Sightsong

自縄自縛日記

伊藤千尋『新版・観光コースでないベトナム』

2012-07-12 00:42:37 | 東南アジア

伊藤千尋『新版・観光コースでないベトナム』(高文研、2011年)を読む。

ベトナムの近現代史が実体験やルポとともに、よくまとめられている。伊藤千尋氏、さすがである。

日本人にとって、ベトナムとは、食べ物が口に合う国、親近感のある国、それからしばらく置いて、ベトナム戦争があった国。しかし、日本の侵略により、軍隊用の麻袋を作らせられ、食糧生産を圧迫して多くの餓死者が出たことや、ベトナム戦争による景気で潤ったこと、米国のベトナム人虐殺に間接的に加担し続けたこと、沖縄にはベトナム戦争を意識した米軍のジャングル訓練センターがあることなど、どれだけの人が知っているだろう。わたしは断言するが、ベトナムを訪れる現役のビジネスマンの1割もまともな知識を持ってはいない。

ベトナム戦争の終結から40年近くが過ぎようとしているいま、これはもはや過去の歴史なのである。しかし、米国が、屁理屈を付けて(トンキン湾事件など)、自国の利益だけのために(軍事産業や石油利権など)、民間人を無差別に虐殺するという構造、それに日本が追随する構造は、現在の姿そのものだ。また、枯葉剤の被害は現在も止まっていない。

要は、知らなければならない歴史ということである。

●参照
伊藤千尋『反米大陸』
ハノイの文廟と美術館
ハノイの街
ハノイのレーニン像とあの世の紙幣
2012年6月、ハノイ
2012年6月、サパ
2012年6月、ラオカイ
『ヴェトナム新時代』、ゾルキー2C
石川文洋『ベトナム 戦争と平和』
『米軍は沖縄で枯れ葉剤を使用した!?』
枯葉剤の現在 『花はどこへ行った』


テオ・アンゲロプロスの遺作『The Dust of Time』

2012-07-11 07:30:00 | ヨーロッパ

交通事故で急逝したテオ・アンゲロプロスの遺作となった作品、『The Dust of Time』(2008年)を観る。『第三の翼』(この言葉も劇中に登場する)というタイトルで日本公開される予定だったにも関わらずまったく動きがないため、DVDを入手した。

※2014年1月に『エレニの帰郷』という邦題で公開

米国人映画監督のA(ウィレム・デフォー)は、イタリアのチネチッタで、父と母の映画を構想する。

1953年、ソ連。ギリシャ共産党の一部のスターリニストたちは、タシケント(現・ウズベキスタン)などに逃れ身を寄せ合っていた。そこに合流したAの父は、ずっと探していた恋人エレニに邂逅する。ひとときの逢瀬、しかし、その日はスターリンが死んだ日でもあった。ソ連当局に捕えられたふたりは、ふたたび引き裂かれてしまう。エレニは生まれた子(A)を連れてシベリアに送られ、その後、オーストリアへと移る。そこで、もう一人の愛する男(ブルーノ・ガンツ)と出会う。時が経ち、Aの父を探し出すが、彼は別の女性と暮らしていた。

現在の米国、カナダ、ドイツ。既にエレニはA、Aの父(ミシェル・ピコリ)、もうひとりの男(ガンツ)と再会している。Aは離婚し、失踪した娘(やはりエレニ)を探している。廃墟のビルから飛び降りようとしていた娘エレニを救ったのは、母エレニだった。これによりエネルギーを使い果たし死に向かう母エレニ。もう一人の男は絶望して川に身を投げる。Aの妻は姿を消す。そしてAの父と娘エレニは、手を取り合って、外へと歩きはじめる。

現在と過去とが、事実と想像とが交錯し、解り難い作品だ。Aの父は、過去においては、常に帽子をかぶった後ろ姿でのみ表現され、その役回りを突然Aが演じていたりする。また、現在の登場人物たちは同時に俳優でもあり、メタフィクションであることが示される。できれば字幕かシナリオがあれば、もう少し理解もできるだろう。日本公開されれば観に行かなければなるまい。

