MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

素直に喜べない圧勝

2011-10-13 00:02:29 | Weblog

8-0爆勝プロデュース!ザック魔術(サンケイスポーツ) - goo ニュース

 確かに8-0の圧勝だったのではあるが、次々と得点を重ねながらも私は見ていて

あまり面白くなかった。とにかく相手のタジキスタンの選手にやる気が見えなかったから

であるが、ほとんどタジキスタンが攻撃を仕掛けてこなかった理由が、日本の攻撃が

凄いために仕掛ける余裕が無かったためなのか、あるいはかなりの弱小チームである

ためなのかがよく分らない。見ている限りではまるでプロのチームが学生チームと

練習試合をしているようにしか見えなかったために、この圧勝は素直に喜べないのである。


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『特集:SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2011』 100点

2011-10-12 22:24:43 | goo映画レビュー

特集:SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2011

-年/-

ネタバレ

SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2011覚書

総合★★★★★ 100

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 『クロッシング』(セリム・デミルデレン監督)はタイトルから考えてみたい。主人公のギュヴェンが妊娠している妻を癒すために車で森に向かっていた同じ頃に、やがてギュヴェンと同じ部屋で働き始めるようになるアルズは産気付いて、夫のタマルが車を運転して慌てて病院に向かっていた。2台の車は偶然にも同じ時刻に同じ交差点(=Crossing)に差し掛かる。アルズが乗車していた車は難を逃れたが、たまたまよそ見をしていたギュヴェンは交差点で他の車とぶつかってしまい、妻とお腹の中にいる子供を失ってしまう。アルズが亡くなり、ギュヴェンが幸せな人生を送ることになる可能性はあったのであるが、そうはならなかった。この物語はそこから始まる。その後ギュヴェンは自分に家族がいるように振る舞い、何故そのような行動を取るのか解りにくいのであるが、この物語はリアリティーとしてではなくて‘寓話’として観るべきなのである。ギュヴェンの周囲にはアズルを初め、様々な女性が現れる。ギュヴェンが借りている大家の息子であるヴェダトで携帯電話が原因で家出をする娘、重い病で入院している同僚のハイデルの妹、同じく同じ職場にいるが仕事もせずにパソコンのゲームで遊んでいるバヌー、そしてアルズの幼い娘。彼女たちはギュヴェンの娘が生きていた場合にどのようになっているのかというイメージとして‘交錯’(=Crossing)するのである。そしてどのような人生を歩もうとも最後に待つものは死であるという事がラストでギュヴェンが妻が眠る墓地に向かう事で暗示させる。
 『チャンス』(アブネル・ベナイム監督)の面白さは、トーニャとパキータの2人のメイドの反乱劇もさることながら、‘映像の復讐’という点も見逃せない。メイドたちが夢中になって見ているテレビドラマは主人とメイドが恋に落ちる『愛の魔法』である。彼女たちはこのようなソープオペラを見て憂さを晴らし、それが上流階級の人々の地位を安泰にさせている。しかし技術の発達で誰でもが映像を撮る事が出来るようになり、その結果、フェルナンド・ゴンザレス・デュボアの息子のダニエルがハンディカメラで隠れて撮った、マリテとマリヴィの双子の姉たちのベッドの上の乱交シーンや、父親のフェルナンドと庭師のマチェとのホモ行為を妻のグロリアが見てしまい、上流階級を脅かす。
