「日本を決定した百年」吉田茂
次の3部からなる。
①「日本を決定した百年」
②「外国人が見た近代日本」
③「思出す侭」
①は、明治から高度経済成長まで、簡潔にまとめられている
②は、アーネスト・サトウ、エドワード・モース、ハーマン・カーンなど、7人が取りあげられている
③は、戦中戦後の思い出を、記者が聞き書きしたもので、①とダブル箇所あり
戦争が終わって1ヶ月後、外務大臣に任命されたとき、鈴木貫太郎氏に会って、
次の言葉を聞いたそうだ
P63
「戦争は勝ちっぷりもよくなくてはいけないが、負けっぷりもよくないといけない。鯉は俎の上に載せられてからは、包丁をあてられてもびくともしない。あの調子で負けっぷりをよくやってもらいたい」と言われた。この鈴木氏の言葉は、その後私が占領軍と交渉するにあたって私を導く原則となったが、考えてみるとそれは日本人が一般にもっていた考え方であったかもしれない。
外交の重要性について
P185
当時の国民にハウス大佐のいうディプロマチック・センスがあったならば、敗戦の憂き目を見ずに済んだものと思われてならない。
ハル・ノートについて、グルー米国大使とのやりとり
P187
(前略)12月1日虎ノ門の東京クラブで大使に会った。大使は私の顔を見るなり別室に案内し「ハル・ノートを読んだか」と聞く。私は浪人でもあったし読んだことは読んだが、当事者でなかったから「承知している」と答えた。大使は椅子から身体を乗り出すようにして「あのノートは君は何と心得るか」というので、私は「あれはテンタティヴ(試案)であると聞き及んでいる」と返答したら、大使は卓を叩いて語調も荒く「まさにその通りだ。日本政府はあれを最後通牒なりと解釈し、日米外交の決裂の如く吹聴しているが、大きな間違い。日本側の言分もあるだろうが、ハル長官は日米交渉の基礎をなす一試案であることを強調しているのだ。この意味を充分理解して欲しい。ついては東郷外相会いたい。吉田君から斡旋してもらえないか」という。(このとき既に「真珠湾」は決定済みだったんでしょうね…でも、「外交交渉」の余地はなかったのだろうか…悔やまれる)
P210
しかるに自ら国力を計ることなく、八紘一宇というが如き妄想に捉われ、ドイツ人の妄論虚説を真実と受入れ、結ぶべきと結ばず、結ぶべからざるものと結んで戦争に突入し惨敗したのである。極く率直にいえば、世界的外交的な知識判断のない軍人、政治家が国を誤ったのである。
日米安保条約の将来をどう思われますか、という質問に対して
P296
(しばらく沈黙したあとで)条約などは一片の紙切れにすぎない。当時、私はあれが最善と考えたから条約を結んだ。将来のことは将来の世代が決めるべきことです。
【ネット上の紹介】
『日本を決定した百年』は、簡にして要を得た記述にて明治建国から戦後復興までの日本の近代化を跡づけた異色の歴史書である。すぐれた歴史感覚をもち勤勉に働く国民を描きながら、吉田は「日本人は甘やかされてはならない」と述べることを忘れていない。吉田の肉声が聞こえる「思出す儘」を付す。
第1章 明治の創業―冒険と成功
第2章 近代化のジレンマ
第3章 戦後の二、三年―困難と努力
第4章 奇跡の経済発展―勤勉と幸運
第5章 奇跡のあとで
日本を決定した百年 付録―外国人がみた近代日本
思出す儘
「風雲児たち」(5)みなもと太郎
シリーズ5作目
少しずつ読み込んでいる。
(最終巻に辿り着けるだろうか)
火事がどのように抜けていったか説明されている
これが振袖火事につぐ大江戸二番目の大火災「目黒行人坂の大火」である
御三家と御三卿の違いが説明される