Sightsong

自縄自縛日記

浅川マキ『灯ともし頃』

2016-05-10 00:01:42 | アヴァンギャルド・ジャズ

久しぶりに、浅川マキ『灯ともし頃』(東芝EMI、1975年)のLPを聴く。

浅川マキ (vo)
萩原信義 (g)
杉浦芳博 (g)
白井幹夫 (p)
吉田健 (b)
坂本龍一 (org)
角田順 (g)
つのだ・ひろ (d)
向井滋春 (tb)
近藤等則 (tp)

いくらなんでも40年以上前の作品であるから、たとえば、つのだ・ひろ(まだ☆が付いていない)の熱唱などダサくて笑ってしまうのだが、それでも嬉しく受け容れてしまうのが不思議だ。むしろ古びない音楽である。ネタとしては、23歳の坂本龍一がオルガンを弾いていることか。

マキさんの声はまだ微妙に若々しく、名曲「夜」などにおいて、揺れ動く天然のヴィブラートを聴いていると心が動く。歌詞カードはマキさんの手書きであり、ライヴのときにも何かを手書きでしたためて配るスタイルを変えることはなかった。

B面も好きである。「思いがけない夜に」なんて魅力たっぷりのユニークなブルースもいいし、近藤等則が移り気な感じで長いトランペットのソロを取る「センチメンタル・ジャーニー」もいい。

こんなものを聴いていると寝不足になってしまうのであります。

●参照
浅川マキ『Maki Asakawa』
浅川マキの新旧オフィシャル本
『浅川マキがいた頃 東京アンダーグラウンド -bootlegg- 』
『ちょっと長い関係のブルース 君は浅川マキを聴いたか』
浅川マキが亡くなった(2010年)
浅川マキ DARKNESS完結
ハン・ベニンク キヤノン50mm/f1.8(浅川マキとの共演、2002年)
浅川マキ『闇の中に置き去りにして』(1998年)
浅川マキ『アメリカの夜』(1986年)
浅川マキ+渋谷毅『ちょっと長い関係のブルース』(1985年)
浅川マキ『幻の男たち』 1984年の映像
浅川マキ『スキャンダル京大西部講堂1982』(1982年)
浅川マキ『ふと、或る夜、生き物みたいに歩いているので、演奏家たちのOKをもらった』(1980年)
オルトフォンのカートリッジに交換した(『ふと、或る夜、生き物みたいに歩いているので、演奏者たちのOKをもらった』、1980年)
『恐怖劇場アンバランス』の「夜が明けたら」、浅川マキ(1973年)
宮澤昭『野百合』(浅川マキのゼロアワー・シリーズ)
トリスタン・ホンジンガー『From the Broken World』(浅川マキのゼロアワー・シリーズ)


エルマンノ・オルミ『緑はよみがえる』

2016-05-09 22:17:48 | ヨーロッパ

岩波ホールにて、エルマンノ・オルミ『緑はよみがえる』(2014年)を観る。

第一次世界大戦(1914-18年)は、戦争のあり方、国家のあり方、人間のあり方を大きく変えた戦争であった。飛行機や機関銃といった新兵器が登場し、対策として長い塹壕が掘られ、兵士は極度の消耗と緊張とにさらされることになった。その結果、精神に異常をきたすものも続出した。攻撃と防御の規模が急に肥大化したことにより、兵士は文字通りコマと化し、また、数によって把握される存在と化した。よく言われるように、近代戦争のひとつの起点である。

映画の舞台は、1917年、イタリアの雪山。戦局が膠着し、オーストリア軍と塹壕から対峙するイタリアの兵士たちは、もはや耐えられない状況に追い込まれていた。真っ暗な中での探り合い、相手の視えぬ殺し合い、やはり顔の視えぬ司令部からの理不尽な指令。

オルミのまなざしは、真っ暗な中で、兵士たちの微かな顔の皮膚の動きや、揺れる眼の動きを追う。まさに兵士のひとりが泣きながらひとりひとりの名前を言いたいと呟いたように、それは、数や大きな物語としてではなく、人間を個々の存在としてとらえようとする視線なのだった。

パオロ・フレスによる音楽も出色。

●参照
エルマンノ・オルミ『木靴の樹』(1978年)
オーネット・コールマン集2枚(パオロ・フレス)


エヴァン・パーカー『残像』

2016-05-08 23:25:12 | アヴァンギャルド・ジャズ

エヴァン・パーカー『残像』(Jazz & NOW Records、1982年)を聴く。貴重なLP盤。

Evan Parker (ss, ts)

