津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

氏家卜全の没年令その他

2011-08-15 09:40:39 | 歴史

 先のブログ「殿」で卜全の没年令を38歳と書いたら、疑問のコメントをいただいた。
38歳とするのは先祖附によるものである。ある史料は59歳と記している。先祖附によると年令以外にも、巷間伝えられているものとはいささか相違が見られる。例えば先祖附に於いては卜全の子供たちについては、嫡男・左京助、二男・元政(肥後氏家氏)、三男・内膳正としている。
  ウィキペディアでは没年令については「美濃国諸旧記には59歳で死去したと書かれている」とし、三人の子息については 「大坂の役で活躍した氏家行広(荻野道喜)は、直元の次男である。」としている。兄弟の関係については武家家伝-氏家氏に於いてもウィキペディア同様の扱いが成されている。
二男、三男が逆転しているが、先祖附に記載ある家康の御内書に付された大久保相模守・榊原式部少輔・井伊兵部太輔連名による御内意之奉書によると、「氏家志摩守(元政)殿 同内膳正殿」とあり、二男・三男の順位は先祖附の記述が正しいものであると考えられる。
 卜全の死が38歳であるとすると、元政は卜全17歳くらいの時の出生と成るがこれはありえる話だろう。兄左京介になると卜全15~6歳の時の子かということに成り、黄ランプが点灯することに成る。

 ウィキペディアに於いても、肥後氏家家先祖附にもとづき異説としてでも良いから取り上げていただければ幸いである。又諸兄におかれてもいろいろな情報をご教示いただければ幸いである。

 肥後氏家氏は慶長六年忠興に依り小倉に召し寄せられた元政を初代とするが、二代元高は父の死去に伴い四歳で跡目を相続している。忠興は氏家家の家来両人を召しだし、「随分守立可申」旨の御意があったと記されている。その姉が忠興の二男・興秋室である。

コメント
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