 『カラーズ・オブ・マウンテン』(カルロス・セサル・アルべラエス監督)はタイトル通りに‘色’にこだわった演出が見られる。主人公の小麦色の肌をしたマヌエルとフリアンが一緒に遊んでいる友達は‘ポカ・ルス’とあだ名で呼ばれている白人の男の子である。彼らはマヌエルが所有している泥まみれのサッカーボールで遊んでいたのであるが、もはや転がらないくらいにボロボロだった。ようやく父親にプレゼントされて白黒がくっきりしている真新しいボールで遊ぼうとしたら、すぐボールを地雷地帯に蹴飛ばしてしまい遊べなくなってしまう。マヌエルは父親の代わりに白い牛と一緒にいる黒い牛の乳を絞ろうとするのであるが、上手く乳を絞ることができない。まるで‘白黒つける’ことは大人に任せて、まだ9歳の子供のマヌエルは様々な色の鉛筆を使って好きな絵を描いていろと言わんばかりなのである。
 『DON'T STOP!』(小橋賢児監督)は半身不随の主人公がアメリカの「ルート66」に沿って10日間の旅をする感動のドキュメンタリー作品ではある。「夢を諦めちゃいけない、やろうと思えば絶対にできるんだ」ということを描きたかったと監督は語っていた。障害者が主人公であるために批評しにくいのであるが、このような旅が出来るのは自宅の地下室にバーがあるほど主人公が裕福だからであり、誰もが夢が叶うわけではない。グランドキャニオンで主人公に僧侶が近づいてきて、祈ってもらえたのも映画撮影をしていて目立っていたからである。「ニューエイジ」の典型的な作品だと思う。
 『チルドレン』(武田真悟監督)は児童養護施設で暮らしていた主人公の康介と牧師を父親に持つ木下美香という対照的な家庭環境で育った2人が、お互いが抱える問題を共有し合うことで、それぞれの家族から独立して2人で新たな家庭を築こうという意志がラストで垣間見えるが、康介の父親が母親の家から2人を車に乗せて武州荒木駅まで運転するシーンは状況から判断するならば、酒気帯び運転なのであるが、それは康介が父親に見切りをつける暗示だったのであろうか?
 『SPINNING KITE』(加瀬聡監督)は‘凧’に例えられた4人の若者たちの、それぞれの‘スピン’振りが描かれている。私が気になった部分はその‘タコ’たちの行方である。凧が揚がる‘基軸’となるものはこの作品においては木更津という彼らの故郷だと思うが、結局、彼らは木更津から出ることが出来ない。勿論、そのような人生があってもいいのであるが、例えば『荒野の彼方へ』(ヴァンニャ・ダルカンタラ監督)の主人公であるニナと比べてみる。1940年のポーランドで夫のローマンとまだ赤子のアントンと幸せに暮らしていたニナはある日、ローマンが従軍中に進攻してきたソ連軍に収容所へ強制移住させられる。しかしこの作品では詳細は語られずに、ニナは敵方の軍人や病気になったアントンのために薬を取りに行ったり、亡くなったアントンの墓地を頻繁に訪れたりと、とにかくステップと呼ばれる美しい大草原を東奔西走する。1946年の春にニナはようやく夫のローマンと再会できるのであるが、2人は多くを語らずにニナはローマンが運転する車に乗っているところで物語が終わる時、原題の『Beyond the Steppes(ステップを越えて)』の‘Steppes’が同音異義語の‘Steps(足跡)’に同調することで、それまでのニナの長い足跡を越えていこうという力強い意志が宿るのである。このような‘詩的超越’が『SPINNING KITE』には感じられないのが残念だと思う。
 『ある母の復讐』(ギャビン・リン監督)はオリジナルの脚本が秀逸で、前半の主人公の夫のグォウェイのグダグダ振りから後半になり妻のユイホアによって一気に緊張感をもたらされるストーリー展開が素晴らしい。
  『シンプル・シモン』(アンドレアス・エーマン監督)は主人公でアスペルガー症候群のシモンが兄のサムと‘理想の家庭’を築こうと孤軍奮闘する物語であるが、アポロ時代の宇宙船に乗って物事を客観的に見ようとしたり、自分のことを‘サイモン’と呼ばせたり、サムに新しいパートナーとしてイェニファーを結びつけるために、ヒュー・グラント主演のラブコメディを参考にするなど、シモンの理想とするものが全て‘アメリカ産’であるところがパロディとして興味深い。
 『キニアルワンダ』(アルリック・ブラウン監督)は1994年のルワンダで起きた大虐殺が扱われているが、主人公のジャンヌ(=ジーン)の両親を彼女の隣に住んでいたエマヌエルが殺した出来事を中心として描かれている。フツ族とツチ族の対立以外にも、無邪気な子供目線による描写や、ジャンヌの父親の不倫まで、大虐殺の中の‘日常’が丁寧に描かれている。部族対立に加えて社会的階級の対立やジェラシーなどが絡まった複雑な要因がエマヌエルを殺人へと駆り立てたと感じた。


