NHKにて、2000年11月27-28日に前後編に分けて放送されたドキュメンタリー『徳田球一とその時代』が再放送された。
制作統括として、永田浩三さんの名前がある。永田さんからは、以前、このブログにおいて牧港篤三『沖縄自身との対話/徳田球一伝』を紹介したところ、「政治家それも、共産党の大立者をどかんと紹介する度量が、昔はありました」とのコメントをいただいたことがある。この再放送も、公平性という観点からかけ離れたところに来てしまったメディアのひとつの抵抗だろうか。
徳田球一は、1894年、沖縄県名護市に生まれた。20代になり社会正義を抱いて上京、弁護士となる。1922年、君主制の廃止と労働者国家の実現を掲げ、日本共産党が設立される。委員長は堺俊彦、徳田は中央委員となった。1925年に治安維持法が制定され、1928年、徳田が逮捕された(その直後の大弾圧「三・一五事件」によって大勢の共産党員が検挙された)。ここから、敗戦後まで18年間の獄中生活が続くことになる。
徳田は、1934年からの7年間、網走刑務所に収監された。ここの環境が凄まじく劣悪である。便器と同居する1.25坪の独房、1日に30分の運動しか許されず、冬にはマイナス30度近くまで下がる。徳田も右手に障害を負った。
千葉刑務所に移送され、さらに「皇紀2600年」(1940年)の恩赦により、徳田も減刑され、1941年には出獄できるはずだった。しかし、非転向の政治犯を拘束し続けるための「予防拘禁制度」が治安維持法に取り入れられ、小菅の拘置所から、中野と府中の東京予防拘禁所に移されていった。ここには、宗教家や朝鮮独立運動家がおり、15名の共産党員が含まれていたという。徳田はなお勉強に努め、日本の敗戦を確信していた。
1945年8月、敗戦。しかしなお、全国で3000人ほどの解放されない政治犯・思想犯がいた。フランス人の特派員ロベール・ギランがそのことを突き止め、10月、GHQが釈放を命令する。このとき、GHQは民主化を志向しており、徳田も、GHQのことを解放軍と呼んだ。ようやく世に出た徳田はセンセーションとともに迎えられる。そして1946年の総選挙では、合法化された政党として、日本共産党がはじめて国会に議席を得る。同年には、野坂参三が帰国。おそらくこのときが、日本共産党のひとつのピークであっただろう。徳田も憎めないキャラクターで人気を博した。映像からも、そのことが納得できる。
やがて、東西冷戦が明らかな構造と化してゆき、中国では共産党軍が国民党軍を圧倒、朝鮮戦争も勃発する。それらの動きにあわせて、GHQは労働運動や民主化運動を抑えはじめる。ここにいたり、徳田は、「占領下の平和革命」から「反米独立」への方針転換を前面に押し出してくる。GHQの支配から、アメリカ帝国の支配に変わったという認識であった。吉田政権によるレッドパージや、徳田と野坂との対立があって、ついに徳田は地下に潜行する。そして、秘かに中国にわたり、孫と名乗り、「孫機関」のちの「北京機関」を設立する。ここから、日本に向けたラジオ放送「自由日本放送」を発信する。月に1回は、毛沢東・周恩来・朱徳・劉少奇と食事をしていたという。(対立した野坂も「北京機関」に参加するのだが、番組には、死の年にこのことを語る101歳の野坂の映像が挿入される。スパイ事件の発覚により日本共産党を除名された翌年のことだ。はじめて観た。)
1953年、糖尿病とその合併症を悪化させた徳田は、北京病院にて、59歳で亡くなる。1955年に北京で開かれた追悼集会では、毛や朱が出席し、劉が弔辞を読んでいる。
わたしは、徳田のことを、際立った思想によって名を残した人というよりも、非転向やアジテーションに象徴される活動の人なのだと捉えていた。しかし、この番組からは、思想と活動とを単純に分けることができないことと、徳田という人物がいかに面白い人であったかがわかる。もちろん、このことは、現在の日本共産党の姿とはまったく別の話である。
番組の最後には、徳田が翻弄された敗戦後の日本政治の移り変わりが、「日本の民主主義のありよう」を問いかけているのだというナレーションが入っている。納得である。それはつまり、敗戦時に集団的記憶として共有すべきだったものが曖昧に解体されたということであり、責任も敢えて曖昧なままに放置されたということであり、主体性を欠いたままアジアに対峙するコマとして扱われたということである。
●参照
牧港篤三『沖縄自身との対話/徳田球一伝』