細川綱利に係る記事を再確認しようと取り出してみる。
柳沢吉保との関係を記す内容は一級資料では確認できないが、傍証としてはありえたことではないかと思わせるところがある。
ヤフーオークションにちょっと気になる品物二点を見つけました。あと四日、さていくらまで値が付きますことやら・・・・
江戸期九曜紋入り陣笠 こよりで編み漆懸けされたものらしい。
三齋流置合之図 22丁 26.4×18センチ 安政四年重朝写
http://www.asahi.com/politics/update/0320/TKY201203200350.html
先にブログでご紹介した宮脇先生提唱のプロジェクトに。細川元首相が動き出されたようだ。
何とか一日も早く着工の運びとなるように祈るばかりである。
宮脇昭・(財)国際生態学センター所長の提唱を実現させよう
最近勉強不足でブログに書くネタが枯渇状態である。何とか幅を広げたいと思い「地図散歩」というカテゴリーを追加した。
新熊本市史の地図編は、「江戸時代のゼンリン地図」とも言ってよい位に細川藩士の屋敷を知ることが出来る。
この地図を片手に自転車で走り回って、いろいろレポートしようかと思っている。
随分くたびれた自転車をまずは処分して、新しい自転車を購入しようと考えている。
左の膝が痛いのがいささか気になるところだが、車にのせて目的地近くの100円パーキングまで出かけて、そこからサイクリングという訳である。
ダイエットにもなり一石二鳥ということもある。
ただいま地図とにらめっこをしながら、まずはどこへ出かけようかとイメージトレーニングに励んでいる。
新熊本市史・地図編では、一つの地域が時代を異にして4~5枚存在しているから、同じ屋敷でも住人の入れ替わりがある。
このあたりも確かめておかなければならないし、事前の勉強が大変ではある。
暖かくなったら動き出したと思っている。そしてカテゴリー「地図散歩」でご報告しようと考えている。乞うご期待・・・
細川家家臣山内氏を家紋から探ってみると興味深いものがある。
(十五)山内 山家 丸に一文字紋
(十六)山内又四郎家 丸に柏巴紋
(十七)山内九平太家 井桁菱に丸紋
(十八)山内忠次郎家 不明 ( )数字は「や」二冊之内、南東三五(棚番号)に於ける番号を示す。--細川家家臣略系譜から
山内氏は遠祖を首藤氏とするという。丸に一文字紋はまさしく首藤山内氏の紋である。(十五)
(十六)の山内氏は丸に柏巴紋で 土佐の山内氏(丸に柏紋)に連なるものではないかと考えられる。
(十七)については家紋からの関連性は見受けられない。
問題は(十八)の忠次郎家である。家紋は不明であるが、川口恭子氏編の「細川家家臣略系譜」は初代を首藤刑部丞義通としている。
先祖附を見ていないのでよくわからないが、これは初代ではなく遠祖ではないのか・・・・
武家家伝から引用させていただくと、山内氏の発祥として【 『尊卑分脉』をみると、親清の子義通に山内刑部丞と傍注がされ、『山内首藤氏系図』では、義通の子俊通に「相模国に住み、山内滝口を号す」とある。首藤氏は十二世紀前半の義通・俊通父子のころ、相模国鎌倉郡山内に土着して山内首藤を称するようになったようだ。】としている。
忠次郎家の首藤刑部丞義通なる人物は、上記「武家家伝」にある義通と解してよいのではないか、先祖附がこのあたりをどう書き表しているのか調べる必要がある。
(十七)はともかく、他の三家は祖を首藤氏とすることは間違いなさそうである。
四家の先祖附を読んで召出の経緯をしらべると、いま少しこれらの関係が詳しくなるのではないかと思っている。
1,000以上の家があると、まだまだ見落としている所が沢山ある。
昨日の13:30から二時間花岡興史先生を講師にお迎えしての史談会3月例会は、部分(ぶわけ)御舊記の勉強である。
活字化されていない初見の史料で非常に興味深い内容である。
又、是に先立ち細川家資料に登場する剣客雲林院(うじい)弥四郎について、一級資料五点を通じて貴重な一流剣客の動きを見る。
一方我が肥後藩には多くの宮本武蔵に関する資料が存在するが、大方の史料はかなりの時代を経てからのものであり、これらと比してのお話も興味深い。
そんな中会員のDr高田先生から御著「宮本武蔵玄信の実像」を拝受した。(平成14年7月発行B5判253頁 税込み2,500円)
私にとってDrは、肥後学の師匠とも云うべき方であるが、あのとんでもない大作「平成肥後国誌 上下巻」の編著者であられる。
又、毎回「肥後孝子伝」についてお話をいただいている高本先生は、その冒頭特に被災地のガレキの処分について、四月に発足する政令指定都市熊本としても受け入れに尽力すべきではないかとの発言をされた。
