ付而、長岡式部次男左膳被差替度之由示給候趣達上聞候処、右之証人可上之旨被 仰出候、可被得其意候、恐々謹言
  (正保三年)十一月九日            杉浦内蔵允
        細川肥後守殿

■十二月廿九日、左膳登城仕、御名代阿部豊後守殿江謁、御太刀・銀馬代献上仕御礼申上候、先規之通五拾人扶持被為拝領候
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家光二日酔い?

2008-09-16 10:11:53 | memo
 寛永七年六月廿八日越中(忠利)宛て三齋書状(抜粋)

将軍様者廿六日朝草(浅草)前の海にてあミなと被成御引せ御舟遊大御酒候而大炊殿なとも二日酔・三日酔之体ニ候此外珍敷儀無之由候事

 大炊とは土井大炊頭利勝のこと。この時期青山忠俊、酒井忠世と共に三老の一人。
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江戸証人のこと-- 3

2008-09-16 10:02:33 | 歴史
【文書5】については「江戸証人のこと--3」としてご紹介してきたが、時系列的に不具合が生じた為【文書4】を加筆して入れ替えるものである。

【文書4】    
       私家中より証人差上申者之覚
                長岡佐渡守
右之佐渡守母為証人当御地ニ久々相詰居申候処ニ寛永十八年六月廿六日ニ病死仕候事

                有吉頼母佐
右之頼母娘寛永十年より為証人差上当御地ニ相詰申候を右娘ノ妹ニ差替申度候由御断申上候処ニ差替可申旨被仰出ニ付旧冬より右之妹当御地ニ相詰申候事

                長岡監物
右之監物せかれ新十郎寛永十年為証人差上当御地ニ相詰申候事

                長岡かけゆ左衛門
右之かけゆ左衛門娘寛永三年より為証人差上当御地ニ召置申候 此娘之弟小兵衛と申者二差替申度候由御断申上候処差替可申旨被仰出ニ付而小兵へ儀寛永十九年より当御地ニ相詰申候事
                           以上
      正保弐年
         五月十一日        細川肥後
             紀伊殿
             内蔵殿
             内匠殿


【文書5】
                覚 此本留共ハ和田主膳正へ御意にてわたし申候
一 私家来長岡佐渡守(松井興長)母為証人久々爰元ニ相詰申候処ニ寛永十八年六月廿六日ニ病死
  仕候 就其替之儀度々如申上候 佐渡守せかれ式部少輔実子両人御座候内兄吉松(五代・直之)
  ハ当年七歳二罷成候 然共此者之儀さいせん尓に今事之外病者ニ御座候 次男左膳儀当年四歳
  二罷成候をさと守為証人替差上申度奉存候 右式部少輔は越中守弟ニ而御座候を佐渡守養子ニ
  仕於国本用所申付者ニ而御座候
一 長岡右馬助(三渕重政)と申者之せかれ縫殿助と申者当年十九歳二罷成候 是ハさと守妹(たけ)
  之子ニ而御座候 此外ニ佐渡守身近きもの無御座候条右両人之内ニては左様儀差上申度奉存候
  間御指図次第急度召下可申候事
一 有吉頼母佐為証人旧冬六さいニ成申候娘を差上申候 然ハ頼母儀当二月ニ相果申候 則頼母佐
  せかれ平吉九歳二罷成候ニ跡職無相違申付候 然共末幼少ニ御座候間右当地ニ相詰申候 娘之
  儀ハ先国元へ差上せ平吉成人仕用所も申付候時分ニ罷成候は其節証人差上申度奉存候条是又
  御さしつ次第ニ御座候事 以上
 正保二年五月十一日    細川越中守・御書判
      紀伊守殿
      内蔵丞殿
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お腹周りはポニョ

2008-09-15 14:36:50 | 徒然
 自転車を漕いでウロウロしているお陰で、体重が二キロほど減ったが、スマートになるかと思えば腹囲は一向に変らない。いつも出かける道筋は、1,5㌔ほどの長さで10㍍(?)ほどの高低差がある坂道だ。このだらだら具合が「行きはよいよい、帰りはこわい」道で、それでも腰も上げずに何とか上りきる脚力はある。ところがここ一週間ほど腰痛に悩まされている。原因としては、自転車としか考えが及ばない。腹筋が弱っているなー、お腹廻りはポニョである。何事も急な動きをしないようにして、ぎっつり腰に成らぬよう用心しきりである。サイトで「腰痛 腹筋」で検索、腹筋強化の方法を模索している。
 
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二度三度クシャミに秋の気配かな

2008-09-15 10:34:16 | 熊本

   秋来ぬと合点させたる嚔(くさめ)かな   与謝蕪村

 いつも早起きの妻が、今日はコトリとも音をたてず、ぐっすり寝込んでいます。私はと言えば、大きなクシャミをして痛めている腰に大ショックを受けて思わずへたり込んでしまいました。
外はどうやら雨の気配です。熊本は藤崎八旗宮秋期例大祭の時期になると、「随兵寒合」といって急に秋の気配が深まっていきます。どうやら今週いっぱいは雨模様のようですし、台風の行方も気になります。皆様どうぞ風邪など召しませぬように・・・

   二度三度クシャミに秋の気配かな  津々(おそまつ)
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