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「あの戦争は何だったのか 大人のための歴史教科書」保阪正康

2014年10月09日 23時04分12秒 | 読書(ノンフィクション)


「あの戦争は何だったのか 大人のための歴史教科書」保阪正康

太平洋戦争を俯瞰する本。
多数のエピソードも挿入されていて、退屈しない。

P55
太平洋戦争開戦前の日米の戦力比は、陸軍省戦備課が内々に試算すると、その総合力は何と1対10であったという。米国を相手に戦争するに当って、首相、陸相の東條英機が、その国力差、戦力比の分析に、いかに甘い考えを持っていたかが今では明らかになっている
(東條英機は「精神力で勝っているはずだから、五分五分で戦える」、としたそうだ。そんなバカな!と今なら言えるが当時は言えなかったのだろう・・・それが怖い)

P92
東條の秘書官だった赤松はこうも言っていた。
「あの戦争は、陸軍だけが悪者になっているね。しかも東條さんはその中でも悪人中の悪人という始末だ。だが、僕ら陸軍の軍人には大いに異論がある。あの戦争を始めたのは海軍さんだよ・・・・・・」

P105
私は、この戦争が決定的に愚かだったと思う、大きな一つの理由がある。それは、「この戦争はいつ終わりにするのか」をまるで考えていなかったことだ。

P120
例えば、もし「ミッドウェー海戦」で戦争を終結していたら・・・・・・。もちろん、これはありえない歴史上の「イフ」である。しかし、吉田茂がひそかに和平工作を模索しているなど、その時点で全く可能性がゼロだったとは言い切れない。
「戦争を終結させる」とはいわない、なにせまともに「戦争の終結」像すらも日本の首脳部は考えていなかったのだから。でも、せめて“綻び”が出始めた昭和17年末の段階で、「このままの戦い方でいいのか」、あるいはもっと単純に「この戦争は何のために戦っているのか」と、どうして立ち止まって、誰も顧みなかったのか。

P121-122
資料に目を通していて痛感した。軍指導者たちは“戦争を戦っている”のではなく、”自己満足”しているだけなのだと。おかしな美学に酔い、1人悦に入ってしまっているだけなのだ。兵士たちはそれぞれの戦闘地域で飢えや病で死んでいるのに、である。
挙げ句の果てが、「陸軍」と「海軍」の足の引っ張り合いであった。
「日本は太平洋戦争において、本当はアメリカと戦っているのではない。陸軍と海軍が戦っていた、その合い間にアメリカと戦っていた・・・・・・」などと揶揄されてしまう所以である。

P148
昭和18年に戦況が悪化すると、東條の演説や側近への話には筋道の通らない論理が含まれるようになった。たとえば、「戦争が終わるということは、戦いが終わった時のこと、それは我々が勝つということだ。そして、我々が戦争に勝つということは、結局、“我々が負けない”ということである」、という意味不明のことさえ口にした。あるいは「戦争は負けたと思ったときは負け。そのときに彼我の差がでる」とも言うのである。
(う~ん、参りました)

P150
十月に、陸軍の飛行学校に、学生たちへのねぎらいも込めて、視察に行った時のこと。東條は学生に「B-29が飛んできたとする。そうしたら、君は何で打ち落とすか」と問い掛けた。問い掛けられた学生は教科書通りに「15センチ高射砲で撃ち落とします」と答えると、東條は「違う、そうじゃない。精神力で打ち落すんだ」と語ったという。
(じゃ、手本を見せてください、って)

P172
牟田口(廉也)は、実は泥沼の日中戦争のきっかけとなった盧溝橋事件をおこした部隊の連隊長であった。日頃から「支那事変はわしの一発で始まった。だから大東亜戦争はわしがかたをつけねばならん」というのが牟田口の口癖であった。
(その牟田口が考えた作戦が、悪評高い「インパール作戦」だ)

P179
私はインパール作戦で辛うじて生きのこった兵士たちに取材を試みたことがある。彼らの大半は数珠をにぎりしめて私の取材に応じた。そして私がひとたび牟田口の名を口にするや、体をふるわせ、「あんな軍人が畳の上で死んだことは許されない」と悪しざまに罵ることでも共通していた。

P228
“勝ち戦”に乗じて日本の領土が欲しかったスターリンは、トルーマンに「我々は関東軍を掌握し、北海道方面に侵攻している。ソ連の制圧地域として北海道を認めて欲しい」と要求していた。しかし、トルーマンは、決してそれを認めなかった。スターリンはもう一度、「北海道が欲しい」と重ねて訴えるが、やはり断られてしまう。ならばと、「領土の代わりに、関東軍の兵を労働力としてもらう」と勝手に決めてしまった節があるのだ。
こうして「シベリア抑留」が行われた。

P222-223
歴史に他の選択肢はないが、「原爆」を落とされ、負けた。その結果、アメリカに占領されてよかったという見方もできる――。
(結果として、そうかもしれない・・・でも、このあたり、この著者に違和感を感じる。頭の良い方って、理屈が先走ってしまう・・・良識を置き去りにして。広島や長崎の方に、「原爆を落とされてよかった」、と言えるのか?)

昭和史研究では有名な方で、さすがよく調べてあるし、要領よくまとめてある、と思う。
ただ、タイトルから「あの戦争は何だったのか」の明解な答えを期待すると、肩すかしを食らう。
(そういう意味で、タイトルと内容が微妙にかみ合っていない)
太平洋戦争の「流れ」を概観して、「あの戦争は何だったのか」、と考える切っ掛けになる作品。 

【言葉の説明】
八紘一宇・・・日本書紀、神武天皇が大和橿原に都を定めた詔に出てくる言葉
「八紘」とは「四方と四隅」を表し、八方のはるかに遠い果てを指す。「一宇」は一つの家のことである。つまり、「地の果てまで一つの家のようにまとめて天皇の統治下におく」という意味となる。P52

東條英機の「戦陣訓」
有名な一節・・・「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」表現は島崎藤村が推敲したとされる。
この思想のために、多くの軍人、兵士たちが玉砕の憂き目にあったのである。P70

【おまけ・・・残念な点】
当時のメディアと大衆の動向に触れていない。
文献が掲載されていないのも残念。 
その点、加藤陽子先生は、大学教授だけあって、しっかり記載されている)
「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」加藤陽子

【ネット上の紹介】
戦後六十年の間、太平洋戦争は様々に語られ、記されてきた。だが、本当にその全体像を明確に捉えたものがあったといえるだろうか―。旧日本軍の構造から説き起こし、どうして戦争を始めなければならなかったのか、引き起こした“真の黒幕”とは誰だったのか、なぜ無謀な戦いを続けざるをえなかったのか、その実態を炙り出す。単純な善悪二元論を排し、「あの戦争」を歴史の中に位置づける唯一無二の試み。
[目次]
第1章 旧日本軍のメカニズム(職業軍人への道
一般兵を募る「徴兵制」の仕組み ほか)
第2章 開戦に至るまでのターニングポイント(発言せざる天皇が怒った「二・二六事件」
坂を転げ落ちるように―「真珠湾」に至るまで)
第3章 快進撃から泥沼へ(「この戦争はなぜ続けるのか」―二つの決定的敗戦
曖昧な“真ん中”、昭和十八年)
第4章 敗戦へ―「負け方」の研究(もはやレールに乗って走るだけ
そして天皇が動いた)
第5章 八月十五日は「終戦記念日」ではない―戦後の日本