具体的に『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のテキストを使って村上春樹による翻訳の問題点を指摘してみたい。最初に原文を引用する。『The Cather in the Rye』(J.D.Salinger Penguin Books p.178)
「Anyway, I kept walking and walking up Fifth Avenue, without any tie on or anything. Then all of a sudden, something very spooky started happening. Every time I came to the end of a block and stepped off the goddam curb, I had this feeling that I'd never get to the other side of the street. I thought I'd just go down, down, down, and nobody'd ever see me again. Boy, did it scare me. You can't imagine. I started sweating like a bastard - my whole shirt and underwear and everything. Then I started doing something else. Every time I'd get to the end of a block I'd make believe I was talking to my brother Allie. I'd say to him, 'Allie, don't let me disappear. Please, Allie.' And then when I'd reach the other side of the street without disappearing, I'd thank him. Then it would start all over again as soon as I got to the next corner. But I kept going and all.」
次に、野崎孝訳の『ライ麦畑でつかまえて』(白水Uブックス 1984. 5.20)のp.307-308から引用する。
「とにかく、僕は、ネクタイも何もなしに、五番街を北に向かってどこまでも歩いて行ったんだ。すると、突然、とても気味の悪いことが起こり出したんだよ。街角(まちかど)へ来て、そこの縁石から車道へ足を踏み出すたんびに、通りの向こう側までとても行き着けないような感じがしたんだな。自分が下へ下へ下へと沈んで行って、二度と誰にも見えなくなりそうな気がするんだ。いやあ、こわかったねえ。君には想像できまいと思うよ。馬鹿みたいに汗が出てきてね - ワイシャツも下着も何も、ぐっしょりさ。そこで僕は、別なことをやりだしたんだ。街角(まちかど)へさしかかるたんびに、弟のアリーに話しかけてるつもりになって『アリー、僕の身体(からだ)を消さないでくれよ。アリー、僕の身体を消さないでくれよ。アリー、僕の身体を消さないでくれよ。お願いだ、アリー』と、そう言ったんだ。そして、身体が消えないで通りの向こう側まで行きついたとこで、アリーにお礼を言ったわけだ。ところが、次の街角まで行くと、とたんに、また同じことが起こるんだな。しかし、僕は歩きつづけて行ったんだ。」
次に、柴田元幸訳を『生半可版 英米小説演習』(朝日文庫 2013.3.30 オリジナルは研究社出版 1998.2)のp.175から引用する。
「とにかく、僕はネクタイとか何も着けずに、五番街をずんずん北へ歩いていった。そのうち急に、すごく変な感じがしてきた。四つ角に来て、車道に足を踏み出すたびに、絶対に向こう側まで行けないんじゃないかって気になったんだ。下へ、下へ落ちていって、もう誰にも見えなくなっちゃうんじゃないか、そう思った。すごく怖かった。ウソみたいに。汗がだらだら出てきた。シャツも、下着もびしょ濡れ。そのうちに、こんなことをはじめた。四つ角に来るたびに、弟のアリーと話してるふりをするんだ。僕はアリーに言う。『アリー、僕を消えさせないで。アリー、僕を消えさせないで。アリー、僕を消えさせないで。頼むよアリー』。そして無事消えずに向こうまでたどり着くたびに、僕はアリーに感謝するんだ。次の角に来ると、また一から同じことがはじまる。でも僕は歩きつづけた。」(「感謝」は黒点のルビ)
最後に、村上春樹訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(白水社 2003.4.20)のp.327-328から引用する。
「いずれにせよ僕はフィフス・アベニューをどこまでも歩き続けた。ネクタイなしの格好でね。それから出し抜けにうす気味の悪いことが起こり始めたんだ。四つ角まで行って、縁石から車道に足を踏み出すたびに、僕にはもうこの通りを向こう側まで渡りきることができないんじゃないかっていう気がしたんだよ。ただどんどん沈んでいって、僕の姿はそのまま誰の目にも見えなくなっちまうんだってね。やれやれ、それはやたらぞっとする感じだったね。それがどんなにおっかないものだったか、君にはきっとわからないだろうな。僕はもう正気じゃないみたいに汗をかき始めた。シャツとか下着とか、なにしろぐしょぐしょだった。それから僕はあることをやり始めた。四つ角に行くたびに、自分が弟のアリーと話をしているって思いこむことにしたんだ。僕は言った、『アリー、僕を消したりしないでくれよな。アリー、僕を消したりしないでくれ。アリー、僕を消したりしないでくれ。頼むぜ、アリー』。そして消えずに道路を渡り切れたときには、ありがとうとちゃんとお礼を言った。それからまた次の四つ角が来ると、同じことが一から始まった。でもとにかく僕はそいつを果てしなくやり続けた。」(「ちゃんと」は黒点のルビ)
ここで重要な点は原文の「thank」の解釈の仕方である。イタリック体で書かれているということは強調を表しており、その意図を訳に反映させる必要がある。
どのように読解するべきなのか簡単に述べるならば、主人公のホールデンが車道を横切るたびにパニック障害のような症状を発症するため、そうならないように弟のアリーに祈るのである。そのおかげで道路を渡り切れた時に、ホールデンはアリーに感謝(thank)したにも関わらず、また同じ症状を発症してしまうために「同じことで何回感謝しなければならないの?」とホールデンはアリーを暗に皮肉っているのである。
ところが柴田訳では「感謝」に黒点のルビがふってあるだけで、村上訳に至っては何故か
「ありがとう」でも「お礼」でもなく「ちゃんと」の黒点のルビがふってあってもはや意味が不明である。一方で野崎訳はある意味大胆に作者の意図を酌んで的確である。
頭が良い人たちは余計なことをしなくても作者の意図が酌めるかもしれないが、読者はホールデンのような十代がメインであろうから、野崎訳の方が親切であろう。
村上は野崎訳を読むこともなく、サリンジャー研究も参考にしないまま、いつもの調子で訳したために却って分かり難くなっており、結果的に村上の小説の読者に対してならともかく、サリンジャーの読者に対しては自分のネームバリューに甘えた不誠実な翻訳になっていると思う。