それでも、これは全盛期のアンゲロプロスからは程遠い作品だ。まさに時のフラグメンツが集積し、擾乱し、そのようななかでも現在も過去も同居したままに生きていくことの重みは、よく伝わってくる。だが、長回しにより、眼を充血させても世界を見せようとする気概は既にない。仕掛けばかりが目立ち、言ってみればあざといのである。


ロル・コクスヒルが亡くなった

2012-07-11 01:30:45 | アヴァンギャルド・ジャズ

ロル・コクスヒルが、数週間の闘病のすえ、79歳で亡くなったらしい。

1998年、歌舞伎町のナルシスでサックスソロを聴いた。そのときはあっちこっちに飛ぶヘンなサックスだなと思っていたのだが、このあてどない浮遊感と遊牧性は、実は過激なる個性の発露なのだった。

2010年に、ロンドンのCafe OTOにて再び聴くことができたのはとても嬉しいことだった。明らかにコクスヒルの音が、集団の中で、やはり浮遊していた。コクスヒルに話しかけると、ああナルシスなら覚えているよ、誰か呼んでくれるんならまた日本にも行くけどね、と、もの静かに語った。

残念。


ロル・コクスヒル、2010年 Leica M3、Summicron 50mmF2.0、Tri-X(+3)、フジブロ4号

●参照
G.F.フィッツ-ジェラルド+ロル・コクスヒル『The Poppy-Seed Affair』
ロル・コクスヒル、2010年2月、ロンドン
コクスヒル/ミントン/アクショテのクリスマス集


キース・ティペット『Ovary Lodge』

2012-07-10 00:33:15 | アヴァンギャルド・ジャズ

久しぶりにキース・ティペットなんかを聴いている。『Ovary Lodge』(RCA、1973年)、実はこのあたりのティペットの世界をほとんど知らないのだが、若くして、既にティペットのピアノスタイルになっていることはわかる。

Keith Tippett (p)
Roy Babbington (b)
Frank Perry (perc)

1997年に、ほとんど予備知識なく、法政大学でティペットのピアノ・ソロを聴いた(たしか、前座が灰野敬二だった)。プリペアドも繰り出し、素晴らしいパフォーマンスだった。おそらくその場にいた多くの者が感激し、2回のアンコールを求めた。いちどはそれに応えたティペットだったが、2回目は、壇上で、こんなに拍手を送ってもらってとても嬉しい、しかしわたしは老いてしまってもう弾けない、と、真摯に話した姿をよく覚えている。

この盤でも、ティペットらしく、右手と左手でそれぞれ、同じフレーズをどうかしているほど執拗に繰り返し、発展させていく。彼のピアノを聴いてイメージするのは、今井俊満のどどどどどという奔流の絵だ。音は音塊になり、巨大な流れとなる。そして静寂が訪れる。それに身をまかせたあとに、最後の曲が提示する抒情性がたまらない。

いつもは、ティペットのピアノソロのCD(FMP盤の『Mujician』など)を聴きはじめると、何分かで厭になって止めてしまったりするのだが(たぶんこちらに余裕がないんだろうね)、ながら聴きではなく、音に向かってとめどなくイメージを妄想しながら聴くべき音楽なのかもしれない。


ウェス・モンゴメリーの1965年の映像

2012-07-09 00:19:17 | アヴァンギャルド・ジャズ

ウェス・モンゴメリーのライヴDVD、『VRPO Studios, Netherland 5.21.'65』を手に取って驚いた。何と、ハン・ベニンクが参加している。エリック・ドルフィー『ラスト・デイト』に、ミシャ・メンゲルベルグとともに参加した翌年の演奏であり、場所も同じオランダだ。

Wes Montgomery (g)
Ruud Jacobs (b)
Pim Jacobs (p)
Han Bennink (ds)

このときウェスは40代前半。脂がのっていたのだろう、余裕しゃくしゃくでピアニストに指示を出しながら、「ニカの夢」などを愉しそうに弾く。もちろん、親指によるオクターヴ奏法である。