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“セシウム牛”なら誰もいらない

2011-10-12 00:05:57 | Weblog

「セシウム牛いりません」大分県議、絶叫大会で(読売新聞) - goo ニュース

 大分県由布市湯布院町で10日に行われた「由布院牛喰い絶叫大会」で、大分県畜産

協会長で同市区選出の近藤和義県議が大会冒頭のあいさつ後、最初に見本として、

「セシウムで汚染されたわらを食べた牛の被害が広がっている。由布院の牛肉は汚染の

わらを食べていないので安全だ」と絶叫し、一呼吸置き、「セシウム牛は要りません」と声を

張り上げたことに対して、被災者から「失礼な発言」と憤る声が出ているらしい。近藤県議は

読売新聞の取材に対し、「国の対応のまずさを批判する内容だった」と説明しているが、

その通りなのであろう。例えば「福島県産の牛はいりません」であるならば、失礼な発言と

捉えることはできるが、誰だって「セシウム牛は要りません」と思っているはずだし、好んで

セシウムを摂取した牛を食べる人はいないであろうから、問題発言になるわけがない。


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『とある飛空士への追憶 』 40点

2011-10-11 23:50:56 | goo映画レビュー

とある飛空士への追憶

2011年/日本

ネタバレ

印象の薄い‘追憶’

総合★★☆☆☆ 40

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 作画は美しく、キャラクターデザインも悪くはないのであるが、『サマーウォーズ』(細田守監督 2009年)にも感じたように奥寺佐渡子による脚本が良くない。
 飛空士として最高の操縦技量を持つ主人公の狩乃シャルルがファナ・デル・モラルを乗せて敵が制空権を握る中央海を単機で渡る時に、敵方の天ツ上海軍空艇兵団の航空編隊に四方八方を囲まれたシャルルは、その腕前を発揮する絶好のチャンスであるにも関わらず、結果としては腕前で乗り切ったというよりも、敵方の鈍臭さで助かったように見える。寧ろシャルルの凄さは奇跡的な怪我の回復力である。
 『とある飛空士への追憶』を観て思い出す『ルパン三世 カリオストロの城』(宮駿監督 1979年)のような活写も無く、『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』(押井守監督 2008年)のような大胆な作画の工夫も見られずに物語を無難にまとめてしまったために印象の薄い‘追憶’になってしまっている。


