Sightsong

自縄自縛日記

眼を向けると待ち構えている写真集 『中電さん、さようなら―山口県祝島 原発とたたかう島人の記録』

2008-01-26 23:59:31 | 中国・四国

先日、『けーし風』読者の集いに出席したら、一坪反戦のYさんにいきなりこの写真集を頂いた。『中電さん、さようなら―山口県祝島 原発とたたかう島人の記録』(那須圭子、創史社、2007年)である。(いつもいろいろとありがとうございます。)

上関町はわりと郷里に近いこともあって、原子力誘致をめぐって様々な軋轢があったことは知っていた。しかし、それ以上に見ようと思わなければ、見えないものだ。その眼を向けると、この写真集はこれまで積極的に知ろうとしない態度をとっつかまえようと待ち構えているようだ。那須氏の先達である写真家・福島菊次郎は、「あのねえ、那須さん。無知であることは罪なの。僕がそうだったからよくわかる。」と語っている。

上関町の事情については、鎌田慧『原発列島を行く』(集英社新書、2001年)に良く整理されている。半島の先っぽに原発予定地の長島がある。しかし、そこは長島に住む人たちの眼に触れることは少なく、むしろその先に浮かぶ祝島と眼と鼻の先という関係になっている。そして、これまで繰り広げられてきた世界は、接待攻撃、カネ=麻薬による患者の増加、それによる地域社会における人間関係の崩壊、不十分な環境影響評価、地方行政の日和り、醜い脅し、強制的な事業着工。どこかで聴いたようなプロセスがここでも行われている。(ところで、『原発列島を行く』には、現厚労大臣がこれまでに行ってきた行動も書かれており興味深い。)

そのようななかで、自分たちの生活権を守るために抵抗し続けている方々の姿が、写真にうつし出されている。取材を通じて得られた「生の声」も、なるほどと思わせることが多い。町長選や町議会選挙では、ずっと賛成6:反対4程度の集票のようだ。しかし、それは個人の声を反映したものではない、と主張している。小さい町なので、賛成とする地域では、反対するとばれてしまい、住んでいけなくなるのだ。それどころか、反対する議員や候補と話をするところを見られただけで、「反対派」と見なされてしまうという。これも、間接民主制の欠陥だろうか。

するとお婆さんは私の腕を引き寄せて耳打ちした。「わたしら心から賛成しとるわけじゃないんよ。下の者は上の者に何も言えんでしょ。じゃけえ仕方なしにね。」「じゃ、本当は私たちといっしょ?」そう聞くと、お婆さんは黙って大きくうなずいた。そのうえ1年分もあろうかと思える大量の干しワカメまで持たせてくれたのだった。
 これは第4章で触れた、あの推進派の元町長のお膝元の白井田での話だ。


『夜顔』と『昼顔』、オリヴェイラとブニュエル

2008-01-26 10:23:26 | ヨーロッパ

ルイス・ブニュエルが1967年に撮った『昼顔』をもういちど観てから、その40年近く後の話として作られたマノエル・ド・オリヴェイラ『夜顔』(2007年)を観に行こうと思っていたが、結局ぎりぎりになってしまい、ようやく銀座テアトルシネマで『夜顔』を観た帰りに『昼顔』を借りて帰った。

それにしても、なぜオリヴェイラがブニュエルを。これまでのオリヴェイラの発言でも、過去の映画作家に関してブニュエルのことを言及したものをみたことがない。ブニュエルが遺作『欲望のあいまいな対象』(1977年)を撮ったのは76歳で、それは逆にオリヴェイラが急に多作になり年1回のペースで映画を撮り始めた年齢にあたる(ジョアン・ベナール・ダ・コスタ『マノエル・デ・オリヴェイラ 映画の魔力』、『マノエル・デ・オリヴェイラと現代ポルトガル映画』(エスクァイア・マガジン・ジャパン、2003年)所収)。今年でオリヴェイラは100歳になる。

それではオリヴェイラが晩年のブニュエルの意志を受け継ぐのかといえば、それは全く異なる。画面に横溢する「妙な力」、ほのめかし、悪意など、言葉で言えば共通しているものの、映画から受ける印象が全く異なるのだ。何が違うのだろう―――オリヴェイラの記者会見(2006年)では、このような発言があった。「ブニュエルは人間を信じてはいなかったが、謎というものへの敬意は持っていた。」「ブニュエルにとって神は謎で、謎だからこそ神が好きだった。謎を知ることは不可能だから、彼は謎に対して敬意を持っていた。そういう意味において、ブニュエルは神への敬意を持つ倫理的な人間だった。他者への敬意がなければ、自由はないのだ。」(『夜顔』パンフより)

『昼顔』では、貞淑な妻が、夫を愛するが受け容れることができず、夫の命令で召使に鞭で叩かれたり、襲われたり、縛られて泥を投げつけられたりとマゾヒスティックな妄想を抱く。そして、遊び人でもある夫の友人に、娼館の存在を教えてもらい、本能的に昼間の娼婦として働くようになる。それにより倒錯した欲望が昇華され、夫を真っ当に受け容れることができるようになる。しかし、娼館で夫の友人に見つかり、さらには嫉妬に狂った客が夫を銃で撃つ。動くことも話すこともできなくなった夫を見舞いにきた友人は、その秘密を夫に告げることによって、こんどは夫が妻を受け容れることができるようになるのだ、と言って部屋に入っていく。秘密を告げたかどうか、妻は見届けられなかった。―――と書いても問題がある話だが、実際に再見して、こんなにインモラルで「人間を信じていない」表情が恐ろしい映画だったかと感じる。

『夜顔』では、40年後、その妻を、夫の友人が、コンサート会場で見つけるところから始まる。逃げる女を執拗に追い、ディナーで過去と秘密について話し始める。夫の友人は前作と同じミシェル・ピコリだが、妻は前作のカトリーヌ・ドヌーヴからビュル・オジェに変わっている。

オリヴェイラらしい、脇腹が痙攣しそうに面白くうっとりするシーンが多発する。ピコリが過去の話をバーテンにするシーンの、鏡を使った視線の交錯。幾度も挿入される、ドヴォルザークをバックにしたパリ市街の鳥瞰の奇妙さ。ホテル前の柱越しにピコリが眺める彫像の「視線」の持つ意思。ディナーシーンでの、ただ笑顔で飲み食いをしつづけるピコリの息遣いと口の音。大傑作だ!

オジェ(ドヌーヴ)はピコリに対し、「本当に40年前に夫に秘密を告げたのか教えてくれ」と迫る。それに対し、ピコリはにやにやして「どう思うのか」と問い返す。オジェは激昂して立ち去る。謎は謎のまま残されてしまい、観ているこちらにも、しこりや欲求不満ではなく、謎が残る。他にも、仕掛けがいくつもありたまらない。

それにしても、何故これまでのように日比谷シャンテ・シネで上映しなかったのだろう。箱はなんでもいいが、パンフにシナリオの採録もなく執筆者が貧弱すぎる。