Sightsong

自縄自縛日記

現代ジャズ文化研究会 セルゲイ・レートフ

2008-12-07 23:54:03 | アヴァンギャルド・ジャズ

ジャズ評論家の岡島豊樹さんにお誘いいただき、「現代ジャズ文化研究会」(渋谷・世界史研究所)に足を運んだ。新潟大学の鈴木正美教授が代表として進めている「現代ジャズ文化研究 ヨーロッパ・ジャズを中心とする比較文化論的考察」の活動の一環であり、今回は、モスクワの音楽家セルゲイ・レートフを呼んで話をする企画ということだった。

サックスやフルートなど管楽器を扱うセルゲイ・レートフは、故セルゲイ・クリョーヒンとの共演がいくつかある。『ポリネシア 歴史概論』(1988年、Victor、原盤は旧ソ連のMelodiya)でのクリョーヒンとのデュオ、『Don Carlos』(1986年、IntermediaRU)での支離滅裂な「ポップ・メハニカ」における意外にまともなフルートのソロなどを聴いて出かけた。

会合は、2氏に加え、主催メンバーのジャズ評論家・横井一江さんや副島輝人さんなどを含めて20人弱。レートフ本人による短い論文『ソ連邦、ロシア、およびソ連邦崩壊後の地域における新しい即興音楽:生成の歴史と現在の状況』を、まず鈴木さんがかいつまんで説明し、その後質疑応答の時間になった。

論文の内容自体が、KGBの監視する地下音楽としてのジャズ、独自進化を遂げた極めてユニークなジャズについてまとめてあって、とても面白い。そして、レートフ自身が「専門的な批評家や音楽学者は、まったくといってもよいほど即興音楽に関心がないこと、そしてオフィシャルな音楽学や音楽ジャーナリズムがこの問題においてまったく不適切であることを念頭におくと、ミュージシャン自身が音楽史の欠落を埋めなければならないのである。」とすることが、位置付けとしてわかりやすい。

質疑で興味深くおもったのは、ロシアの都市の違いである。「特別な場所」であったレニングラード/サンクトペテルブルグは、音楽コミュニティがひとつで皆お互いに見知っていたのに対し、モスクワはいくつものコミュニティが並存して他人関係があったということ。そしてブレジネフ政権崩壊後もっとも厳しい85-87年あたりを経て何でもできるようになったが、90年代後半以降、モスクワが中心地になってしまっているということ(Long Armsレーベルの設立、スペースDomの設立)。いまはモスクワが音楽家にとってカネを稼ぐ場所になっているのだという。

私が尋ねたのは、多彩な音に聴こえるレートフの演奏技術についてだ。しかし返ってきた答えはそのようなものではなかった。助言を求めたひとからは、トランペットを吹く口ではない、クラリネットを吹くにはパワー上の問題があるといわれてレニングラード製のサックスを買ったが、1ヶ月で壊れた。非常に品質が悪く、サックスの形をしただけのものだった。もう24歳になっていたので誰かに師事することもできず、すべては独学なのだ、と。

なお、楽器は当時ほとんどなく、リードなどもお古のものを西側から演奏に来る音楽家にもらっていたという(「big, big, big treasureだった」)。いまはリコーのリードを愛用しているそうだ。

最後に副島輝人さんが、ロシアジャズの特性として考える点をとにかく短く表現してほしいと尋ねた。レートフの答えは決して短くはなかったが、次のようなものだ。ソ連時代にジャズを演奏することは、「mental opposition」であった。「今日ジャズを演奏する者は、明日祖国を裏切るだろう」とまで言われていた。その意味で非常な圧力だった。そしてガネーリン・トリオ、アルハンゲリスク、セルゲイ・クリョーヒンら偉大な個性を輩出したが、西側の音楽家と会ったときには、お互いを押しのけるような個性を感じた。それに対して、ロシアのジャズは、「聴衆との近いコミュニティ」であり、アジア人のサイコロジーとも近いものがある―――。

終わってから、『ポリネシア』にサインをいただいた。このクリョーヒンとのデュオが、レートフ自身のはじめてCD化されたものだが、自分は持っていないのだ、ということだった。

レートフがいくつかCDを持ち込んでいたので、レートフの最近の主な活動である「TriO」(トリー・オー:3つの穴と、トリオとをかけたものだそうだ)が、トゥヴァ共和国出身のヴォイス・パフォーマーであるサインホ・ナムチラックと共演したCD、『Forgotton Streets of St. Petersburg』(2005年、Leo Records)を買った。実はその夜も渋谷でレートフのライヴがあったのだが、諸事情で諦めて帰った。

家族が寝てから、2回ほど続けて聴いた。レートフが自ら論文で表現するように、「フーリガン的なパンク風の、ジャズやブルーズ、フーガや民族音楽のパロディの混合物のようなもの」であり、その混沌にサインホの超高音から低温、倍音を使う声が絡み、聴く側が気持ちよく解体される。

ところで、会合では研究報告集の冊子が配られて、これを帰宅してから通読した。横井一江さんの「即興音楽であるからこそ音楽家のネットワークが成立している」とする論文や、北里義之さんの「内破されたジャズ」「閉鎖系から開放系への移行」などの論理が興味深いものだった。

●参照 ロシア・ジャズ再訪―セルゲイ・クリョーヒン特集


『細菌戦が中国人民にもたらしたもの』

2008-12-07 08:37:47 | 中国・台湾

日本軍による細菌戦の歴史事実を明らかにする会(編・著)『細菌戦が中国人民にもたらしたもの ― 一九四〇年の寧波 ―』(明石書店、1998年)を読んだ。

いまだ南京大虐殺や従軍慰安婦と同様に歴史修正主義の対象とされている七三一部隊だが、ここには、被害者の側からの事実検証や声が集められている。

1940年、杭州近くの空港から飛んだ日本軍の飛行機が、寧波上空で、米や麦とともに、ペスト菌を人為的に持たされたノミを散布した。空から降ってきた麦を口に入れた住民はその日のうちに発病、最終的には寧波だけで100人以上の死者を出している。日本軍の化学兵器工場は中国東北部に多くあったが、攻撃対象としてはこのような中南部にも及んでいた。

そして、ペスト禍を食い止めるため、感染者を急造の塀の中に閉じ込め(隔離されたら死は必至なので逃亡者が多く、連れ戻されもした)、ペストノミ散布地域は最終的に中国の判断で燃やしている。これにより命だけでなく、財産を失って充分に補償されないという悲惨な二次被害も生んでいる。

他の地域では、日本軍が置き忘れていったかのように毒おにぎりを置いて、それを拾って食べた現地のひとびとが急死するようなこともなされていたという。

「生身の人間である中国の受害者たちと顔を合わせ、その訴苦を直に耳にし、かつ日中双方の、すなわち加害と被害とに関するさまざまな文書資料にも目を通すことによって細菌戦事実の一端に触れた者として、細菌戦の実相を、できることならその全貌を明らかにしなければなるまい、とりわけ今生きている遺族それぞれの胸奥で身もだえして止まない亡者たち(不謹慎なと咎められかねないことを承知の上であえて亡者と呼びたいのは、日本国政府が、謝罪はおろか細菌戦の事実そのものを認めていない現状では、彼らは成仏の仕様がないからである)の、人間としての尊厳を証しなければならない。それがわれわれの責務である。端的に言って、それがわれわれの立脚点なのである。」

●参照 盧溝橋(中国人民抗日戦争記念館に化学兵器が展示されている)