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『愛を読むひと』と難読症

2011-10-11 00:17:33 | goo映画レビュー

愛を読むひと - goo 映画

 遅まきながら内田樹の『日本辺境論』を読んで驚いた事が書かれていた。『愛を読むひと』

(スティーブン・ダルドリー監督 2008年)のケイト・ウィンスレットが演じた主人公のハンナ

の字が読めない理由を“難読症”としているのである。「これはこの映画のサイドストーリー

にすぎないのですけれど、難読症をめぐるある種の物語の典型をなぞっています。文字が

読めないことをひた隠しにしたまま、成人して市民生活を送っている人物が周囲には理解

しがたい奇矯な行動を取り、怪訝なまなざしを浴びて、それがいつ『ばれるか』というのが

サスペンスの基軸になっている。(p.223)」内田樹が難読症を「左脳のどこかに障害が

あるようです(p.222)」という病気と考えているならば、作品の後半でハンナが本を読める

ようになる原因が分からなくなる。この作品においては時代背景などを勘案すればハンナ

は難読症というよりも教育を受けられなかったと考える方が理にかなっていると思う。

一応、内田樹は映画論も専門としているのであるが、“読み”が甘いのではないだろうか


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まずは母国語

2011-10-10 00:03:39 | Weblog

不必要or不可欠…児童英語教育の賛否問う討論会(産経新聞) - goo ニュース

 おおさかのおばちゃんの会の代表の「児童英語は、音声教育など中学以降の英語教育で

抜け落ちている部分を補っている。語感を身につける音声教育は、早いうちから取り組んだ

方がいい」という設定は中学以降の英語教育が成功しているという前提があって初めて

成り立つものである。日本の高校生が卒業した時に、英語による日常会話はペラペラで

あるにも関わらず、英語の発音だけがとにかく酷いから児童英語は重要なのだと言うので

あるならば話は分かるが、高校を卒業してもろくに喋れないのに、音声教育だけ充実

させて語感を身につけても無意味だと思う。そんな暇があるならばまずは母国語の語感を

身につけてもらいたいと切に願う。


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『ファイナル・デッドブリッジ』 60点

2011-10-09 01:16:03 | goo映画レビュー

ファイナル・デッドブリッジ

2011年/アメリカ

ネタバレ

ただならぬ気配

総合★★★☆☆ 60

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 作品の冒頭でクルマで送ってくれたボーイフレンドに「リサ・ローブに似ている」と言われたオリヴィア・キャッスルが「他人に似ていると言われるのは好きではない」と答えた辺りからただならぬ気配を感じる理由は、リサ・ローブ(Lisa Loeb)の大ヒット曲が1994年の「ステイ(Stay)」であり、リサ・ローブに似ていることを拒絶するということは、そこに「留まる」ことをしないでバスに乗ってしまい、「風の中の塵(Dust In The Wind)」と化すことを意味するからである。
 鉄棒から落ちて死んだキャンディス・フーパーの死に方が、余りにも滑稽だったために、笑わせるつもりなのかと思いきや、その後はシリアスに死んでいくことになり、この演出のブレが気にはなったが、ストーリーはホラー作品としては良く出来ていたと思う。しかし想像以上の惨殺シーンのエグさで気分が悪くなってしまった。


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核心を衝かない記者たち

2011-10-09 00:27:04 | Weblog

【政論】小沢流ハリセンボン会見 ご都合主義の法解釈(産経新聞) - goo ニュース

 産経新聞の阿比留瑠比の言いたいことは分かるのであるが、このような“正論”を

並べ立てる記事は見飽きているのである。これほどの“正論”を言えるのであるならば

何故誰も記者会見で直接本人に糾さないのかが不思議であり、誰も訊かないから

同じことを繰り返しているのである。例えば小沢が質問を受ける際に幹事社が最初に

訊いた質問は「まず今日の初公判を終えての現在の心境、率直なご感想をお聞かせ

いただきたい」と「元秘書3人が一審で有罪判決を受けたことを含め、刑事責任とは別に

道義的責任を問う声もあるが、ご自身の今後の政治活動はこれまで通り続けられるのか。

議員辞職や離党についてはどのようにお考えか」と毎度ながらの同じ質問である。

何度同じことを訊けば気がすむのか 最初から“伝家の宝刀”を抜けばいいのである。

肝心なことを直接本人から訊くこともせずに、後になってああだこうだと文句を言っても

仕方がない。何度同じ誤ちを繰り返すつもりなのか“政論”を聞いてみたいものである。


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驚くべき印象操作

2011-10-08 12:16:28 | Weblog

もはや関係修復は不可能 小沢一郎氏vs記者クラブメディアの戦い【週刊・上杉隆】

 確かにこの記事を読むとテレビ局による小沢一郎に対する“印象操作”はかなり酷い

もののように感じる。例えば、「公判がスタートしたとはいえ、司法の場とは別に国会で

説明責任を果たす考えはあるか」という質問に対して小沢は「君はどう考えているの? 

司法の公判が進んでいるとき、他の立法権や、その他のこと、いろいろと議論すべきだと

思ってんの? あんたは。あんたの見解は?」と答えているが、だいたいここで編集して

しまっているので、小沢の見解はもっともで、その後の三権分立などの重要な受け答えが

あるにも関わらず、視聴者に与える印象としては「また小沢が記者を脅している」というもの

しか残らない。それにしても「フリーランスの記者の質問を2問ほど受けます」と言われて

手を挙げたTBS「NEWS23X」のキャスター松原耕二は自分の立場が分かっているのか


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おせち料理の不思議

2011-10-07 00:15:32 | Weblog

おせち囲んで家族の絆 商戦スタート(産経新聞) - goo ニュース
黄金おせちも値上げ 高島屋、1890万円の三段重お披露目(産経新聞) - goo ニュース

 確かに家族が集まるツールとして、年末のクリスマスケーキならば有効だと思うが、

おせち料理は個人的には無理である。いままで私はおせち料理が美味しいと思ったことが

一度も無く、そもそもおせち料理というものは正月の間に店が休んでしまい、食材が

購入できないための苦肉の策の、長持ちする料理として作られたと認識している。今は

正月から店は開いているわけであるから、わざわざ不味いおせち料理など食べる必要

などはないと思うのであるが、あの味が好きだという人もいるんだろうね。もちろん

金3・35キロを使ったおせち料理用の三段重に目が眩むこともないのであるが、テレビに

映っていたおせち料理は私が嫌いな昔のおせち料理とは全然違っていた。


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