この数日間ずっと、尹健次(ユン・コォンチャ)『思想体験の交錯 日本・韓国・在日1945年以後』(岩波書店、2008年)を読んでいた。
本書の構成は、日本の敗戦と朝鮮の解放(1945-46年)、両国憲法と朝鮮戦争(1947-54年)、55年体制と安保闘争(1955-64年)、日韓国交開始から朴政権終焉まで(1964-79年)、韓国民主化運動の高まり・日本の歴史教科書問題(1980-89年)、従軍慰安婦問題・金大中政権・北朝鮮問題(1990-)といったようにクロノロジカルになっている。一貫して著者が指摘するのは、日本人が日本人であるための覚悟と責任を放棄していることであり(それは狭隘なナショナリズム論ではない)、無知・無自覚であることの罪である。もちろんこれを読む私にとっても無関係ではありえない。視線が向けられているものは、戦争責任であり、天皇制であり、差別や抑圧であり、そしてそれを下支えする無思想だということになる。
「ここで在日論と関わって、日本人が朝鮮人に接して、最初につまづき、あるいはためらうのは、朝鮮人をどう呼ぶかである。普通は、「朝鮮のひと」ないし「朝鮮の方」と呼び、ほとんどの場合、「朝鮮人」という言葉は使わない。(略)
「アメリカ人」とか、「イギリス人」と呼び、またときに「中国人」と言うことはあっても、なぜ「朝鮮人」とは言わないのか。そこに歴史的に蓄積されてきた、日本人にとっての民族問題・植民地問題の重みがあるのは言うまでもない。「朝鮮人」とすんなり言えないこと、それがまさに「日本人」の問題なのである。」
今後、戻りつつ確かめ、納得したい点はいくつもある。マーキングした指摘は以下のようなものだ。
○8/15が終戦記念日として定着したのは1955年頃。ポツダム宣言の受諾・回答が8/14、玉音放送が8/15、大本営からの停戦命令が8/16、降伏文書の調印が9/2。戦争終結が8/14または9/2でないのは、「聖断=玉音放送=終戦」とする「国体」の継続性とそれを記憶化しようとした国家の主導があった。
○日本では、敗戦後、政治犯の釈放に時間を要し、最終的には占領軍の命令によってなされた。これは、敗戦を革命に転化しうる政治的前衛が失われていたことを意味する。
○日本国憲法には「日本人」の世界だけが描かれている。これは、脱植民地化のプロセスを覆い隠し、「単一民族国家」「伝統」「象徴天皇制」をセットで提示する役割を持った。マッカーサー憲法草案では「人民」という言葉が使われたが、これは「国民」にすり替えられ、基本的人権の保障も「国民」に限定された。
○近代日本の成り立ちを考えるとき、天皇制と朝鮮蔑視観は表裏の関係にあった。それは日本で国のかたちを考える力をそぐ役割を果たしてきた。天皇制の議論がタブーとなるとき、朝鮮、アジア、戦争責任、戦争体験について語ることは難しくなる。このタブーを軸に、日本社会全般で批判的知性が広範囲に衰退する。タブーがタブーを呼び、社会全体に思考停止・沈黙が無自覚のうちに沈潜してしまう。
○憲法九条に基づく「平和主義」は、一種の「気分」のようなものとして知覚され、日本特有の「民族問題」の存在を覆い隠す役割を担った。在日朝鮮人の国籍剥奪がいとも簡単に実施された点からみても、戦後日本の「平和主義」は出発点から大きな欺瞞を抱え込んだものとなった。
○吉田茂は朝鮮に蔑視観をもち、GHQに朝鮮人全員の強制送還を要求した。これに対し、同じく反共・親米主義者であった李承晩は親日派を数多く登用し、以後韓国における歪みを生む一因となった。また、李承晩政権以降、韓国では共産主義に与する(あるいは「アカ」との濡れ衣を着せられる)ことは死にも直結する禁忌となった。
○韓国軍事独裁時代の政治を評価するにあたって、それは親日派という植民地時代の遺産を引き継いでいることから、「強圧か同意か」という論点は独裁政治に協力し、さかのぼって植民地統治を支持した人たちを正当化するような結論をもたらしかねず、さらには現代日本の韓国との関わり方を容認することにつながりかねない。