仙台、秦野、横浜における演奏の記録である。ここではA面でソプラノ、B面でテナーとソプラノを吹いている。この音の群れに陶然とする。

もちろん昨年や今年のライヴも、忘れがたい体験だった。ただ当時と今とで大きく違うのはテナーであるように思える。ソプラノが連続的な音のひとつながりを出してくるのに対し、テナーは音を小分けにして放出する。いまのテナーは重力を感じさせ、ブルースの味もつけられている。一方、ここで聴くことができるテナーには、重力など感じさせない。まだエヴァン・パーカーは40歳になる前であり、エンジンの稼働状況が半端なかったということだろう。

同じ1982年、少し前の別の録音も、ある方に聴かせていただいた。やはり、放たれた音に手を出そうものなら腕ごともっていかれそうなテナーである。いやソプラノだって、当時の推進力はやはりとんでもないものだ。

それでも、かつてのソプラノといまのソプラノ、かつてのテナーといまのテナー、すべてそれぞれいいと思ってしまう。(なんてことのない結論だが。)

●エヴァン・パーカー
エヴァン・パーカー@稲毛Candy(2016年)
エヴァン・パーカー+高橋悠治@ホール・エッグファーム(2016年)
エヴァン・パーカー@スーパーデラックス(2016年)
エヴァン・パーカー、イクエ・モリ、シルヴィー・クルボアジェ、マーク・フェルドマン@Roulette(2015年)
Rocket Science変形版@The Stone(2015年)
エヴァン・パーカー US Electro-Acoustic Ensemble@The Stone(2015年)
エヴァン・パーカー+土取利行+ウィリアム・パーカー(超フリージャズコンサートツアー)@草月ホール(2015年)
エヴァン・パーカー ElectroAcoustic Septet『Seven』(2014年)
ジョン・エスクリート『Sound, Space and Structures』(2013年)
『Rocket Science』(2012年)
ペーター・ブロッツマンの映像『Soldier of the Road』(2011年)

ブッチ・モリス『Possible Universe / Conduction 192』(2010年)
エヴァン・パーカー+オッキュン・リー+ピーター・エヴァンス『The Bleeding Edge』(2010年)
ハン・ベニンク『Hazentijd』(2009年)
アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハ『ライヴ・イン・ベルリン』(2008年)
シュリッペンバッハ・トリオ『Gold is Where You Find It』(2008年)
エヴァン・パーカー+ネッド・ローゼンバーグ『Monkey Puzzle』(1997年)
エヴァン・パーカー+吉沢元治『Two Chaps』(1996年)
ペーター・コヴァルトのソロ、デュオ(1981-98年)
スティーヴ・レイシー+エヴァン・パーカー『Chirps』(1985年)
シュリッペンバッハ・トリオ『Detto Fra Di Noi / Live in Pisa 1981』(1981年)
シュリッペンバッハ・トリオ『First Recordings』(1972年)


廣木光一(HIT)@本八幡cooljojo

2016-05-08 22:11:29 | アヴァンギャルド・ジャズ

本八幡にcooljojoというハコができた。早速、開店第2日のライヴを観に足を運んだ。

HIT:
Koichi Hiroki 廣木光一 (g)
Masaharu Iida 飯田雅春 (b)
Tomohiro Yahiro ヤヒロトモヒロ (perc)

店名からわかるとおり、故・高柳昌行との縁がある。スペースの一角には、高柳昌行の蔵書が展示されており(清水俊彦、植草甚一、ラヴィ・シャンカール、ノーマン・メイラーなんかの本があった)、また、店のロゴと絵とは氏の夫人・高柳道子さんによるものが使われている。もちろん、廣木さんも高柳に師事していた。本人曰く、18歳のときから17年間、亡くなるまで教わったし、もし存命ならばいまでも毎週教えを受けに行っているだろう、と。

廣木さんのガットギターは、まるで静寂をまとっているかのようであり、周りがどうあれとてもクリアに聴こえた。オリジナルのほか、カルトーラ、ジョビン、ヴェローゾと南米の曲を演奏した。静かで同時に熱く、素晴らしいライヴだった。

終わってから少しお話をしながら、渋谷毅とのデュオ『So Quiet』(大好きなのだ)と、ヴェトナムのクエン・ヴァン・ミンとの共演盤にサインをいただいた。その、渋谷さんとのデュオも、6月に予定されている。

●参照
高柳昌行1982年のギターソロ『Lonely Woman』、『ソロ』
翠川敬基『完全版・緑色革命』(1976年)(高柳参加)
『銀巴里セッション 1963年6月26日深夜』(高柳参加)


