上妻文庫に大変貴重な史料が残されている。上記表題のごとくであるが、副題に「堀部常彦御切米を御合力米に直れ候例」とある。
我々は色々な史料を読むとき夫々の言葉に出会っているが、御切米はともかく御合力米については、定かなる定義を承知しないままである。畏兄・中村勝氏はご自身のサイトで貴重な史料を公開されている。
http://www1.odn.ne.jp/higo-nakamura/kanwa7.html
表題の史料は、「御合力米についての定義」について語られているわけではないが、大変興味深く示唆に富んでいる。
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堀部常彦御切米を御合力米に直れ候例
御奉行所取遣 慶應三年より
甚三郎養子
堀部常彦
右常彦儀良之助様(細川護美)御廣敷御番御雇被仰付置候處旧臘御中小姓被召出御切米拾石五人扶持御足給五石被下置候處御小姓役等別禄被下置候を御合力米被下置候處此節御切米被下置候ハ如何と申事ニ而別紙例書差出御次より問合ニ相成申候 成程別紙之面々ハ御合力米被下置候 惣躰御合力米ト申ハ子孫ニ引キ御切米と申ハ其身一代限之ものニ而例書之内二男末子等ハ子供有之候ヘハ跡式被立下候付御合力に而被下置候方宜候得共嫡子養子別禄被召出候ハ其身一代ニも及不申親病死又ハ隠居仕候ヘハ親之御知行を被下置其身ニ被下置候御給扶持御擬作に被召上候ニ付嫡子養子之別禄ハ御切米ニ而被下置候方至當ニ相見申候 御合力米被下置候ハ御近習一手迄ニも無之小堀清左衛門抔も御合力米被下置候得共例より例ニ亘り究極届兼たるニ而可有御座則先例別紙之通ニ付以来御近習一手たり共嫡子養子別禄被召出候節ハ御切米ニ而被下置方ニ可有御座哉 二男末子等ハ別禄ニハ不被召出年數積候ヘハ御米可被増下と相究居申候
但御合力米と御切米と御渡方之差別も有之候哉と御勘定所に問合候處差別ハ無之由御座候
本紙之通取しらへ申候處御合力米と申ハ士席御切米と申ハ軽輩ニ被下置候 名義ニハ無之哉御近習一手ハ都而御合力米被下置御次書抜之通機密間書抜之内辛嶋大城ハ其分ニ候得共其外之面々ニハ様子も違イ可猶勘考仕候様御口達之趣奉畏候 成程御知行跡御中小姓ニ相成候ハヽ御合力被下又御知行被召上等ニ而追而御扶持方迄被下置御中小姓被召出候面々被召仕追而御役付被仰付候ヘハ矢張御合力米被下置右様之家々を相續御中小姓と唱へ弐拾石之跡ハ拾五石拾五石之跡ハ拾石被下置惣而跡式被立下候 又ハ軽輩より御取立御擬作被下置候跡も御合力米弐拾石被下置其跡ハ拾石四口歩御使番列被仰付候御格ニ而其身軽輩より御中小姓被仰付候を一代御中小姓と唱へ右ハ先一代限ニ付御切米ニ而被下置候 御合力米ハ子孫相續一家を被立置候ニ付御切米と御合力米と相渡方之員数は本文ニ認置候通多少ハ無御座候得共御切米ハ三月迄被召出候得ハ無月引被渡下四月後被召出候ヘハ月引ニ而被渡下御合力米を被下置候ヘハ四月後たりとも無月引全渡下候由嫡子養子親懸ニ而別禄被下置候ニ一家を立居候同様ニ而ハ結構過可申夫故御馬役等御蔵米取之嫡子等御侍ニハ相違無之候へ共惣而御切米ニ而被下置候 右様之人躰親跡相續御中小姓被召出候節ハ御合力米を被下置候 右之次第ニ付御切米と申ハ強テ軽輩ニ被下名義ニハ無之其身一代限被下名義ニ付嫡子養子別禄之節ハ御切米ニ而被下置候方相當可仕哉と奉存候