Sightsong

自縄自縛日記

安世鴻『重重 中国に残された朝鮮人元日本軍「慰安婦」の女性たち』

2012-07-07 23:48:20 | 韓国・朝鮮

ようやく、新宿ニコンサロンで、安世鴻の写真展『重重 中国に残された朝鮮人元日本軍「慰安婦」の女性たち』を観ることができた。

もともと、この写真展は開催直前に、ニコン内部の一方的な決定により中止になっていた。しかし、東京地裁・高裁が「ニコンサロンを安世鴻氏の写真展のために仮に使用させなければならない」との仮処分を発令し、ニコンは写真展を開くこととなった。ニコンサロンのサイトには、「これに従って、安世鴻氏に対し新宿ニコンサロンを仮にご使用いただくことといたしました。」とある。

「仮に使用」とは何だろう。使用するとは事実であり、仮も何もないのではないか。

今回のニコンの行動や態度は、企業としてのアイデンティティを自ら貶め、企業価値をドラスティックに下げるものだった。多くの人は、ベトナム戦争をはじめ多くの人間の抵抗を撮る道具を提供し続けたニコンがなぜ、という反応をみせたのだと思う。『世界』2012年8月号でも、赤川次郎が「ニコンFの誇り」という小文を寄せている。

「ニコンFは、数え切れない戦場で「真実」を写し取って来ただろう。ニコンはその誇りを忘れてしまったのか。」

もっとも、ニコンは、大日本帝国の戦争協力を行ってきた出自をもつ。小倉磐夫『国産カメラ開発物語』(朝日新聞社)によれば、巨大戦艦「大和」「武蔵」に搭載された15メートル測距儀の精度は大したものであったという。大戦末期、米国はすでに射撃用レーダーを完成していたが、日本軍はそれに伍する光学機器を持っていたのである。

ニコンの方に、なぜ本社を大井町にしないのかと訊いたことがある。それに対する返事は、皇居の視える場所でないとダメだと考える人が多いからだ、とのことだった。そうなれば、深いところにあるアイデンティティは「真実」ではなくそれか、と言ってみたくもなる。

それはともかく、写真群は素晴らしいものだった。

朝鮮から慰安婦として中国に連行された少女たちは、いまはみな老女になっており、故郷に帰ることができず中国にとどまっている。何かを訴えかける表情、当時を思い出す姿、日常生活において放心しているような様。モノクロで焼きつけられたそれらは、人間のものとして美しいと言ってもよい。多くの皺も美しい。それは誰でもがそうであるように。

もちろん、これらの写真群は、慰安婦問題の存在を訴えかけている。それとは別に、写真はアートとして屹立している。

皺皺の印画紙がまた効果的であり、永田浩三さんによれば、「韓紙」を使っているのだという(>> リンク)。

●参照
『科学の眼 ニコン』
陸川『南京!南京!』
金元栄『或る韓国人の沖縄生存手記』
朴寿南『アリランのうた』『ぬちがふう』
沖縄戦に関するドキュメンタリー3本 『兵士たちの戦争』、『未決・沖縄戦』、『証言 集団自決』
オキナワ戦の女たち 朝鮮人従軍慰安婦
『けーし風』2008.9 歴史を語る磁場
新崎盛暉氏の講演
新崎盛暉『沖縄からの問い』


土本典昭『水俣―患者さんとその世界―』

2012-07-07 09:56:00 | 九州

土本典昭『水俣―患者さんとその世界―』(1971年)を観る。


『ドキュメンタリー映画の現場』(シグロ・編、現代書館)より

完成から40年あまりが経ついまでも、フィルムの中には、ナマの力が横溢している。正直言って、テレビ画面を凝視し続けることが辛く、何日かに分けて観た。その力とは、怒りとか悲しみとかいったひとつの言葉で象徴されるようなものではなく、生命力の発露そのものであり、それを「撮った順に並べた」ドキュメンタリーの意気である。

水俣市の南隣に位置する鹿児島県の出水市では、「水俣病と認定されると出水市がつぶれる」として、そのような動きをする患者を白眼視することがあったという。水俣の患者やその家族自身の口からも、「あつかましいと思われる」ことへの配慮が語られる。国や企業という大きなものによる対応に我慢できず、各自がチッソの「一株株主」になろうとする運動も、圧力の対象となる。まさに、社会的・構造的な孤立であったのだと思わせる記録だ。

個人の思いや権利は、常になんらかの正当化のもと、かき消されようとする。現在の原発事故と重ね合わせざるを得ない。

カメラは、患者ひとりひとりに直接向けられ、対話をする。重症患者であればあるほど、観るのが辛い。もちろん、患者やその周囲の人びとは、観る者とは比べものにならない場にいる。そのような言葉とは関係なく、患者は生きる姿を見せる。

このフィルムの迫真性は、粒子の荒れたモノクロ画面だけでなく、同時録音によらないということも影響しているだろう。当時は、同録でないから物語を捏造しているのだろうとの批判もあったようだが、いまでは史実を疑う者はいない。小川紳介『日本解放戦線 三里塚の夏』(1968年)(>> リンク)も、同時録音導入前の掉尾を飾る作品であった。ドキュメンタリーの性質も、それによって変わらないわけはない。

●参照
土本典昭『在りし日のカーブル博物館1988年』
土本典昭『ある機関助士』
土本典昭さんが亡くなった(『回想・川本輝夫 ミナマタ ― 井戸を掘ったひと』)
原田正純『豊かさと棄民たち―水俣学事始め』
石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』
『花を奉る 石牟礼道子の世界』
石牟礼道子+伊藤比呂美『死を想う』