ジョン・ダイクマン+スティーヴ・ノブル+ダーク・シリーズ『Obscure Fluctuations』

2016-05-08 09:28:32 | アヴァンギャルド・ジャズ

ジョン・ダイクマン+スティーヴ・ノブル+ダーク・シリーズ『Obscure Fluctuations』(TROST、2015年)を聴く。

John Dikeman (ts)
Steve Noble (ds)
Dirk Serries (g)

基底音は、ダーク・シリーズのエレキギターによるひしゃげた音である。周波数が変動していき、息遣いのように生命力を持って続いていく。瞑想的でもあるが、うっとりして寝てしまわないよう、スティーヴ・ノブルが刺激音を差し挟む。

ジョン・ダイクマンは、身体からまるでエクトプラズムを絞り出すようにテナーを吹く。その倍音やノイズが実に魅力的で、前面に出て叫ぶときも良いが、トリオでぐちゃぐちゃにまみれるときもまた動悸動悸する。ふっとダイクマンが息継ぎをして休むとき、ギターとドラムスとの基底音が浮上してきて、これがまた良い。

LPで聴いてその効果が増したようにも思える。


オッキュン・リー+ビル・オーカット『Live at Cafe Oto』

2016-05-07 23:28:54 | アヴァンギャルド・ジャズ

オッキュン・リー+ビル・オーカット『Live at Cafe Oto』(OTOROKU、2015年)を聴く。OTOROKUはロンドンのCafe Otoによるレーベルである。700枚限定の180グラム重量盤LP。

Okkyung Lee (cello)
Bill Orcutt (g)

まずはオッキュン・リーのチェロが実に多様な音の貌を持っていることに驚く。音域が広く、流れるように滑らかであったり、突然摩擦係数が高くなって引っ掛かったり。ためらいの無さによるものなのか、異様な迫力さえも覚える。ファンタスティックである。

どうしても場を支配しているのがオッキュンのように感じられるのだが、その場において、ビル・オーカットのギターが、なにものかを突き通すように鋭く、またブルース的にも絡んでくる。それがまるで異文化の出逢いのようでもある。

Cafe Otoにはいちどだけ足を運んだことがある。その薄暗く、また親密な空間において、これが繰り広げられたのだと思うと、陶然とした時間であったに違いないと想像できる。今年(2016年)にはオッキュンが来日し、六本木のスーパーデラックスで演奏した。やはり親密で良い空間である。都合が悪くて目撃できなかったことが残念でならない。いつオッキュンのプレイに立ち会うことができるだろう。

●参照
エヴァン・パーカー ElectroAcoustic Septet『Seven』(2014年)(オッキュン・リー参加)
エヴァン・パーカー+オッキュン・リー+ピーター・エヴァンス『The Bleeding Edge』(2010年)
オッキュン・リーのTzadik盤2枚(2005、11年)


李鶴来『韓国人元BC級戦犯の訴え』

2016-05-07 19:41:26 | 韓国・朝鮮

李鶴来『韓国人元BC級戦犯の訴え―何のために、誰のために』(梨の木舎、2016年)を読む。

日本統治下の朝鮮において、「捕虜監視員」の軍属として南方に赴いた人たちがいた。応募したのではあっても、それは差別政策と皇民化教育のもとでのことである。かれらには「捕虜監視員」の実態も、ましてや、戦時中の捕虜の取り扱いを定めたジュネーブ条約についても、知らされることがなかった。

日本はジュネーブ条約を批准しないまでも「準用」すると対外的に告げていたが、その一方で、東條英機による訓令「戦陣訓」にあるように「生きて虜囚の辱めを受けず」と軍人に教え込んでいた。すなわち、「生きて虜囚」される捕虜は、適切に処遇する以前の存在であった。(このあたりは、内海愛子『朝鮮人BC級戦犯の記録』に詳しい。)

著者の李さんも、タイとビルマの間を結ぶ泰緬鉄道の建設のため、主に連合国軍の捕虜を派遣する役目を担った。行ってみると実感できることだが、森林や岩山や崖があって、大変な場所である。それにも関わらず、ごく短期間で、食糧も人手も足りない中で、捕虜たちは酷使された。約5.5万人の捕虜のうち、約1.1-1.6万人が亡くなったと言われる。したがって、「捕虜監視員」も加害の側に立っていたことには間違いがない。

しかし、である。朝鮮・韓国人のかれらは、祖国でもない日本の政策の末端を担わされたのであった。そして、戦後、ろくに検分がなされることもなく、かれらはシンガポールや香港の刑務所に収監され、死刑や有期・無期刑が処された。1952年のサンフランシスコ講和条約のあと、日本政府は、戸籍によって国籍を定めた(植民地文化学会・フォーラム『「在日」とは何か』)。すなわち、BC級戦犯とされた朝鮮出身者は、突然、国家補償の対象から外されてしまった。その一方で、罪は、日本国籍であったときのものだとされた。たいへんな不条理である。(その姿は、大島渚『忘れられた皇軍』においてもリアルにとらえられている。)