そしてハン・ベニンクはというと、まだ20代前半。長身、ベストを着て、ちょっと緊張の面持ち。90度左を向いたりしているのも、左手のスティックの持ち方もいまと同じに見える。まだ、後年の破天荒なスタイルではないが、思いきったドラミングの分断など、その萌芽が見えるような気がする。

何故か、これだけでなく、米国のテレビ放送のフッテージが収録されている。1967年、ちょうどA&Mに移籍して『A Day in the Life』などをヒットさせた頃のカラー映像である。甘いサウンドに脱力するが、ウェスはいつもウェスだ。さらに、ライザ・ミネリの歌伴まである。なんだこれは。

●参照 
ハン・ベニンク『Hazentijd』
イレーネ・シュヴァイツァーの映像(ハン・ベニンク参加)
ハン・ベニンク キヤノン50mm/f1.8(浅川マキとの共演)
パット・マルティーノのウェス・モンゴメリー集


友田義行『戦後前衛映画と文学 安部公房×勅使河原宏』

2012-07-08 10:09:20 | アート・映画

友田義行『戦後前衛映画と文学 安部公房×勅使河原宏』(人文書院、2012年)を読む。

タイトルの通り、安部公房=原作、勅使河原宏=映画監督、という連携により創り出された作品群について論じた書である。劇映画としては、『おとし穴』(1962年)、『砂の女』(1964年)、『他人の顔』(1966年)、『燃えつきた地図』(1968年)の4本に及ぶ。勅使河原は、その後、安部公房『緑色のストッキング』の映画化を構想していたが叶わなかったらしい。

どの作品も好きな映画ばかりだ。特に『砂の女』と『他人の顔』は、大学1年生のとき、青山の花の館ビルで行われた上映に足を運び、こんな映画もあるのかと衝撃を受けた(高校生のとき、テレビで放送された『砂の女』を兄とこたつで観ていて、エロ場面になって寝たフリをしたら、本当に寝てしまった)。その後何度観たことか。

それだけに、本書からはいろいろな発見があった。

○安部にとって「前衛」「アヴァンギャルド」の核は、現実発見のための精神であった。言語にせよ、映像にせよ、奇怪なイメージの数々は、世界をあらためて発見するための仕掛けなのだった。(そういえば、筒井康隆が、『方舟さくら丸』を絶賛しつつ、その意味を説いた安部に対しては、作品解釈を押し込めるべきではないと批判していたことを思い出す。)
○勅使河原らが結成した<シネマ57>は数年間で活動を終えるが、実はそれは、ATGの母体となる発展的解散であった。
○映画史のなかに勅使河原の映画を位置づける際、ネオリアリズモジャン・コクトーフランソワ・トリュフォーの影響を忘れるわけにはいかない。
○両者の連携は、既存のモンタージュ論を大きく逸脱するものであった。そこには、流れる砂や皮膚のクローズアップなど、映像の肌触りそのものから形成される世界があった。表面は内面とも、人とも、等価なものであった。
○『おとし穴』の状況設定には、上野英信『追われゆく坑夫たち』が大きく影響している。両方とも、北九州の小さな炭鉱群を描いたものだった。
○すべてに通底するのは、地域社会や伝統的な家族といった共同体の破壊を描いていることである。(これは面白い指摘だ。ならば、別の映画史が立てられることになる。わたしも、ウソを共有し微笑む姿を破壊する安部公房に魅かれていたのだ。)

「連帯感を喪失した人々が国家や天皇制、家庭や宗教といった共同体へ回帰しようとする潮流に、安部は繰り返し批判を加えていった。安部の見解では、日本人の共同体意識には封建的な側面が根強く残っており、その延長上に愛国心や民族意識が位置づけられている。こうした共同体は構成員に忠誠心を強要することで結束し、他人・他者を暴力的に排除する性質を含んでいる。前近代的な秩序に支えられた疑似共同体へ回帰するのではなく、「他人」を積極的に発見し、直接的に関係性を結ぶ方法、すなわち「隣人」を介さない「他人」との新しい通路を安部は模索する。」

