Sightsong

自縄自縛日記

北井一夫『フナバシストーリー』

2014-03-09 21:04:27 | 関東

北井一夫さんの名作『フナバシストーリー』(1989年)のヴィンテージプリントを観るため、船橋市役所まで足を運んだ。

会期中は平日の業務時間内にしか開いていないが、この日曜日だけ作家・森沢明夫さんとのトークショーがあって、唯一の観る機会だった。

『フナバシストーリー』には、1989年に六興出版から出されたオリジナル版と、2006年に冬青社から出された新版『80年代フナバシストーリー』の2種類がある。『80年代・・・』の前から、古本屋で立ち読みしては欲しいと思っていたのではあったが、2006年に新版が出されたとき、ギャラリー冬青でプリントを観て、これは素晴らしいと感じ入った。

(ところで、そのときに在廊していた北井さんに、伝説のライカM5を持たせてもらったばかりか、わたしの持っていたM4で北井さんを撮ったところ、どれどれ貸してみな、とわたしを撮ってくれたことがあった。)

ただ、新版は新たなプリントをもとにしているため、80年代に焼かれたオリジナルを観るのは、今回がはじめてだ。

これらの写真群は、船橋市からの依頼によって撮られたものであり、団地で生活する人びとや、雑踏で商売したり酒を飲んだりする人びとや、野原や川辺などまだ残っていた自然のなかにいる人びとの姿が捉えられている。六興出版のオリジナル版は持っていないのだが、冬青社の新版に収められていない作品もあった。焼き方も、随分と異なるものだった。しかし、どちらにしても、柔らかい光で包まれた北井写真であり、素晴らしいとしか言いようがない。

トークショーでは、撮影の苦労を話してくれた。『三里塚』ではフィルムを合計200本程度しか使っていないという、極端に撮影枚数の少ない氏だが、『フナバシストーリー』では、数年間をかけて多くの撮影を行わざるを得なかったという。郊外の団地という一見ドラマチックでなく、また、人工的な環境下で、しかも警戒されながら知らない人の部屋に入って撮影していくことが、いかに難しかったかということである。この作品を公表したあと、同様に、多摩ニュータウンからも、一見人間的でない環境と視られがちだった団地の生活を撮って欲しいとの依頼があったという。しかし、北井さんは、もうこんな苦労はできないと断ってしまう。

とはいえ、北井さん曰く、『村へ』は「長男の世界」、『フナバシストーリー』は田舎の跡を継がずに出てきた「二男・三男の世界」。とっつきの良い人ばっかりだったよ、ということだ。

そして、トークショーのあとに、当時作品が掲載された「日本カメラ」誌を手に、この少女は私なんですと言う女性があらわれた。団地の一室で座ってカメラの方を視る写真である。北井さんをはじめ、残っていた人たちみんな仰天。明らかに、この人にとっても団地がふるさとなのだった。

終わってから、研究者のTさんとカメラ談義。

Nikon V1、Leica Summitar 50mmF2.0(開放で撮影、アダプター利用)

>> トークショーの映像

●参照
『神戸港湾労働者』(1965年)
『過激派』(1965-68年)
『1973 中国』(1973年)
『遍路宿』(1976年)
『境川の人々』(1978年)
『西班牙の夜』(1978年)
『ロザムンデ』(1978年)
『ドイツ表現派1920年代の旅』(1979年)
『湯治場』(1970年代)
『新世界物語』(1981年)
『英雄伝説アントニオ猪木』(1982年)
『80年代フナバシストーリー』(1989年/2006年)
『Walking with Leica』(2009年)
『Walking with Leica 2』(2009年)
『Walking with Leica 3』(2011年)
『いつか見た風景』(2012年)
『COLOR いつか見た風景』(2014年)
中里和人展「風景ノ境界 1983-2010」+北井一夫
豊里友行『沖縄1999-2010』


万年筆のペンクリニック(4)

2014-03-09 09:53:40 | もろもろ

先週の木曜日に、日本橋丸善の「世界の万年筆展」に行ってみたところ、開始2日目だったというのに、割引の「万年筆袋」がもう売り切れていた。もっとも、冷やかしのつもりでもあったから、余計な悩みを抱えなくてもすむというものだ。

折角なので、パイロットのペンドクターの方に、昭和時代のプラチナ万年筆のペン先を調整いただいた。先日本八幡の「ぷんぷく堂」で購入したものだが、細字とはいえほとんど極細に近く、もっとインクフローを良くしたかったのである。

かなり、書き心地が良くなった。ついでにプラチナのコンバーターも入手した。何のインクを入れようか・・・・・・丸善製の「日本橋リバーブルー」か、釧路の佐藤紙店で買った「夜霧」か、それともペリカンのターコイズか。(下らぬことで悩むんじゃない)

 

●参照
本八幡のぷんぷく堂と昭和の万年筆
万年筆のペンクリニック
万年筆のペンクリニック(2)
万年筆のペンクリニック(3)
行定勲『クローズド・ノート』(万年筆映画)
鉄ペン
沖縄の渡口万年筆店
佐藤紙店の釧路オリジナルインク「夜霧」


アントニオ・ネグリほか『ネグリ、日本と向き合う』

2014-03-09 08:35:10 | 政治

アントニオ・ネグリほか『ネグリ、日本と向き合う』(NHK出版新書、2014年)を読む。

2013年にネグリが初来日したときの発言や、それを受けての日本側諸氏の応答からなる。

<帝国><マルチチュード>とは、わかりやすいようでいて、実のところ混乱を内部に孕む概念でもある。

<帝国>は、米国政府に代表されるような<帝国主義>とは異なる。従来型の国家による支配のかたちではなく、国家や多国籍企業などを含めたグローバルな経済社会ネットワークの調整主体である。また<マルチチュード>は、多種多様な、個々が特異な有象無象である。単純な対立の構図を描くことは難しいものであり、これらの概念は、支配側・被支配側の両者に関わってくるように思われる。

したがって、非物質的な価値を生み出す<認知労働>も、決して将来に開かれた望ましい労働の姿とばかりは言えない。本書での発言を読むと、<認知労働>へのシフトが、個人を統治する<生政治>を生んでしまったのだということである。

むしろ重要なことは、2013年の発言においても強調されていた<コモン>を、政治と社会の中心部に据える方法を模索することのようだ。活動によって生み出される価値を、個人や企業や国家などの<私>に、囲い込ませるのではなく、<コモン>を豊かにするために使うあり方、だろうか。勿論、これは、一元的統治ではなく、マルチチュードによる多元的な民主主義という点で、従来型の共産主義とも、保守政権が重視する<公共>とも全く異なる。

それではどうすればよいのかということについては、大きな飛躍が課題として残されている。不完全な思想ということではなく、誰もが模索しているのである。

●参照
アントニオ・ネグリ講演『マルチチュードと権力 3.11以降の世界』(2013年)
アントニオ・ネグリ『未来派左翼』(上)(2008年)
アントニオ・ネグリ『未来派左翼』(下)(2008年)
廣瀬純トークショー「革命と現代思想」(2014年)