この不条理に対し、日本政府は、1965年の日韓基本条約ですべて解決済みだとして、極めて冷淡な態度を取り続けた(しかし、本書によれば、条約の協議のときに、この問題については考えないとする文書が後で発見されている)。「条理」に基づく補償要求を含む訴訟は、地裁においては「日本国民と同様に受忍せよ」、高裁においては「補償の立法が先である」、最高裁は棄却と、不当な判決を受けてきた。そしてなお、李さんたちは立法化に向けた運動を続けている。 

●参照
内海愛子『朝鮮人BC級戦犯の記録』(1982・2015年)
植民地文化学会・フォーラム『「在日」とは何か』(2013年)
泰緬鉄道(2011年)
罪は誰が負うのか― 森口豁『最後の学徒兵』(1993年)(ジュネーブ条約に言及)
大島渚『忘れられた皇軍』(1963年)
スリランカの映像(10) デイヴィッド・リーン『戦場にかける橋』(泰緬鉄道)(1957年)


カーラ・ブレイ+アンディ・シェパード+スティーヴ・スワロウ『Andando el Tiempo』

2016-05-07 12:16:26 | アヴァンギャルド・ジャズ

カーラ・ブレイ『Andando el Tiempo』(ECM、2015年)。待望の新譜である。昨夜入手して、何度も聴いた。

Carla Bley (p)
Andy Sheppard (ts, ss)
Steve Swallow (b)

哀しく、抒情的で、時間が不可逆的でありながらたゆたうような、カーラ・ブレイ音楽がここでも全面的に展開されている。

コードに乗せて、思索的に周辺の音を置いていくカーラ。アンディ・シェパードの透き通ったサックスが歌う中、ゆったりとスティーヴ・スワロウのベースが入ってくると、ぞくりとする。この人のベースはなぜここまでエロチックなのか。情感もここまで出せばもはや過激の領域である。

後半にいたり、微妙に喜びのムードもあったりして、「慢性的に泣きそうな」感覚をおぼえる。

●参照
カーラ・ブレイ+アンディ・シェパード+スティーヴ・スワロウ『Trios』(2012年)
カーラ・ブレイ+スティーヴ・スワロウ『DUETS』、渋谷毅オーケストラ(1988年)
アンディ・シェパード『Surrounded by Sea』(2014年)
キース・ティペット+アンディ・シェパード『66 Shades of Lipstick』、シェパード『Trio Libero』(1990年、2012年)
アンディ・シェパード、2010年2月、パリ
ケティル・ビヨルンスタ『La notte』(2010年)(シェパード参加)
アンディ・シェパード『Movements in Color』、『In Co-Motion』(2009年、1991年)
スティーヴ・スワロウ『Into the Woodwork』(2011年)
ケニー・ホイーラー『One of Many』(2006年)(スワロウ参加)
ポール・ブレイ『Homage to Carla』(1992年)
ポール・ブレイ『Plays Carla Bley』(1991年)
日野元彦『Sailing Stone』(1991年)(スワロウ参加)
アート・ファーマー『Sing Me Softly of the Blues』(1966年)(スワロウ参加)
ポール・ブレイ『Complete Savoy Sessions 1962-63』(スワロウ参加)


Timelessレーベルのジョージ・コールマン

2016-05-07 08:43:32 | アヴァンギャルド・ジャズ

Timelessレーベルの諸作が廉価盤で出ていて、ジョージ・コールマンが吹いている2作品を入手した。今まで、このレーベルのコールマン作品としては、『Amsterdam After Dark』(1978年)だけを持っていた。

シダー・ウォルトン『Eastern Rebellion』(Timeless、1975年)

Cedar Walton (p)
George Coleman (ts)
Sam Jones (b)
Billy Higgins (ds)

この鉄壁のメンバーで「Bolivia」とか「Naima」とか「Mode for Joe」を演って悪いわけがないのだ。こんなにサプライズも何もなしで安心してぬるま湯につかって酒を飲んでいるような気分で聴いていていいのだろうか。もはやコメのおにぎりである。

ブルージーで粒が立ったシダー・ウォルトンのピアノはなかなかステキである(そういえば、渡辺貞夫との共演盤もよかった)。村上春樹がたしか『スイングがなければ意味はない』において彼のピアノについて書いているはずだが、読んでいない。地味だとでも言っているのかな。

サム・ジョーンズのベースは、もともとそうではあるのだが、中音域を重くなくブンブンと録音していて、ちょっと物足りない。ビリー・ヒギンズのどや顔が見えるようなシンバルワークも同様。こういう演出や録音がウケていたのだろうか。