○サンフランシスコ講和条約は、西側との単独講和という意味で親米というだけでなく、日本はアジアを軽視する路線を自ら選び取ったということにもなる。
○戦後、在日朝鮮人が往々にして「犯罪者」として報道される記事の作られ方があった。力道山が在日一世であることが公にされたのは活躍時から20年のちの1978年になってからであり、マスメディアは「国民的英雄」として虚構の世界を放映しつづけた。こうした日本社会にはびこる朝鮮人に対する民族的偏見は国家権力によって主導されたものであると言うしかない。(これは、現在のプロ野球選手の出自を曖昧にしようとする歪んだ日本社会の姿でもある。)
○「国民教育」論における戦前教育の否定は、あくまで自由・平等・人権の普遍主義によるものとされ、国内の被差別・被抑圧者およびアジアの民衆を視野に入れた民族集団としての日本人の反省・自覚によるものとは言いがたかった。
○1965年日韓条約の最終局面にあっても、その後、日本の政治家や軍人が同様の妄言を繰り返すことになる「日本はいいことをしようとした」発言を、日本側代表が行った。
○岩波の『世界』は、1970年代から朝鮮問題に取り組みはじめる。一方、保守・右派系の雑誌が露骨な反共・反民主化・反朝鮮のキャンペーンを繰り広げていった(文藝春秋『諸君』創刊が1969年、産経新聞『正論』創刊が1973年、PHP『Voice』創刊が1977年)。
○教科書に関しては、日本の政府・与党は過去のアジア侵略・植民地支配の事実を隠蔽し、日本は戦争の「被害者」であるとして、それに基づく検定姿勢をとり続けている。
○日本で反差別を考えるとき、「沖縄」と「在日」は深くリンクしている。
○日本において「民族」は拒否反応を示す言葉であり、それと関連して、歴史や現実から切り離された議論が少なくない。知識人はいとも簡単に民族や国民国家を「虚構」と決め付けてしまう。むしろ民族や国家にまつわる記憶が忘却・隠蔽・美化される方向に操作され、「非暴力」「寛容」「共生」「和解」ばかりが強調される。そこには植民地支配や民族問題の重さから逃れようとする姿勢がかいま見え、歴史責任と加害責任を棚上げにする「共同幻想」の発想が読み取れる。
○90年代以降、女性たちや市民団体が中心となって従軍慰安婦などの問題に取り組んできたことは、日本の戦後史において特筆すべきことである。
○21世紀になり、粗野な反「北朝鮮」キャンペーンにおいて、拉致被害者に成り代わって北批判・攻撃を行うナショナリストたちは、日本の過去を覆い隠す絶好の機会ととらえ、ひたすら北の悪行を叫び、あたかも戦争を煽動するような態度をとった。これは戦後日本で積み重ねられてきた暴力と不正義に対する抵抗、排他主義・人種差別・偏見・蔑視に対するたたかいを無にしかねないものであった。
実際には、読んでいて、社会への間接的な加担者のひとりであるこちらを刺すものもあれば、首をかしげてしまうようなものもある。敗戦時に、天皇制の維持、平和憲法の構築、沖縄の軍事利用がセットとしてすすめられたことは事実ではあるが、それと現在の天皇制・平和憲法のあり方とを同一視することには少なからず抵抗を感じてしまう。天皇制のことはともかく、戦後、平和憲法を「とらえ直し」、9条を大事にしてきたという実績は評価にあたいすることであるはずだ。憲法の出自を改憲の根拠とする保守勢力の理屈には限界を見出すべきではないかとおもう。
しかし、違う視線には必ず真実が含まれていることも確かだ。朝鮮からの視線、朝鮮への視線、その非対称さといったものを考える際に、何しろ無知・無自覚であるこちらには大きな刺激になった。475頁の大著であり5,000円近くする本だが、ぜひ一読をすすめたい。