岩波ホールで、マノエル・ド・オリヴェイラ『家族の灯り』(2012年)を観る。
長年、会社の会計係を続けている老人(マイケル・ロンズデール)。息子(リカルド・トレパ)は8年前に失踪した。そのため、老人の妻(クラウディア・カルディナーレ)には狂いの兆しが出てきて、息子の妻(レオノール・シルヴェイラ)と夫を口汚く罵る。毎日が変わらない貧乏暮らし。家には、友人(ルイス・ミゲル・シントラ、ジャンヌ・モロー)がときどき雑談しにやってくる。
突然、息子が帰ってくる。彼は、変わらない日常と望まない人生を激しく憎んでいた。帰ってきても、それは変わらなかった。老父もまた変わらない。何を言われようとも、何も起こらない人生こそが幸せなのだ、貧乏は誠実の結果なのだと呟く。彼は、自分自身の独善に気付かない。息子は、父が預かっている会社の金を強奪し、また家を出ていく。
そして、警察がやってくる。
まるで室内劇のようなつくりで、レンブラントの絵のように渋く落ち着いた画面。その時空間のなかで、巨匠オリヴェイラは、おそろしいほどの余裕をもって、人心の残酷さを描く。
これは、映画のコピーにあるような「家族の愛」を描いたものでもなく、「人生の切なさや美しさ」を描いたものでもない。むしろ、人の間にある根本的な断絶(わかりあえなさ)を描いたものであり、また、人生への意味付けを拒否したものでもある。美しく心あたたまる作品を期待して映画館に足を運ぶと、それは無惨にも裏切られることになろう。もちろん、オリヴェイラだからこそ撮ることができた傑作である。
それにしても、何か所与のものに帰属することを拒絶する「魔」を表現する俳優として、リカルド・トレパは適役である。近作の『ブロンド少女は過激に美しく』(2009年)でも、『The Strange Case of Angelica』(2010年)でも、「魔」に憑りつかれた者を演じていた。
人の心だけでなく、社会のつくりを冷徹に視た映画でもある。
ノーム・チョムスキー 「スミスは『国富論』の中で、分業に対して、次のような痛烈な批判をしています。「人間の大半の理解力は、その人の職業によって形成される。単純作業をして生涯を暮らす人、それがいつも同じか、ほとんど同じような結果しか生まない作業に従事する場合、人間は(物事を)理解することができず、最も愚かで無知な人間になってしまうことが多い。」(2014年3月6日、上智大学における講演。「週刊読書人」2014年3月21日)
●参照
○マノエル・ド・オリヴェイラ『The Strange Case of Angelica』
○マノエル・ド・オリヴェイラ『ブロンド少女は過激に美しく』
○マノエル・ド・オリヴェイラ『コロンブス 永遠の海』
○『夜顔』と『昼顔』、オリヴェイラとブニュエル
○マノエル・ド・オリヴェイラ『永遠の語らい』