そしてジョージ・コールマン。コードに乗って実に巧みで渋いソロを取る。

同時期のライヴ映像(シダー・ウォルトン『Recorded Live at the Umbria Jazz Festival』)を持っているが、これがまたいいのだ。

ジョージ・コールマン+テテ・モントリュー『Meditation』(Timeless、1977年)

George Coleman (ts)
Tete Montoliu (p)

さすがにこのデュオになると、上のベタなハードバップよりも尖っている。テテ・モントリューのピアノは、期待通り、エッジが立っていて鮮やかである。それに対するいつもの懐の深いコールマン。こんなにマッチする演奏もなかなかないのではないか。

ところで、モントリューにとっては、アンソニー・ブラクストン『In the Tradition』に参加した数年後である。そこでもモントリューらしさが発揮されていて好きではあるのだが、当の本人はブラクストンの奇怪なプレイに対してどう思ったのだろう。引いたのか、喜んだのか、マイペースだったのか(マイペースに一票)。

●参照
シダー・ウォルトンの映像『Recorded Live at the Umbria Jazz Festival』(1976年)
アーマッド・ジャマル『Ahmad Jamal A L'Olympia』(2001年)(ジョージ・コールマン参加)
エルヴィン・ジョーンズ『Live at the Village Vanguard』(1968年)、ジョージ・コールマン『Amsterdam After Dark』『My Horns of Plenty』(1978、1991年)
マックス・ローチの名盤集(ジョージ・コールマン参加)


たくさんのミントとたくさんのパクチー

2016-05-06 23:16:06 | 食べ物飲み物

東西線木場駅の近くに「カマルプール」というインド料理店があって、ドラマ『孤独のグルメ』に取り上げられて以来、大人気である。わたしも夜中につい見入ってしまい、これはいつか行かねばと思っていた。近所に住む方によれば、その前から旨くて評判だっただけに、混んでいて入れないことは残念だとの言。そんなわけで、先日、電話をかけてあと30分したら行きますと予約を入れた。

看板メニュー(のひとつ)は「ラムミントカレー」というもので、文字通り、ソテーしたラム肉と、冗談のようにたくさんのミントが、カレーと混ざり合っている。ラムは新鮮で、ミントの効果もあってかまったく臭くない。しかも、ふつうはインドのカレーを食べたあとは口の中にスパイス世界ができるものだが、この場合は、妙にさっぱりして新鮮な体験だった。

他には「チーズクルチャ」や、チーズをゴルゴンゾーラにした「ゴルゴンゾーラクルチャ」なるものがある。チャパティやナンのような小麦粉の皮の中に、やはり冗談のように大量のチーズを封じ込めて窯で焼いたもので、これもチーズ好きにはたまらない。さらに旨そうな料理がたくさんあって、こんどまた行こうと心に誓っている。

日暮里は昔住んでいた近くの街で、千駄木との間にある谷中銀座はいつも賑わっている。その端っこに、「夕焼けだんだん」という階段があって(つまり、山の手の東端の細い山である)、それをのぼったところに「深圳」という小さい店がある。わたしが住んでいたころには多分なかった。

なお、階段の下には「シャルマン」というジャズ喫茶や(学生の頃には敷居が高くて入ったことがない)、「ザクロ」というペルシャ・トルコ料理の店や(ここがまた凄まじいところなのだが)、「蟻や」というとんかつ屋(篠山紀信が宮沢りえを撮った『Santa Fe』が当時置いてあって興奮しながら食べた)なんかがある。

その「深圳」が最近評判のようなので、わざわざ電車に乗って行ってきた。目玉は「ラム肉とパクチーの炒め飯」である。静岡の地ビール「パンダビール」を飲みながらしばらく待っていると、大迫力の皿が運ばれてきた。ご飯とラムの上に、野っ原のように大量のパクチーが載せてある。それが目当てだったのではあるが、実物を見ると驚く。キワモノではない。下のコッテリした肉飯とのバランスがとてもよくて、あっという間に夢中になって平らげてしまった。

それにしても、どちらもラム肉に対するカウンターとしての、生のスパイス。過剰なのに、旨さにしか貢献していない。

パクチーはシャンツァイでもあり、コリアンダーでもある。すなわちカレーに使われているわけであるから、カレーへのカウンターとしてパクチーを大量に入れてもまた旨いのではないか。あるいは大量のパセリであればどうなるだろう。


