津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

氏家卜全と大木土佐

2011-08-12 17:24:10 | 旦夕覺書

 氏家卜全と大木土佐のそれぞれ立派なお墓(碑)が某サイトで紹介されている。

    氏家卜全  http://www.m-network.com/sengoku/haka/bokuzen450h.html 
    大木兼能  http://www.m-network.com/sengoku/haka/kaneyoshi450h.html

 両家は時代を経てその子孫が細川家に仕えた。氏家卜全孫女は細川忠興二男・興秋室(飛鳥井中納言持信再嫁)である。大木兼能は加藤清正の死去に際し殉死したが、孫兼憲が忠利に仕えた。その室は加藤清正側室竹の丸殿の妹である。大木家はその直系とともに家老有吉家、旧主佐々家にその血が流れている。

 この二人が相まみえる事があったかどうかは定かではないが、共に長嶋城の戦(長嶋一向一揆)に加わっている。卜全は信長軍の武将として第一次侵攻に加わり戦死した。今読んでいる文書「大木土佐」では、「氏家卜全なとヽ申信長秘蔵之侍大将討死仕候」と記している。
上記お墓の写真によると、その場所は戦死した場所とされているが、長嶋輪中からはいささかの距離があり、当時の戦いが輪中に留まらず広範であった事を窺わせている。

 一方大木土佐は奇跡的に生き残りその高名を残した。その高名は秀吉も知る処となり、佐々成政家臣の道につながり肥後との係りができ、加藤清正との縁へとつながった。文書「大木土佐」によると、大坂で中風を煩った土佐を清正が見舞い、その頭を自らの膝にのせ、「何とそして此度本復仕候へ其方相果候へハ我片うで落たると同前なり」と言い落涙したと記す。そのことが土佐をして殉死ならしめた「根本此一言」であったという。

 文書「大木土佐」の読み下しは、あと数文字が解読できずに苦労している。
完読した際には提供者のお許しをいただき、全文をご紹介したいと思っている。

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秀吉を襲った大地震

2011-08-12 16:00:42 | 書籍・読書
 秀吉を襲った大地震―地震考古学で戦国史を読む (平凡社新書)
 
                   平凡社

 現在、大木土佐に関する文書を読んでいる。この中で謹慎中の加藤清正が、伏見城の大地震の際、秀吉を見舞うべく大木土佐にその是非を問うている。一番に駆けつけた(?)清正に秀吉は感激して謹慎を解いたという話は有名である。
細川忠興も駆けつけており、沢山の人が建物の下敷きとなり圧死した様を書き残している。この大地震の前、坂本城に在った秀吉は天正の大地震に遭遇ほうほうのていで逃げ帰り、伏見城の築城を命じたとされる。考古学的見地でかかれた論考のようだが、この大地震がいかなるものであったのか、表題に引かれて注文した。

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