所用で仙台に行ったついでに、古本屋「火星の庭」に立ち寄った。強烈に寒かったので、併設されているカフェでなにか飲んでから帰ろうと思っていたのだが、本の物色で新幹線の時間になってしまった。とてもいい感じのお店で、今度新宿の「模索舎」のペーパーでも紹介されるそうだ。
ここで、『映画批評』1972年10月号を買った。ちょうど大島渚の『夏の妹』が公開されたばかりで、竹中労による大島批判や、原正孝(『初国知所之天皇』を撮った)による『夏の妹』の技術的な解説と批判、が含まれていたからだ。独特の竹中節はともかく、原論文はとても面白い。印象批評が幅をきかせている映画にあって、このようなテクニカルな見方はいまなお新鮮だと感じる。帰宅してから、ヴィデオを参照しながら再読した。
○『夏の妹』は、16ミリによる撮影を35ミリにブローアップした(当時)珍しい手法である。
○フィルムはおそらくフジのネガ。そのために粒子が粗すぎるものになっていることが失敗だ。逆にシャドーが青みがかるフジの特色が活かされるシーンもある。
○ピンボケを多発することが未熟、移動撮影が下手。カメラマンの吉岡康弘はスチール写真が本業であり、アリフレックスの扱いに習熟していない。
○バスや車のなかに露出をオーバー目にあわせ、外を白くとばすシーンが秀逸。
○主演の栗田ひろみを、レフ板を単純に使って捉えた映像が秀逸。
○全般に、(完成された従来型の映画と違い)映画へのフェティッシュ性をあえて排除している。しかし、排除したはずの残滓をあえてそこかしこに残しているのが、映画的世界にどっぷり浸からない大島渚のいやらしさである(否定的に)。
といった論旨だ。
しかし、いま観ると、粗粒子もピンボケも手持ちカメラのゆれも全く気にならないどころか、なお生々しさの魅力を放っているように、自分には感じられる(70年代の写真ムーブメントである「プロヴォーク」がなお新鮮であることとも共通する)。そして、「映画へのフェティッシュ性」は、職人的な技術によるものよりも、こちらのほうにこそ感じてしまう。
じつは、ヤマトゥに接近し、見かけ上安定化し、観光的視線にさらされる沖縄という大島渚のバックキャスティング的な捉え方は、この論文でも、もちろん竹中労にも受け入れ難かったのではないか。もちろん、それが公開当時から先に顕現する事実の一面であっても、あっけらかんと示してしまった大島渚が批判されたことは当然とも思える。そして、挑発的であったとも言える。要は、いまなお存在する、「誤解と錯覚から生まれるメロドラマ」(仲里効『オキナワ、イメージの縁』、未来社、2007年、による)としての沖縄のことだ。
これを、『ナギサ・オオシマ』(ルイ・ダンヴェール、シャルル・タトムJr.、風媒社、1995年)では、軽妙さを装いつつ日本というアイデンティティを問いかけようとした失敗作だとしている。そして『大島渚のすべて』(樋口尚文、キネマ旬報、2002年)では、「死人が歩いている」ように見える、現在から未来へのビジョンを描いたものだと位置づけている。未来へのビジョンだったかもしれない『夏の妹』が、実は、いまでは死人たちがうごめく「現在のパラレルワールド」になっているとみれば、いまでこそ傑作性が顕著になってくるということかもしれないと思う。
その意味で、仲里効も含めて指摘する映画の裂け目は、栗田ひろみが「畜生!沖縄なんか日本に帰ってこなければよかったんだ!」と叫ぶシーン(ここでは、武満徹の音楽も止まる)が大きなものだろう。「死人たちのパラレルワールド」の虚構性や欺瞞性がいきなり提示されるわけである。私としては、映画の裂け目に、殿山泰司が南部の戦跡でビールを飲みながら暗黒舞踏のようによろめく「ひき」のシーンを加えたいところだ。
原論文で秀逸とするシーン① グラビア的に撮影された栗田ひろみ
原論文で秀逸とするシーン② シャドーのような色温度が高いところで青みがかるフジの特質と鮮やかな赤色との対比
原論文で秀逸とするシーン③ スチール写真家ならではの、上から捉える新鮮さ 「シルバー仮面」を歌いながら歩く栗田ひろみと石橋正次(『シルバー仮面』でも、『夏の妹』脚本の佐々木守がやはり脚本を手がけていた)
「畜生!沖縄なんか日本に帰ってこなければよかったんだ!」 すき間っ歯
暗黒舞踏のようによろめくタイちゃん