デイヴィッド・ゴードン・ホワイト『犬人怪物の神話』

2016-05-06 07:11:59 | 思想・文学

デイヴィッド・ゴードン・ホワイト『犬人怪物の神話 西欧、インド、中国文化圏におけるドッグマン伝承』(工作舎、原著1991年)を読む。

私たちも、自己判断のない権力の忠実な実行者のことを「イヌ」などと称したりする。犬が怖くて苦手なわたしにさえ、それはちょっと犬に失礼ではないかと思えたりもする。しかし、本書によれば、そのような扱いは、神話の時代から全世界で見られるものなのだった。例外は無数にあるにせよ、概ね、犬に重ねられたイメージは、自己の文明外への恐怖と好奇心、そして穢れであった。そして多くの場合、犬の顔をした人間という形が表象としてあらわれた。

ヨーロッパから見れば、紀元前4世紀のアレクサンドロス大王の東方遠征があった。東方・アジアは不可解な外部とみなされ、そのことは、イスラームの勃興によってエスカレートした。そのようにして外部を創りだし、自身の物語を強化していった。そのような視線の形成において、犬がなんらかの役割を与えられてきたわけである。たとえば、14世紀のペスト大流行においても、恐怖のペストは東側の犬でもあった。

恐怖・好奇心の向かう先は、インドともエチオピアとも称されたわけだが(現在の地理的感覚からみれば冗談のように大雑把)、そのインドにおいても、地理的にも、精神的にも、外部を設定した。精神的には、それはアウトカーストであり、やはり犬が重なっていった。

中国においては王・帝の側の物語に入っていたりと、多少様相が異なるような記述もある。モンゴル帝国の表象が狼であったことも無縁ではないだろう。匈奴やモンゴルは中国に重なったり、外敵であったりもしたのだから。

必ずしも犬にばかりでなく、やや風呂敷を広げ過ぎている感もあるが、面白い本である。インドの穢れという観点だけでなく、日本や朝鮮における犬食い文化についても言及してほしかったところ。


Worldwide Session 2016@新木場Studio Coast

2016-05-05 08:30:03 | アヴァンギャルド・ジャズ

からりと晴れて海から強風が吹きつける中、新木場のStudio Coastにて開催された「Worldwide Session 2016」に足を運んだ(2016/5/4)。

今回は、サン・ラ・アーケストラを率いてマーシャル・アレンが再来日している。剛田武さんによるインタビューに同席し、たまに口をはさみ、レジェンドの写真を撮ることがミッションである。その詳細は後日なのだが、いや、92歳なんてとても信じられなかった。

■ ミゲル・アトウッド・ファーガソン

Miguel Atwood-Ferguson (5 String Violin)
Jamire Williams (ds)
Gabe Noel (b)
Marcel Camargo (g)
Josh Nelson (p, key)
Walter Smith III (ts)

マーシャル・アレンのエネルギーに気圧されたためか、エネルギーを吸い取られたためか、最初のうちは眠くて意識を失っていた。しかし、それはミゲル・アトウッド・ファーガソンの流麗なヴァイオリンと、心地よいサウンドのためでもあった。注目のウォルター・スミスIII世のテナーはスムースなものだった。

■ サン・ラ・アーケストラ feat. マーシャル・アレン

Marshall Allen (as, fl, cl, EVI, Kora)
Knoel Scott (as, vo, perc, dance)
Danny Ray Thompson (fl, bs)
James Stewart (ts)
Cecil Brooks (tp)
Michael Ray (tp)
Dave Davis (tb)
Tyler Mitchell (b)
Francis Middleton (g)
George Burton (p)
Wayne Anthony Smith, Jr. (ds)
Elson Nascimento (Surdo percussion)
Tara Middleton (vo)

ぎらぎらのヒカリモノに身を固めた面々による、予想を遥かに超えるパフォーマンス。タラ・ミドルトンが叫ぶ「Space is the place!」の掛け声とともに、会場は狂乱の渦と化した。宇宙からのゲストらしく「Fly Me to the Moon」や、「Everyday I Have the Blues」なんかも演った。

渦の中心は間違いなく御大マーシャル・アレンであった。旋律をジャンプするどころか、なんだかよくわからない音をケレン味たっぷりに発しまくる。観たかったものは、かれが右手でアルトをばしばし叩くワザなのだが、さらに、下から凄い勢いでスライドするようにアルトを叩いていた。しかもステージの右から左まで、どうだ凝視しろと言わんばかりに高速でカニ歩きしながら。ショーマンシップの神髄を見せつけられたような気分だ。

アレンは故サン・ラの役もすべて引き受けている。凄まじいアルト演奏だけではない。バンドメンバーに痙攣するように何やら指示し、指示された側はえっ何?何?とばかりに慌てて演奏していた。そしてEVIでの情けない電子音により創りだされる、過去から人びとの心に存在する宇宙。見事に、巨大なスペースに集まった観客の心をとらえていた。

