肥後國誌に「甲斐宗運嫡子親秀肥前竜造寺隆信ヨリ謀書ヲ以テ騙サレ一味シテ父ニ背キ隆信人数ヲ合志郡津久礼迄差向シテ、宗運視聴シテ兵二百人ニテ急ニ御船ノ城ヲ打出、肥前勢ヲ追崩シ此所ニテ戦ヒ、其戦死者ノ体骨ヲ埋メシ所」として、肥前塚を紹介している。
どうやら熊本市龍田町上立田に在るらしいが、その詳細な場所が判らないでいる。ご存知の方はご教示給わりたい。
肥後國誌に「甲斐宗運嫡子親秀肥前竜造寺隆信ヨリ謀書ヲ以テ騙サレ一味シテ父ニ背キ隆信人数ヲ合志郡津久礼迄差向シテ、宗運視聴シテ兵二百人ニテ急ニ御船ノ城ヲ打出、肥前勢ヲ追崩シ此所ニテ戦ヒ、其戦死者ノ体骨ヲ埋メシ所」として、肥前塚を紹介している。
どうやら熊本市龍田町上立田に在るらしいが、その詳細な場所が判らないでいる。ご存知の方はご教示給わりたい。
先に 益城町寸志侍 を書いた処、福原地区の安田様のご子孫からご連絡をいただいた。
地区にはその由緒を示す「先祖記念碑」が建立されているという。その碑文と読み下し文をおおくりいただいた。
その祖は大友義鑑→大友義長→大内義隆に遡る名流である。その末葉は枝を広げ十有五氏に広がったという。
後述するがその多くが寸志侍となっている。
記念碑全文と読み下し文をご紹介する。
先祖記念碑
左京大夫大内義長者大友義鑑第三子而承大宰
第(大カ)弐義隆後椎 子関西弘治二年四月七日興毛
利氏戦軍負自殺孤子四郎逃在豊後長 山内長
重石垣原之戦奮闘而傷其子三郎重直始遊肥後
其孫三郎兵衛居益城郡豊原荘慶安応承(承応カ)之間為
其荘屋子理兵衛孫伝七世襲其職為伝七有四子
各分家 四郎為山内氏祖善四郎為山内九鬼二
氏祖市三郎為安尾安田二氏祖甚三郎為宮田川
添米村吉山四氏祖四家之後今分為十有五 夫
積善之家必有慶我族以衆百年名流之 而錘下
在民間非祖宗積徳之所致者何其蕃滋能如此為
子孫有 可一日忘其遺 惜哉家乗 不可微
其詳 及不謀不 明歳月悠久或 有不知其所
由者於是乎一族相議建石録其世系之 鳴後之
為子孫者日夕思其遺慶以益興家興祖宗之霊亦
将有悲也勉 哉明治三十三年一月一五日
後一族謹識
■碑文から作成した略系図
大友義鑑---+---義鎮(宗麟)---義統 「義鎮・義統の略系図」
|
| 右京大夫 太宰大弐
+---大内義長---大内義隆---関西---四郎
山内長重---三郎重直---三郎兵衛---理兵衛---伝七---+---四郎(山内家) |
+---善四郎(山内・九鬼家)
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+---三郎(安尾・安田家)
|
+---甚三郎(宮田・河添・米村・吉山家)
■福原地区の「寸志侍」
・伊藤家、井芹家 ・後藤家 ・(針峯の先祖記念碑) ・山内家 ・九鬼家 ・安尾家 ・安田家 ・河添家 ・吉山家
・米村家 ・宮田家 ・守田家 ・園山家 ・福島家 ・中村家 ・宇佐川家 ・山陳の宇佐川家 ・原田家
■有禄士族基本帳には「九鬼・安尾家」を除く各家の名前が多く存在している。
寛永13年1月8日江戸城総郭の造営始まった。細川藩受け持ち丁場は銭亀橋・御成橋見付枡形164間余、総奉行・長岡佐渡(興長)、役人衆4,376人鉄砲衆1,000人。
銭亀橋とは細川家上屋敷(龍之口邸)の前にあった道三堀の道三橋の上流程近い場所である。昭和35年に発刊された「江戸城とその付近」をみると、銭瓶橋としている。初めて橋が架けられたのは慶長期のようで「慶長見聞集」には、この場所から銭瓶が発掘されたと記されているという。小さな橋だが切絵図でも確認できる。