最近全国的にやや風向きが変わりつつあるようだが、やはり「反対のための反対」の動きがメディアでも幅を利かせている。
自らが被災者となったらどうするのかを聞いてみたい。単なるエゴはよろしくない。
3月18日20時11分 読売新聞のWEBによる報道である。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120318-OYT1T00530.htm?from=main4
宮脇昭・(財)国際生態学センター所長の提唱を実現させよう でなんとかこの工法が実現出来るよう応援したいと思っていたが、こんなに早くGOサインが出るとは思わなかった。これでガレキの処分や防災林の着工に弾みがつくことだろう。震災に係ることについては何事につけ、この様にすばやい対応が必要である。と云っても宮脇先生の提唱は随分早くから仰っていたことなのだが・・・・・
「かくびんた」というユニークな(失礼)HNをもった方が、「江津湖の水辺から」という素敵なブログを発信しておられる。
私が幼い時期遊び場にしていた江津湖の情報がもり沢山でいつも拝見している。
http://kappabori.blog40.fc2.com/blog-entry-378.html#comment367
この「かくびんた」とは、大型タナゴの一種金平のことを指すのだと仰る。タナゴを熊本では「びんた」と称するのは承知しているが、「かくびんた」という名前は知らなかった。というのも私が吊り上げていたのは、体長3センチほどの小さなタナゴばかりであったからだ。私たちはこれを「しびんた」と読んでいた。ウイキペディアのお世話になると、「しびんた」とは、福岡・佐賀・熊本でバラタナゴを呼ぶ呼称だとされる。
最近熊本出身の人間国宝・画家堅山南風先生の随筆集「想い出のままに」を読んでいたら、最初の項「望郷五景」の冒頭に「しびんた」という一文があった。
画家として「青紅色のシビンタのウロコが美しく・・・・」と観察しておられる。そして次の句を披露されている。
紫ビンタの紫かなし川からし
そうか「紫色のびんた」かと、合点したところである。絶滅危惧種としてリストアップされている「バラタナゴ」だが、「しびんた」も「がくびんた」も数が随分減っているようだ。久しぶりに江津湖に出かけてボートを操って「びんた釣り」も一興だなと思っている。
豊後街道京町口に広大な墓域を持つ古刹往生院である。右手の道路が熊本城から登る豊前街道(旧国道三号線)である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%80%E7%94%9F%E9%99%A2_(%E7%86%8A%E6%9C%AC%E5%B8%82)
http://blogs.yahoo.co.jp/zenibakojoudoji/18747044.html
http://tempsera.at.webry.info/201105/article_16.html
熊本在住の歌人で、歌会始の選者や召人などを勤められた安永蕗子先生が亡くなられた。
ご老齢とはいえ残念のきわみである。
http://kumanichi.com/news/kyodo/culture/201203/20120317001.shtml
平成15年歌会始において選者を勤められ折、御題「町」を詠まれた歌が深く印象に残っている。
も お
楠若葉 はやくれなゐに炎ゆるなり 城下しばらく男の町なれば
ご冥福をお祈り申し上げる。合掌
かっては祇園神社といっていた現在の北岡神社である。西南の役に於いては西郷軍の陣所が構えられた場所として知られる。
http://www.genbu.net/data/higo/kitaoka_title.htm
このサイトでは「非常に良い境内だが、入口がわかりにくいので、熊本へ来ても、気付かない人がいるかもしれない。」と記されているが、熊本駅に程近く周辺整備の結果、神社の前に新幹線口にいたる大きな道路が走り、その存在感が新たになった。細川家の菩提寺妙解寺跡(北岡自然公園)や、細川家ゆかりの安國寺も歩いて10分の範囲にある。(但し坂道あり・・・)
http://yumeko2.otemo-yan.net/e443453.html
70を過ぎた今、私の本業はこのブログかもしれない。建築設計を生業としてきた私だが、まだ私の力を借りたいと仰る方が居られてここ一年ほどある設計に係ってきた。