■ ソイル

元晴 (sax)
タブゾンビ (tp)
丈青 (p, key)
秋田ゴールドマン (b)
みどりん (ds)
社長 (agitator)
Guest:
日野皓正 (tp)

サン・ラのあとでは誰でも分が悪いと思うが、社長のよくわからぬアジで会場を最後まで盛り上げた。みんな巧くて聴かせる。なかでも丈青のピアノは尖がっていて、際立って鮮やかだった。

ヒノテルのプレイを観るのは何年ぶりだろう、新宿ピットインで菊地雅章とのデュオを観て以来ではないのかな。突き抜けないトランペット、軽やかな動き(照れなければいいのに)、妙なトークなど、この人も相変わらずである。

そんなわけで昼から夜まで大満足。帰り路で立ち寄った浦安のバーで、「新木場に行ってきたよ、何て言ったっけ」「ああスタジオコースト?若い人ばっかりだったんじゃないの」、「なんだっけ、ジャイルス・ピーターソンとか松浦俊夫とかのDJが」「いやそりゃ有名だよ」。要するにこのへんの音楽に関してわたしが無知なだけなのだが。

マーシャル・アレンはなぜか自分自身の上ではなくキッド・ジョーダンの上に笑いながらサインした

●参照
アレン/ドレイク/ジョーダン/パーカー/シルヴァ『The All-Star Game』(2000年)
ビリー・バング+サン・ラ『A Tribute to Stuff Smith』(1992年)
サン・ラの映像『Sun Ra: A Joyful Noise』(1980年)
ポール・ブレイ『Barrage』(1964年)(マーシャル・アレン参加)


マット・ウォレリアン+マシュー・シップ+ハミッド・ドレイク(Jungle)『Live at Okuden』

2016-05-04 08:36:14 | アヴァンギャルド・ジャズ

マット・ウォレリアン+マシュー・シップ+ハミッド・ドレイク(Jungle)『Live at Okuden』(ESP、2012年)を聴く。

Jungle:
Mat Walerian (as, bcl, fl)
Matthew Shipp (p)
Hamid Drake (ds)

マット・ウォレリアンというリード奏者を聴くのははじめてだ。以前に、やはりESPからマシュー・シップとのデュオを出していて気になっていたけれど。むしろマシュー・シップとハミッド・ドレイクのふたりが目当て、しかもESPであるし。

そんなわけで、この2枚組を繰り返しているのだが、ウォレリアンのアルトはなかなか魅力的である。あまりはじけないオーソドックスな人なのかと思いきや、艶やかな音で、執拗に同じフレーズをうねうねと続けていき、シップのピアノと絡んでいくさまなど刺激的でもある。ちょっと、「艶やかでしつこく同じフレーズ」なんて、ノア・ハワードを思わせるところがある。

しつこくて執拗と言えばシップもそのような感じで、とにかく自分のイディオムを展開して、絶えず隙あらば自分の世界にサウンドを引き込もうとしている。ドレイクのドラムスも含め、三者とも自分を柔軟に曲げたインタラクションというよりも、自分のペースを保ち、そのうえで他のふたりと絡んでいるような・・・。

●マシュー・シップ
ジョン・ブッチャー+マシュー・シップ『At Oto』(2010年)
DJスプーキー+マシュー・シップの映像(2009年)

●ハミッド・ドレイク
ジョージ・フリーマン+チコ・フリーマン『All in the Family』(2014-15年)
ブッチ・モリス『Possible Universe / Conduction 192』(2010年)
サインホ・ナムチラックの映像(2008年)
デイヴィッド・マレイ『Saxophone Man』(2008、10年)
デイヴィッド・マレイ『Live at the Edinburgh Jazz Festival』(2008年)
デイヴィッド・マレイ『Live in Berlin』(2007年)
ウィリアム・パーカーのカーティス・メイフィールド集(2007年)
イレーネ・シュヴァイツァーの映像(2006年)
フレッド・アンダーソンの映像『TIMELESS』(2005年)
ヘンリー・グライムス『Live at the Kerava Jazz Festival』(2004年)
ウィリアム・パーカー『... and William Danced』(2002年)
アレン/ドレイク/ジョーダン/パーカー/シルヴァ『The All-Star Game』(2000年)
ペーター・ブロッツマン『Hyperion』(1995年)