○『他人の顔』は、安部の原作・シナリオから大きく逸脱し、被爆者の女性というエピソードが挿入されている。広島のキノコ雲を近くで目撃した勅使河原の意向であった。被爆者の性を描くという点でほとんど他の映画に見られない試みだったが、それは成功しているとは言えない。何よりも、エピソードが、「顔」という特質を描くための手段として使われてしまっている。
○また、やはりすべてに、「立ちどまる」というアクションを見ることができる。『おとし穴』での停留、『砂の女』での移動と定着、『他人の顔』での行く先々での立ちどまり、そして『燃えつきた地図』での逡巡。

また4本の映画を観れば、さらなる発見があるに違いない。

●参照
勅使河原宏『おとし穴』
勅使河原宏『燃えつきた地図』
勅使河原宏『十二人の写真家』
勅使河原宏『東京1958』、『白い朝』
勅使河原宏『ホゼー・トレス』、『ホゼー・トレス Part II』
安部公房『方舟さくら丸』再読
安部公房『密会』
安部公房の写真集
安部ヨリミ『スフィンクスは笑う』
上野英信『追われゆく坑夫たち』


安世鴻『重重 中国に残された朝鮮人元日本軍「慰安婦」の女性たち』

2012-07-07 23:48:20 | 韓国・朝鮮

ようやく、新宿ニコンサロンで、安世鴻の写真展『重重 中国に残された朝鮮人元日本軍「慰安婦」の女性たち』を観ることができた。

もともと、この写真展は開催直前に、ニコン内部の一方的な決定により中止になっていた。しかし、東京地裁・高裁が「ニコンサロンを安世鴻氏の写真展のために仮に使用させなければならない」との仮処分を発令し、ニコンは写真展を開くこととなった。ニコンサロンのサイトには、「これに従って、安世鴻氏に対し新宿ニコンサロンを仮にご使用いただくことといたしました。」とある。

「仮に使用」とは何だろう。使用するとは事実であり、仮も何もないのではないか。

今回のニコンの行動や態度は、企業としてのアイデンティティを自ら貶め、企業価値をドラスティックに下げるものだった。多くの人は、ベトナム戦争をはじめ多くの人間の抵抗を撮る道具を提供し続けたニコンがなぜ、という反応をみせたのだと思う。『世界』2012年8月号でも、赤川次郎が「ニコンFの誇り」という小文を寄せている。

「ニコンFは、数え切れない戦場で「真実」を写し取って来ただろう。ニコンはその誇りを忘れてしまったのか。」

もっとも、ニコンは、大日本帝国の戦争協力を行ってきた出自をもつ。小倉磐夫『国産カメラ開発物語』(朝日新聞社)によれば、巨大戦艦「大和」「武蔵」に搭載された15メートル測距儀の精度は大したものであったという。大戦末期、米国はすでに射撃用レーダーを完成していたが、日本軍はそれに伍する光学機器を持っていたのである。

ニコンの方に、なぜ本社を大井町にしないのかと訊いたことがある。それに対する返事は、皇居の視える場所でないとダメだと考える人が多いからだ、とのことだった。そうなれば、深いところにあるアイデンティティは「真実」ではなくそれか、と言ってみたくもなる。

それはともかく、写真群は素晴らしいものだった。

朝鮮から慰安婦として中国に連行された少女たちは、いまはみな老女になっており、故郷に帰ることができず中国にとどまっている。何かを訴えかける表情、当時を思い出す姿、日常生活において放心しているような様。モノクロで焼きつけられたそれらは、人間のものとして美しいと言ってもよい。多くの皺も美しい。それは誰でもがそうであるように。

もちろん、これらの写真群は、慰安婦問題の存在を訴えかけている。それとは別に、写真はアートとして屹立している。

皺皺の印画紙がまた効果的であり、永田浩三さんによれば、「韓紙」を使っているのだという(>> リンク)。

●参照
『科学の眼 ニコン』
陸川『南京!南京!』
金元栄『或る韓国人の沖縄生存手記』
朴寿南『アリランのうた』『ぬちがふう』
沖縄戦に関するドキュメンタリー3本 『兵士たちの戦争』、『未決・沖縄戦』、『証言 集団自決』
オキナワ戦の女たち 朝鮮人従軍慰安婦
『けーし風』2008.9 歴史を語る磁場
新崎盛暉氏の講演
新崎盛暉『沖縄からの問い』