一方の御成橋見付の枡形は延べ164間に及ぶ大工事であった。幸門とも呼ばれ将軍家の増上寺参詣の道筋に当っている。溜池につづく外堀に虎の門・新橋・幸御門(御成橋門)・土橋・難波橋・芝口橋と続いていた。現在は新橋駅から有楽町よりの高架の下となっているらしい。櫓門は津軽家が担当した。
そしてこの普請に関し前年忠利は妹・万姫(烏丸氏廉中)に、借金の申し入れをしている。
わさとひきゃくを以申入候、来年御普請のため、金子ならハ五千両、銀子ならハ三百貫目かり申たく候、
壱年三歩之利息にて来年中に元利すまし可申候、はやく銀子とゝのひ候ハゝ、その月にしたかひ右之
りぶんのさん用にすまし可申候、しゃく状あて所ハそもしあて候ましく候、くはしき事ハ 三齋さまより御
申候へくそうろう、かしこ
(寛永十二年)八月十二日
あら川殿
(御自筆)
尚々、わけ見へ申様ニ人にかゝせ申候、金子ハ五千両にてハこれなく候、くハしくはしゃく状にかき申候
事ニ候、已上
あら川とは万姫付の老女で、細川家から付けられた人であろう。
本文は祐筆が書き、尚々書は忠利に自筆である。祐筆には五千両と書かせたが、本当の処はまだ大きな金額なのであろう。
祐筆の手前ちょっと見栄をはったか?天下普請は多くの大名の経済的負担となって苦しめる事に成る。
先に 三斎好の茶室「しょうこう軒」と「こうしょう軒」 を書いた。
熊本の泰勝寺跡(立田山自然公園)にある茶室・仰松軒が、天龍寺内・常真院(真乗庵とも)の茶室と間取りが大変類似している。
それもそのはずで、その起し絵図にもとづき大正11年にこの地に再建された。
どこかに図面を持っていたのだが、前回は見つけ出すことが出来ずご紹介できなかった。
6日積み上げた資料を整理していて発見、それがこの図である。水屋の関係もまったく同じで、仰松軒では西側(図面右手)に鎖の間が続いている。
寛永平塞録がオークションに登場、昨日の18:30が締め切りだったのだが・・・・・応札を忘れてしまい、30分後に気づいてアウト
日本の古本屋でも三件ほど見受けられるが、5,000~6,800円もする。落札価格は2,200円だったというから残念至極・・・・・・
あと数日で齢を重ねることに成るが、ぼけが進行している。
いかにも正月らしい内容の、長岡監物に宛てた明石権太夫の書状である。
あて先の監物とは米田家の二代目興季である。
明石権太夫については種々資料にその名前が散見され、侍帳にも見受けられるが「細川家家臣略系譜」には登場していない。
○ 明石権大夫 供之者・御扈従与也 三百六十六石壱斗九升六合三勺 (於豊前小倉御侍帳)
御小姓組衆 同上 (肥後御入国宿割帳)
御側組外衆 三百石 (真源院様御代御侍名附)
三百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
文中に登場する七之助は細川光尚の二男、後の新田支藩となる利重(正保三年十二月十五日生~貞享四年八月五日没)のことである。
又、左馬允は監物の嫡男・是長(三代目)、新十郎は二男・是正(無嗣断絶)のことである。
前の年10月末に勃発した天草島原の乱は、幕府の府内目付けの初期の対応が悪く、本格的な戦いへと移行していった。
細川藩主・忠利の世子・光利(光尚)は12月6日に熊本着、翌日宇土に出陣、14日に帰陣した。18歳の初陣である。