ニーナ・シモンの映像『Live at Ronnie Scott's』、ミシェル・ンデゲオチェロ『Pour une ame souveraine』

2016-05-03 09:21:22 | アヴァンギャルド・ジャズ

たぶん東京MXテレビが放送を開始した頃だと思うが、ジャズの映像を流す番組があって、マルサリス兄弟が参加したジャズ・メッセンジャーズのライヴだとか、チコ・フリーマンのライヴだとかを放送していた。その中に、ニーナ・シモンのライヴもあって、当時のわたしとは世界が違い過ぎるものゆえ、録画したもののほとんど観ることはなかった。最近、あらためてそのDVD『Live at Ronnie Scott's』(1985年)を観た。

Nina Simone (vo, p, key)
Paul Robinson (ds)

とにかく民族も文化も宗教も個人的背景も異なるわたしにとって、1曲目の「God, God, God」という、ひたすらに呟き祈る歌が、見続けることの「障壁」となっていたのだった。いま観ると、もちろん無防備にではないものの、意外なほど素朴なニーナの声質とともに、少なからず沁みこんでくるような気がする。

カミへの祈りはヒトへの切なる想いでもあって、「Be My Husband」や、有名な「I Loves You, Porgy」(歌い始めた途端にロンドンの聴衆からも拍手が起きる)などでは、切実さからの痛さと同時に、ニーナの可愛らしさにも気付かされる。

そしてただピアノを弾きながら一心に歌っているばかりでなく、ドラムスのポール・ロビンソンの見せ場を作ったり、躍りながら歌ってみたりと、当然ではあるがエンターテイナーでもあったのだった。時間を置いてみるものだね。

そんなわけで、前から聴いてみようと思っていた、ミシェル・ンデゲオチェロ『Pour une ame souveraine - a dedication to Nina Simone』(Naive、2012年)を入手して聴いた。

Meshell Ndegeocello (vo, b)
Chris Bruce (g)
Deantoni Parks (ds)
Jebin Bruni (key, p)
Guests:
Toshi Reagon (vo)
Sinead O'Connor (vo)
Lizz Wright (vo)
Valerie June (vo)
Tracey Wanomae (vo)
Cody ChesnuTT (vo)

ミシェルのベースがクールなのは当然だとして、このアルバムは、むしろ彼女の歌声に焦点を当てているように思える。曲は、タイトル通り、ニーナの歌ってきたものばかりなのだが、声質と雰囲気はまったく異なる。まるで冷たかったり微温がしたりする掌で、直接肌をさらりと触られるような、ぞくりとする感覚がある。切実さも惜しみなく発しつつも、その想いを残してさっと去って行ってしまったりして、聴く者はどうすればよいのか。

最後の曲「For Women」では、肌の色がそれぞれ異なる4人の女性の独白のような歌詞である。そして4人目だけ、自分の名前を名乗らずに去っていく。この宙ぶらりんの哀しさといったら。

●参照
テリ・リン・キャリントン『The Mosaic Project: Love and Soul』(2015年)(ミシェル・ンデゲオチェロ参加)
ミシェル・ンデゲオチェロ『Comet, Come to Me』(2014年)
ミシェル・ンデゲオチェロの映像『Holland 1996』(1996年)


RS5pb@新宿ピットイン

2016-05-03 00:36:07 | アヴァンギャルド・ジャズ

新宿ピットインに足を運び、RS5pb (Ruike Shinpei 5 piece band)を観る(2016/5/2)。

RS5pb:
Shinpei Ruike 類家心平 (tp)
Takuya "tak" Tanaka 田中 "tak" 拓也 (g)
Joji Nakajima 中嶋錠二 (p, key)
Koji Tetsui 鉄井孝司 (b)
Daisuke Yoshioka 吉岡大輔 (ds)
Akiko Nakayama 中山晃子 (alive painting)

客席にはずいぶん女性と外国人が多い。どういうわけだろう。

ステージ前には薄い布が垂れ下がっていて、それをスクリーンとしている。つまり、パレットで弄ぶ絵の具の挙動を加工し、プロジェクターにより投影するわけである。その、躍る砂や生命の液体のような映像の向こうで、バンドメンバーたちが演奏する。

サウンドはロックであり、また、映像とイメージがシンクロするように、有機物と無機物が混濁し、下からの擾乱がある。その中で、ギターとピアノ・キーボードがエンジンとなってサウンドを動かしているように聴こえる。そして類家さんのトランペットは、他でのジャズやインプロヴィゼーションと違って渾身の力で吹きまくっている。やはり他の人とは違う音色で、体液のミストをまとっているようだ。

●参照
白石雪妃×類家心平DUO(JazzTokyo)(2016年)
白石雪妃+類家心平@KAKULULU(2016年)
齋藤徹+類家心平@sound cafe dzumi(2015年)
板橋文夫『みるくゆ』(2015年) 
森山・板橋クインテット『STRAIGHTEDGE』(2014年)