土本典昭『水俣―患者さんとその世界―』

2012-07-07 09:56:00 | 九州

土本典昭『水俣―患者さんとその世界―』(1971年)を観る。


『ドキュメンタリー映画の現場』(シグロ・編、現代書館)より

完成から40年あまりが経ついまでも、フィルムの中には、ナマの力が横溢している。正直言って、テレビ画面を凝視し続けることが辛く、何日かに分けて観た。その力とは、怒りとか悲しみとかいったひとつの言葉で象徴されるようなものではなく、生命力の発露そのものであり、それを「撮った順に並べた」ドキュメンタリーの意気である。

水俣市の南隣に位置する鹿児島県の出水市では、「水俣病と認定されると出水市がつぶれる」として、そのような動きをする患者を白眼視することがあったという。水俣の患者やその家族自身の口からも、「あつかましいと思われる」ことへの配慮が語られる。国や企業という大きなものによる対応に我慢できず、各自がチッソの「一株株主」になろうとする運動も、圧力の対象となる。まさに、社会的・構造的な孤立であったのだと思わせる記録だ。

個人の思いや権利は、常になんらかの正当化のもと、かき消されようとする。現在の原発事故と重ね合わせざるを得ない。

カメラは、患者ひとりひとりに直接向けられ、対話をする。重症患者であればあるほど、観るのが辛い。もちろん、患者やその周囲の人びとは、観る者とは比べものにならない場にいる。そのような言葉とは関係なく、患者は生きる姿を見せる。

このフィルムの迫真性は、粒子の荒れたモノクロ画面だけでなく、同時録音によらないということも影響しているだろう。当時は、同録でないから物語を捏造しているのだろうとの批判もあったようだが、いまでは史実を疑う者はいない。小川紳介『日本解放戦線 三里塚の夏』(1968年)(>> リンク)も、同時録音導入前の掉尾を飾る作品であった。ドキュメンタリーの性質も、それによって変わらないわけはない。

●参照
土本典昭『在りし日のカーブル博物館1988年』
土本典昭『ある機関助士』
土本典昭さんが亡くなった(『回想・川本輝夫 ミナマタ ― 井戸を掘ったひと』)
原田正純『豊かさと棄民たち―水俣学事始め』
石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』
『花を奉る 石牟礼道子の世界』
石牟礼道子+伊藤比呂美『死を想う』


デイヴィッド・マーティンという写真家

2012-07-06 23:41:08 | 東南アジア

ベトナム北部の町、サパ

ベトナム出身の仕事仲間が、良い写真ギャラリーがあるから行こうと誘ってくれて、いそいそと出かけた。ところが、ある筈の場所には別のアートギャラリーしかない。彼がいろいろ訊いて、どうやら、その米国人写真家デイヴィッド・マーティンは、最近亡くなったのだということがわかった。旅の途中、寝台列車の同じコンパートメントで愉しく話しこんだことがあるという彼は、とても残念がった。

もしかしたらと別のホテルに行ってみると、その壁には、多くのデイヴィッド・マーティンの写真が飾られていた。知己のあったオーナーが引き取っていたのだった。

写真群は、サパのさまざまな貌を捉えたものだった。少数民族の女性たち。山々。棚田。稲刈り。水牛。農家の中でくつろぐ人びと。眼を奪われる作品も少なくない。ずっと同じ場所に腰を据えなければ、このような写真を撮ることなどできなかっただろう。

小さい解説板によると、写真は、キヤノンEOS 5DマークIIで撮られている。そのデジタルプリントを販売していると書かれており、ホテル従業員に話をすると、ほどなくして多数のプリントを持った女性があらわれた。その中から気に行った二枚を選び、手に入れた。

そこで同行者が、女性に対し、驚くように言った。

「あなたはこの写真に写っている人?」

「そうです。わたしはデイヴィッドの助手として働き、英語も覚えました。デイヴィッドは残念ながら癌で亡くなりました。確かに、寝台列車に愉しい仲間がいたと言っていましたよ」

