CiNiiに近衛信尹と黒斎玄與(阿蘇惟賢)に関する論考を見つけた。
近衞信尹の旅 : 『三藐院記』と『信尹坊津紀行記別記』 http://ci.nii.ac.jp/els/110000466749.pdf?id=ART0000846092&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1313746904&cp=
黒斎玄與の旅 : 『玄與日記』
http://ci.nii.ac.jp/els/110000219211.pdf?id=ART0000600839&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1313747249&cp=
共に白井忠功氏(立正大学文学部教授)によるものである。
近衛信尹は文禄三年天皇の勅勘により、薩摩の坊津に配流となる。一方黒斎玄與(阿蘇惟賢)は阿蘇宗家と対立し天正十五年矢部(熊本県矢部町)の浜の館から逃れて島津氏を頼った。
島津氏はといえば、梅北の乱における島津氏の係りをとがめられ、細川幽齋をして当主義久の三弟・歳久の切腹が申し渡された。幽齋の努力に依り関係者の処分が滞りなく薦められ、島津家の危機も一段落する。そんな時期に坊津に近衛信尹がいたのである。信尹が京都を発するとき、細川幽齋は是を見送っている。歌道の師幽齋を向かえ島津義久は歓待するが、一方弟・歳久の死を要求する秀吉の使者でもあった。この微妙な時期この四者の間ではどのような交流があったのか、興味は尽きない。勅勘が許されて帰京する信尹に、黒斎玄與が供をする。その道中の模様を記したのが「玄與日記」である。兼見卿記などによると、帰京した信尹を幽齋は温かく迎えている。玄與もまた、薩摩依頼の久闊を叙したことであろう。四者の関係がもっと詳しくわからないだろうかと、この論考を読んでいるが・・・・