「私たち、戦争人間について」石川明人
昨年読んだ「キリスト教と戦争」はとてもよかった。→「キリスト教と戦争」 石川明人
本作品は、さらに範囲を広げて、戦争とは何か、戦争をなくすことができるのか、と言った根源的な問いに対する作品となっている。
P33
戦争に対する問いは、究極的には、人間とは何か、という問いに行き着く。
そして、人間とは何かという問いは、私とは何か、私とはどんな人間か、という自問や自覚とも連動している。本書を書き進めていこうとするうえで感じる羞恥と逡巡は、おそらくそこに由来する。
P129
日本の種子島に鉄砲が伝来したのは、1542年前後とされている。フランシスコ・ザビエルが鹿児島にやってきてキリスト教を伝えたのは1549年なので、「新兵器」と「愛の教え」はほぼ同時期に日本に入ってきたことになる。
P244
ヨーロッパでは、同じキリスト教徒たちが凄惨な戦いを繰り広げてきた。彼らは決して、互いについて無知だったわけではないであろう。相手をよく知り、相手をよく理解してさえいれば仲良くできるわけではない。
P267
「九条があること」と「長いあいだ戦争をしていないこと」とのあいだに本当に因果関係があると言えるのかどうかについての義論さえ曖昧である。
戦争を繰り返してはいけない、と言うならば、今現在の戦争、軍事、国際情勢について学ぶことこそ重視されなければならないはずだ。
P268
わが国では、戦争中は「必勝への信念」が重視されたが、戦後はそれが、単純に「平和への信念」へと切り替えられた。「信念」が好きなのだ。「戦争」も「平和」も、道徳感覚と結び付けられ、情緒で語り、情緒で説得しようとする傾向が強い。
P271
歴史から学べと人は言うが、純粋な平和主義など少なくとも政治的レベルでは現実的ではないということこそ歴史の教訓ではないのか、といった疑問もあり得るだろう。
地上から武器を減らしていくことは、平和構築の第一歩だ。しかし、他国に軍縮をうながし、それを強制することができるのは、基本的には、その国を上回る軍事力だけだというのが冷厳な現実ではないだろうか。
P276
戦争と平和について考えるうえで重要なのは、「愛」ではない。「愛が大事」なのではなく、人は人を愛せない、全ての人は愛せない、という単純な事実認識が大事なのである。
P284
本書の狙いは、序章でも述べたとおり、戦争の不可解さについて答えることではなく、むしろ問いかけることであることをご理解いただければと思う。
【参考リンク】
石川明人『私たち、戦争人間について』
【ネット上の紹介】
人はなぜ、平和を祈りながら戦い続けるのか?私たちの“凡庸な悪”を正視するための、たぐいなき戦争随筆。長らく忌避されてきた“軍事の思考”を始めるに恰好な、助走路的エッセー。
序章 この世界のいったいどこに神がいるのか
第1章 戦争の原因は何か、という問いについて
第2章 戦争は人間の本性に基づいているのか
第3章 戦争の役に立つ技術と知識
第4章 あまり自明ではない「戦争」概念
第5章 戦時における人の精神と想像力
第6章 私たちの愛と平和主義には限界がある