本業に立ち戻ってみると、数年間の空白があっての難解な法令の解釈やいろんな申請の難しさに難儀しながら、それでも何とか着工にこぎつけることが出来て、今日は起工式に出席した。一日歴史の世界から離れて久しぶりの建築家としての世界に戻った。なんとなく晴れがましい感覚が嬉しい。
多分私の人生の最後の作品になるのではないかと思うとなんとなく嬉しく、現場のいろんな人たちとの交流を楽しみとして、これから数ヶ月現場に通うことになる。
そんな中、今日は数件のメールや、一昨年に亡くなられた高名な先生のご遺族からお電話をいただいて、またまた歴史の世界に引き戻されている。
いずれが本業なのか判らないが、建築の世界は若くしてなくなった父の面影を追って、そして生きる術であったし、趣味の延長であった現在の歴史狂いは私の死に至るまでの道楽であると最近理解している。どちらも本業と思っているのだが、学問的門外漢の私の歴史の勉強は四級・五級の史料の世界に存在しているようだが、それでも良いではないかと達観している。
ある方から、このサイトの将来を心配していただいている。有難いお話ではあるが、まったくの話いつくたばるか判らない。
受け継いでいただける方が居られれば、快くバトンタッチしたいと思っている。お申し出いただきたい。(あと5年は往きたいと思っていますけど・・・・・)
ガレキ処分がなかなか進まない中宮脇先生のご提言は素晴らしいアイディアだと思っていたのですが、法的にいろいろ制約があるようです。
ガレキ処分と防潮堤建設、緑の復活、なんとか実現できるよう協力していきたいものです。
「日本の古本屋」でようやく探し当てた日本風俗史学会の「風俗-第32巻第2号」が手元に届いた。(平成5年10月号)
お目当ては、山岸素夫氏の論考「神童女耇姫伝説『梅の薫』と耇姫画像の考察」である。
http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/preview?eid=23b54fe507564068bd129d27202c2e85&t=1331802928538
四歳で亡くなられた耇姫の愛らしい行動や言葉が、近侍して人であろうか詳細に書き残されている。
画像の耇姫に重ね合わせ、一段とその死が惜しまれてならないし、そのお墓を自らのお墓の隣にされた御父齊茲公の悲しみの深さが想われる。
全文をご紹介したいところだが、これは著作権の関係があり難しいところだが、許される範囲でいつかご紹介したいと想っている。
これは九州横断長崎・熊本・大分広域観光協議会が作った「坂本龍馬と勝海舟が通った九州横断の旅」というパンフの一部をスキャンしたものである。
文久四年二月十五日細川藩領豊後の佐賀関に上陸した海舟と龍馬の一行は、豊後路を通って十九日熊本の城下に入った。
二十日海舟は横井小楠の元に龍馬を遣わしている。二十一日旅宿を出立高橋町に至り海を渡つて二十三日長崎に入っている。
このことについては 2009-06-22 のブログ「勝海舟細川藩領内を往く」に書いたのでご覧いただきたい。
海舟は熊本藩の本陣に宿泊したと記している。この場所は現在の熊本市一新幼稚園だとされ、一般的には明治天皇の熊本行幸(明治五年)の際の行在所となったところとして知られている。かって海舟・龍馬が同じところに宿泊したことを天皇はご存知であったろうか。
http://blog.goo.ne.jp/np4626/e/5efc56d4832b8457a5618bc969a0edab
新熊本市史の「地図編」には五葉の新町高麗門周辺の地図が紹介されているが、この場所を御客屋とするものはない。
一番古い絵図には隣地に小さな御客屋が見えるがその後は、やや離れた古城堀端に面した道筋に移っている。
かっては木下氏(秀吉正室高台院の甥)の屋敷跡であった。
この一新幼稚園の場所にはいつの頃御客屋は移されたのだろうか。
木下三郎左衛門・佐分利加左衛門下屋敷→木下三郎左衛門下屋敷・佐分利作右衛門添屋敷→藪弥次右衛門下屋敷・佐分利十左衛門屋敷(一部)→藪内蔵允下屋敷→藪図書下屋敷と変わったことが伺えるのだが・・・これらの屋敷跡を整備したものであろう。
いずれにしろ熊本城玄関口である西の入り口・新町御門からわずか300メートルほどの位置である。
帰りの旅路再び熊本に入った海舟・龍馬一行は同じ御客屋に泊まったことだろう。「 肥後矦より使者あり」と海舟は記している。そして再び龍馬を横井小楠の元へ遣わしている。豊後路の途中では細川隅之助(澄之助=細川護久)に出会い、各藩の諸侯が帰国の途に着きつつあることを知らされる。
時代が動き始める時期である。