Sightsong

自縄自縛日記

ボトムアップ型社会への回帰に向けた指針

2007-05-06 22:53:18 | 政治

教育基本法の改変に伴い、ある意図で「公共性」「愛国心」条項が加えられた。
過去の戦争にまつわる諸事実は、曖昧に「なかったこと」にされている。
国のために命を落とした方々について、ある意図で美談がつくられている。
憲法改定により、国際協力の名のもとに再軍備がすすめられようとしている。

こういった書き方が妥当かどうかはともかく、看過できないことだ。
少なくとも、直接的・間接的に口出しはしなければならない。

しかし、多くの人々は無関心であるように見える。
最近の選挙の特徴として、有権者は候補者のマニフェストなどほとんど考慮せず、パフォーマンスやインパクトのみによって左右されている、と指摘されている(たとえば、石原都知事勝利のあとの林真理子のコメント)。もっとも、タレント議員など最近にはじまった話ではない。そう、おそらくはわれわれのメンタリティは、ずっと、「その程度のもの」だったのではないか。

西原博史『良心の自由と子どもたち』(岩波新書、2006年)と、田村理『国家は僕らをまもらない』(朝日新書、2007年)は、憲法学の立場から、このような社会や教育のあり方に、「その程度」のわれわれが対峙するための材料を提供してくれる。

両者に共通していることは、日本国憲法の位置づけを、「ほっておくとろくなことをしない」(田村氏)国家権力に対して制約を加えるものだと明言していることである。また、政府による画一的な意識教育についても、あってはならないことだと極めて強い拒否を提示している。

なかでも、教育という制度がわれわれの意識醸成に果たす役割は大きいのであるから、これをカリキュラムの問題や公共性欠如の問題に押し込めてはならないだろう。

西原氏は本書後半に進むに従い、極めて重い問題意識をつぎつぎに突きつけてくる。

いくら良心の自由が保障されていても、国家が「正しい」良心内容の判定を独占できるところでは、その保障に何の意味もない。そして、国家が正しさの判定を独占するのは、国家が人格形成の過程で「正しい」良心内容に向けた教育を押しつける場合である。」(112頁)

もとより子どもの思想・良心の自由を否定するような教育は、現代の社会では教育の名に値しない。子どもの奴隷化と呼ぶのが相当だろう。そして、子どもに拒否権があることを押し隠し、子どもの無知を利用するような卑怯な策略で子どもに国歌を歌わせようとする発想が通用するならば、それは子どもの人格無視につながる。」(130頁)

「(略)国家の側で推奨すべき一定の理念を作り上げても、人々の道徳的な意識が食い違うことから起こる社会問題を沈静化する上で、さほどの効果は期待できない。そのため、特定の立場を掲げることを断念し、多様な考え方があることを大切にしながら、その多様な考え方の中から子どもがしっかりした考え方を作っていけるよう支援することに大きな意味がある。」(148頁)

政府の政策を理解できるよう学校が教育を施すべきだという考え方を学校現場が真に受ければ、イラク戦争や自衛隊派遣の意義を唱えられなければ「平和を願う世界の中の日本人としての自覚」に関して失格、という基準になりかねない。」(160頁)

そして、田村氏もスッパマンやパタリロなどの例でイメージを膨らませつつ、次のように述べる。

みんなのランドセルがいろんな色で、大きすぎるのと同じように、みんな人と違うところと同じところがある。だから「そのままでいいんだよ」と言いあえる社会をつくりたい。必死になって多数派のふりをしないと安心して暮らせない学校も社会ももうたくさんだ。特に国家=権力が合理的根拠もない校則等で画一化を率先し、強制することを許すべきではない。」(200頁)

ここには、国レベルの問題から卑近な日常的問題、犯罪問題からいじめ問題、性教育問題など、とにかく多くの問題が交錯している。

ただ言えることは、数の論理による政治を簡単に許してしまう現状(郵政民営化が焦点の選挙で選ばれた人たちが、別の問題でその数を行使している)、文部科学省→教育委員会→学校→校長→教師というトップダウンのシステムを許してしまう現状については、かなりの部分、それを検証しようとしないわれわれにかなりの非があるということだ。

西原氏、田村氏、それから立花隆のいうように、「ある方向に簡単に進む」大政翼賛社会ではなく自分たちを自分自身で守る社会を目指すためには、「個」の強さが必要とされるのだろう。これを空虚な観念だと切り捨ててしまえば、もう終わりである。

しかし、「個」の瑣末な行動の積み重ねが重要だと考えるべきだ。「その道の権威」や「それなりの地位」でなくても、発言はできるはずなのだ。それが、会社でも、小学校の父母会でも、マンションの理事会でも、自治体の選挙でも、「個」の集合体としての社会を作る源であり続けるものである。お上の決めたことに不満をもらしつつも従うトップダウン型社会に対し、私はこれをボトムアップ型社会と呼びたい。

ことは単純ではないが、まずは身近な一歩。そのための指針になりうる本である。