かなしいかな酷い風邪をおして土日も働き、北海道に行ってきた。おかげで全然体調がよくならない。それはさておき、往復の時間を使って、加々美光行『中国の民族問題 危機の本質』(岩波現代文庫、2008年)を読んだ。
主にチベット自治区、新疆ウイグル自治区、内モンゴル自治区に対する中国共産党のスタンスや、それをうみ出した背景について丹念に説明してくれる良書である。なぜ自治区なのか、なぜ1つの中国でなければならなかったのか、なぜ周辺部での反発とそれに対する抑圧が頻発するのか、ダライ・ラマの発言をどうとらえるべきか、といった疑問に対する考えが検討され、整理されている。
著者は、中国からの離脱独立も含めた「民族自決主義」に関して、どのように位置づけられてきたのかを追っている。
○孫文の「国家」に対する認識は、辛亥革命以前には「漢人中心の国家」程度であった。
○その後孫文は「五族共和」論、さらには「五族」に限定されない全民族をひとつの「中華民族」に融合させるとの観点にいたる。しかしこれは、漢人への同化にすぎなかった。
○1922年、国共合作の検討時、共産党は「自治=連邦制」を主張していた。
○毛沢東は1935年、明確に内蒙古の分離権までを含めた自決・連邦主義を主張している。しかしその後、この考えは曖昧で後退したものとなっていく。
○1949年の中華人民共和国成立により、民族自決権の正当性の根拠である反帝反植民地の課題が基本的には克服され、それ以降なお民族自決権を主張することは、むしろ帝国主義勢力に加担することとみなされていく。
○1958年大躍進以降、民族自決権の問題は階級闘争に帰着するものとみなされ、社会主義革命の利益が民族自決権に優先するものとされる。そのため「民族」はブルジョア的な考え方と位置づけられてしまう。
○大躍進・人民公社化以降、漢民族の移住推進と遊牧民の定住化促進により、所有制の変革だけでなく、生活様式そのものが破壊される。たとえば新疆ウイグル自治区では、漢民族の数は1955年には全人口の1割強にすぎないが、70年代後半にはほぼウイグル族と同じ数にまで達している。
○1980年、胡耀邦は過去の民族政策を極左的なものとして否定する。しかし、党内の反発により、すぐに保守的な傾向に逆行する。
○江沢民以降、宗教信仰自体を社会主義の発展とともに消滅すべきものとして扱い、これに党による監視と制限を加えるという発想に至っている。これはまた、民族も未来において消滅されるべきであるとする観点と同一の歴史観である。
○胡錦濤は、89年パンチェン・ラマのチベット入りと前後してチベット自治区党書記に起用され、僧侶たちに死刑を含む重罪を課すなど抑圧を行ってきた。
もちろん、これらは社会主義に対する純然たる考えの変遷からくるものではなく、国民党との間、ソ連との間、米国との間などにおけるマキャヴェリズムが機能したものと、著者は述べる。そして、それらの結果としていまなお民族問題がいびつな形であることに関して指摘する。
「諸民族間の連帯とは、本来各民族の個体性を消去することによっては決して達せられるものではない。むしろその種の連帯は未来のコミューン主義的なゲマインシャフト(共同社会)を目指すものであればあるほど、決して諸民族の個性の画一化を意味しないはずである。社会主義が遠い共産主義の理想として描くゲマインシャフトにおいてはあらゆる種類の個性がのびのびと開花し、個性による相違が相克的なものとして働くよりは、相互共鳴的なものとして働くというふうにイメージされなくてはならなかったはずだ。
ところが文革派の民族論における勤労階級のインターナショナリズムはそのような諸民族の個性の開花を前提とした連帯を目指すものではなかった。むしろそれは漢民族内部においてまず地域差・個人差を無視した生活・生産の様式の画一化(均質化)をもたらし、しかる後、その画一化された生活・生産の様式を少数派諸民族に押し拡げるという方向を目指すものだった。」
「文革派の民族論と今日の近代化路線の民族論との間には根本的な差異が見られないといってもよいことになる。」
2008年3月からのチベット「騒乱」に関して、不幸な鎮圧のなかでも希望が持てることは、やはり著者が指摘しているように、中国が軽視していた非国家主体(もちろん、個人ベースのインターネットもその主役)が、国際的な影響力を持っていることが見えてきたことか。こうして見たとき、自分たちの側にも、「反日」などという言葉で括って、もやもやとまとまって顔が見えない敵であるかのような扱いで済ませていることの愚かしさも見えてくる。