正月一日に原城総攻撃が始まり、板倉重政が戦死するという結果を招いた。
正月4日光利(光尚)は、三斎の陣代・細川立允とともに兵数8,000人を従え川尻を発して渡海、5日に有馬に着陣する。
2月27日の原城落城まで、寒い中での悲惨な戦いが始まった。
細川幽斎 中秋日付自筆消息 読有 大名歌人 丹後田辺城主 掛軸
細川幽齋手翰 中秋日 (愛知文教大学用箋の釈文あり)
貴札令拝読候 先日被寄
高賀之刻 他出候故 不能 賀=駕
面談候 御残多候 近日梅津
御逗留之由 御遊覧存候 先々
紅柿一折被懸御意 好物候間
則賞玩仕候 萬事以面
可申入候間■筆候 恐惶敬白 ■扌に 尤 に カ =なげうつ
中秋日 玄旨(花押)
年末・年始のお休みも明けて、今日からいよいよ仕事始め方が多いことでしょう。今年一年ご苦労様です。
熊本城内奉行丸に在った奉行所(政府)も、正月四日が仕事始めでした。
○ 四日政府出初
一、麻上下着四時(10時)出仕之事
但上張有無勝手次第
一、御熨斗坊主持出候間座順之通
頂戴仕候事
御奉行
御目附
御郡御目附
御感状頭
右之通一切ニて詰間江罷出候事
右之外御勘定所御目附御郡代
根役等有之候節ハ本行一同ニ罷出
候事
一、正福寺定例御祈祷之神酒供物等
出候間坐順之通頂戴欠席之人江者
供物等少完包分出席之坊主より
差出候事
但追々御祈祷之品々出候節右之通ニ
候事
付紙
文化十三年正月四日神酒供物出不申
候付寺社方江承候処戌年より御省
略中ハ御礼計出候由
一、五日頃まてハ御用番茂見計早引
不苦加番も十五日まてハ早引勝手
次第之事
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正福寺八幡山
真言宗の寺院、通称仁王さんと云われ、お寺の前の通りを「仁王さん通り」と今も称す。これは仁王門の一対の大きな仁王像があることによる。
細川忠利公が肥後入国した寛永年間に宥山法印が建立して歓喜天を安置、故に聖天寺とも称した。
細川家の祈願所でもあり、細川家からの代参があり、真言秘密の雷の祈祷が行われた。
ここには大変貴重な熊本城の天主にのみ使われた適水瓦が保存されている。
清正公のお墓・浄池廟(本妙寺)の横手に、論語猿の祠がある。「清正が論語を読んでいて、座をたった間もなく猿が朱筆で本を塗りたくった。そこで清正はその猿に論語猿と名づけたという」(平成肥後国誌から) このお猿さんの頭を撫でると勉強好きになるともいう。遅まきながらなでなでに出かけましょうか!!!
正月早々ナタリーコールの訃報が報じられた。アンフォーゲッタブルは特に私の大好きな曲で、今でも時折聞いている。
ナッッキングコール+ナタリーコール父娘が一緒に歌う構成画面は大変印象的である。
https://www.youtube.com/watch?v=jiptUZiJMvE
若い頃聞いた洋楽は忘れる事はない。今でも口笛がついて出る。
紅白歌合戦の徒党を汲んでの若い人たちの歌は何とも受け付けない。しっとりとした大人のミュージシャンが活躍できる場がもっと多く増えてほしいものだ。
ご冥福をお祈りしたい。
新春を壽ぎ謹んで御祝詞を申し上げます。
ご健勝にて輝かしい新年をお迎えの事と存じます。
皆様にとりましてこの一年もご多幸な年でありますよう心からお祈り申し上げます。
本年もどうぞ宜しくお願い申しあげます。
平成二十八丙申年 元旦 津々堂敬白