●参照
2012年6月、サパ


1998年7月、カイロ

2012-07-05 07:14:01 | 中東・アフリカ

エジプト、カイロ。

ちょっと空いた時間に映画館に入った。2館つながっている隣りでは、『タイタニック』を上映していて、多くの人が次々に吸い込まれていった。わたしはそちらではなく、何だかよくわからない方に入った。

案の定のしょうもない三角関係の映画で、言葉がまったく解らなくても、筋は解った。観客は数人だけで、後ろの方に座った2人の男が仲睦まじくしていた。映画のタイトルはいまだ判らずじまい。

エジプトはそれっきりだ。いまどのような空気なのか、体感してみたくはある。


カイロの映画館 Pentax MZ-3、FA28mmF2.8、Provia100、DP


2012年6月、ハノイ

2012-07-03 22:54:04 | 東南アジア

ハノイの街を歩いていると、ある特徴に気がつくことになる。

たとえばある通りには靴の店ばかりが並び、ある通りにはサングラスの店ばかりが並ぶ。はじめは、商売敵が集まってどうするんだと思ったが、よく考えてみると、それよりも利点の方が大きい。サングラスを買おうと思いたったら、その一角に足を運べばよいのである。ばらばらに立地していたなら、そこを生活圏としている人しか買い手にはならない。大袈裟に言えば、神保町の古本、銀座の中古カメラのようなものだ。

そしてなんと、マタニティ・ウェア通りもあった。


店番


マタニティ・ウェア


マタニティ・ウェア


営業


家と電線

※写真はすべてPentax K2DMD、M35mmF2.0、Fuji Pro 400にて撮影

●参照
ハノイの文廟と美術館
ハノイの街
ハノイのレーニン像とあの世の紙幣
2012年6月、サパ
2012年6月、ラオカイ
『ヴェトナム新時代』、ゾルキー2C
石川文洋『ベトナム 戦争と平和』


2012年6月、ラオカイ

2012-07-03 07:14:44 | 東南アジア

ベトナム北部の町・ラオカイは、国境の町でもある。ホン川の橋がちょっと高い場所にあって、そこからは、中国雲南省も、国境の橋に設置されているゲートも視える。

ここは中越戦争(1979年)が行われた地であり、そのため、ほとんどの建物は新しく再建されたものだという。

時間がなくて中国側に入ることができなかったが、ハノイに戻る列車を待つ間、駅の近くを散歩していたら、夕方のマーケットを見つけた。路上には、中国将棋を打つ男たちがいた。


ラオカイ駅前


果物売り


中国将棋


マーケット


マーケット


マーケット


少数民族の女性

※写真はすべてPentax K2DMD、M35mmF2.0、Fuji Pro 400にて撮影

●参照
2012年6月、サパ
中国プロパガンダ映画(6) 謝晋『高山下的花環』(中越戦争)
ハノイの文廟と美術館
ハノイの街
ハノイのレーニン像とあの世の紙幣
『ヴェトナム新時代』、ゾルキー2C
石川文洋『ベトナム 戦争と平和』


2012年6月、サパ

2012-07-02 23:50:31 | 東南アジア

ハノイから7時間くらい寝台列車に乗ると、朝早く、ベトナム北部のラオカイという街に着く。中国雲南省がすぐ目の前に視える、国境の町である。


コンデジで撮影

そこから自動車でさらに何時間か走っていると、山間に視えるのは棚田また棚田。急な斜面にはトウモロコシ。文字通り圧倒的で、感嘆の声をあげ続けた。

東南アジアでの稲作はいつから行われているのだろう。長い間、しかも毎日毎年、人の手によって拵えられ、丁寧に管理されなければ、維持できない。気が遠くなりさえもする。そして、大気も泥も草木も、すべてが水によって連続的につながっている。この水循環世界は、紛れもなくアジアのものだ。


棚田


棚田とトウモロコシ


少数民族の少女


棚田


棚田


貯水池ぎりぎりまで棚田


家の向こう

そしてサパに到着する。小奇麗な町である。

モン族など少数民族の女性たちは、道端に座り込んで夜遅くまで野菜や果物を売っている。その一方では、ヨーロッパから来るバックパッカーたちが多く、パブやレストランも多い。夕食後、パブでベトナムの仕事仲間と呑みながら、道で買った枝付きの大量のライチを食べていると、民族衣装ではない少数民族の女性たちがあらわれ、ビリヤードをはじめた。


サパ眺望


ひまわり



屋根と山と雲


朝顔の花粉


生垣


サパの少女

※写真はすべてPentax K2DMD、M35mmF2.0、Fuji Pro 400にて撮影

●参照
ハノイの文廟と美術館
ハノイの街
ハノイのレーニン像とあの世の紙幣
『ヴェトナム新時代』、ゾルキー2C
石川文洋『ベトナム 戦争と平和』


ハノイのレーニン像とあの世の紙幣

2012-07-01 23:45:47 | 東南アジア

4年ぶりのハノイ。夕方、ちょっと空いた時間に、レーニン像や何かを見て歩き疲れ、カフェでジュースを飲みながら外を眺めていると、路上に馬の人形を置いて火を付けている人がいる。

同行のベトナム出身者によると、あの世に行った人たちに、モノやオカネを送り届けるという儀式なのだった。確かに、馬が燃えてくると、その上に、金塊を意味するような箱や、ウソの紙幣をさらに置いて燃やしている。

今日はそんな日。路上のあちこちには、明らかなコドモ紙幣や、米ドル札のコピーが落ちていた。地獄の沙汰も金次第、ではなく、現世の延長か。(地獄じゃない。)

※コンデジで撮影

●参照
ハノイの文廟と美術館
ハノイの街
『ヴェトナム新時代』、ゾルキー2C
石川文洋『ベトナム 戦争と平和』


池田和子『ジュゴン』

2012-07-01 12:39:00 | 環境・自然

ベトナムへの行き帰りに、池田和子『ジュゴン 海の暮らし、人とのかかわり』(平凡社、2012年)を読む。

生育地の北限である沖縄本島では、辺野古の新基地建設などによって絶滅の危機にさらされているジュゴンだが、実は、かつては八重山でもかなりの数が棲んでいた。激減の理由は乱獲である。本書は、そのジュゴン喰いについてさまざまに紹介している。辺見庸『もの食う人びと』(角川文庫)において、フィリピンでのかつてのジュゴン喰いや、柳田國男南方熊楠によるジュゴンの味や効能の紹介を読んで以来、ずっと知りたかったことだった。やはり美味であったようで、石垣島近くの新城島では国王への献上品でもあった。なお、現在でも、オーストラリアでは、アボリジニの伝統的な漁を保護する観点から、ジュゴン喰いが許可されているのだという。

現在の沖縄におけるジュゴンは、勿論、乱獲やジュゴン喰いをうんぬんするような数がいるわけではなく、保護されなければならない対象である。著者は、辺野古などの政治問題にあまり踏み込むことはしていない。混獲の事故を防ぐための方法や、世界自然遺産登録などの枠組利用によって、ジュゴンを護っていこうと提案している。

そもそも、本書は、ジュゴンを巡る問題というより、むしろジュゴンのキャラクターを紹介することを目的としているのである。その意図は成功しており、鳥羽水族館に観に行きたくなってくる。マナティーとの違いも具体的に書かれており、納得できる点が多い。

もっとも、鯨やイルカに顕著なように、動物を人格化すると保護問題がおかしな具合に歪んでくることが多い。しかし、まずは知らなければダメである。推薦。

●参照
『テレメンタリー2007 人魚の棲む海・ジュゴンと生きる沖縄の人々』(沖縄本島、宮古、八重山におけるジュゴン伝承を紹介)
澁澤龍彦『高丘親王航海記』(ジュゴンが「儒艮」として登場)
タイ湾、どこかにジュゴンが?
名古屋COP10&アブダビ・ジュゴン国際会議報告会
ジュゴンと生きるアジアの国々に学ぶ(2006年)
ジュゴンと共に生きる国々から学ぶ(カンジャナ氏報告)
辺野古の似非アセスにおいて評価書強行提出
二度目の辺野古
高江・辺野古訪問記(2) 辺野古、ジュゴンの見える丘