(写真:とこしえに)
やまとおのこのますらおは おほくにのみたまとともに…
戦争がいいか悪いか、特攻がいいか悪いかの「善悪の部分」はあえて論じる事は避けたい。
ただ、リアルとドラマの区別だけはしておきたいな、と思いました。
●開聞を後に
砂むしで汗だくになった私は、コーヒー牛乳を片手に休憩室でぼーっと。外は気温35℃の灼熱の真夏の太陽が待っている。この状態のまま即座にハンドルを握る事は結構きつい(笑)。窓の外はさざ波の東シナ海。受付のねーちゃんも暇そうだ。小一時間しっかりとクールダウン、そろそろ西大山の駅に枕崎行きの列車が着く頃だ。腰を上げてハンドルを握る。熱っ!真夏の放置された車の中では、たまに鍋つかみが必要な場合があるな(笑)。
13時21分発の枕崎行きを、さっきより灼熱度が増した西大山の駅で待ってみる。草むらの水分が日差しで蒸発し、むわっとした夏草の匂いが満ちている。誰も乗る人のいない駅に列車は静かに到着し、何事もなく午後の日差しにけぶる開聞岳に向かって消えていった。あ、この駅は午後が逆光になるみたいだから、山と絡めたいなら写真を撮る人は午前中に行った方がいいね(笑)。そうなると撮影対象列車は2本くらいか…まあ、ここを見ている人で行く人はそうはいないと思うがw
●知覧へ
列車は行ってしまった。再び何もない静寂に戻った西大山駅と開聞岳にお別れ。車を指宿スカイラインへ。これからの目的地は知覧町。品質の良いお茶の取れる、上品な武家屋敷の町並みが続く薩摩の小京都…と言う部分にはあまり興味はない。「特攻の街」としての知覧に興味がありました。太平洋戦争末期、沖縄に上陸した連合軍の手が本土に及ぶのを食い止めようと、命を張って戦艦に突入した壮大かつ無謀な作戦・特攻。昭和17年に現在の福岡県の太刀洗(たちあらい)にある陸軍飛行学校の分教場として作られた知覧の飛行場は、戦局の変化に伴いその姿を変え、特攻の最前線基地となった。この街におけるたった3年間の歴史が、これほど多くの人の訪問を集めるとは…と思うほど、夏休みとは言え平日の昼下がりに、駐車場はほぼ満車に近い状態であった。
激しい時には毎日、西南にある開聞岳の向こうに編隊が消えて行ったらしい。もう見る事のない本土の最後の風景が、あの開聞岳の秀麗な姿だったと言う。あの山に悲しい歴史あり。その山の上空で、両翼を左右に振ってお別れの挨拶をする、隊員の心の中いかばかりか。
●知覧特攻平和会館
まず最初にお断りしておきますが、ここの展示物に関しては「館内撮影禁止」であるために何も記録しておりません。内部には特攻隊の命に殉じた年端も行かない若者の絶筆(と言うか、遺書)とその在りし日の姿が、事細かに出撃回数ごとに区切られて展示されている。まあ、引いてみれば施設全体には当然散華思想と言うか賛美系のフィルタがかかっている訳で、バランス感覚的には悪い施設なのだけれどもね。
見れば見るほど、戦局悪化の物資困窮時に急ごしらえで作った精度の悪い戦闘機に、300kgからの爆薬を積んで、わら半紙に定規で書いたような地図だけで沖縄に飛んで行って敵艦に体当たりして「お前ら国のためになれ」と言う計画には無茶がある。のだが、そのような無茶に、平然と対峙していた当時の若者(みんな17歳からハタチそこらだったねえ)の精神性と言うのは…出撃前に美味しそうに恩賜のタバコを吸うヤツもいれば、最後の食事を楽しそうに女学生と食べるヤツもいる。何をしてそこまで心の安寧を保っていられるのかが、今となっては理解しがたいやるせなさがありました。それでも、皆勇ましく「皇国のために」「銃後を案じて」飛び立って行った事、人間の盾となって本土を守ろうと本気で信じていた純粋な気持ちと使命感がしたためられた各々の絶筆を見るに付け、それがどうにもリアルに思えず理解に苦しむ。死に際に当たってにしては恐ろしく達筆な字であり、怖くないのか?辛くないのか?逃げたくないのか?…と思ってしまうのだが。モノの本に寄れば「あれは弱い心の吐露を見せてしまうと示しが付かないから、意図的に上官が書かせたんだ」なんて言う人もいますけどね。
うーん、自分には、昔のような何も情報のない社会で、ハタチもない歳の子が純粋に皇国教育を受けたらそうなってしまうだろうな、と理解する事にした。疑うべきを知らない無垢の青年だったからこその爽快な絶文であったのではと思う。中途にオトナだと、いろいろな事が理解出来過ぎて文章に雑味が出てしまうんじゃないかな。
1,000人を越える特攻に殉じた青年たちの顔、顔、顔。これがまた皆一様に凛々しい。ゲートルを巻き、ゴーグルを付けて、落下傘を十字たすきに巻いた姿。単純に言って「お前らカッコイイ!」と言う感じなんですよ。ちょうど早実のエース齋藤が「ハンカチ王子」なんてアホなニックネーム貰っていたが、そう、みんなあんな感じの齋藤的顔立ちだね。紅顔の美少年と言うか。男と生まれたならば、大空を駆け回る事が全ての子供の憧れだった時代。そんな時代が故の誇りと優越感が表情に滲み出ているように思えた。
艦砲射撃とグラマンの銃撃の嵐の中を、照準を敵艦のみに絞り、翼がもげようが機体が火を噴こうが、ただただ真っ直ぐに操縦桿を握って突入する事。精神一統ならざらん、効果の割に大変な集中力を要する難儀な作戦だろう。自らに対する見返りのなさからも、割に合わないことこの上ないのだが、この顔と目を見たら…
彼らはそれを厭うような事はしなかったでしょうね。
日本人って桜が好きじゃないですか。
瞬間に華麗に咲き誇りはかなく散る姿が、日本人のDNAに強烈に訴えますよ。
物事の是非は置いといて、この精神性は伝え残すべきものでしょうね。
…以上は会館を見ての感想。
実際は、心の安寧を保っていられるはずもなく、鳥浜トメさんの話に残るように、心の中の葛藤はそりゃあ凄まじいものがあったらしい。それが、この特攻平和会館からは余り伝わっては来ない。そう言う風に伝えたいから、そうしているのでしょう。会館の物語はドラマで、トメさんの話がリアルなのかな、と。
沢田研二の歌で「サムライ」ってのがあるんだけど、この歌の世界観が何となくリンクするね。
●桜島へ
どすん、と重いものが胃の腑に落ちたような気分で、結構な山間ワインディングである指宿スカイラインを鹿児島市内へ。桜島フェリーで鹿児島市街から桜島へ渡ってしまおうと言う訳。朝も濃霧で全然その姿を現してくれなかった桜島。開聞岳よりある意味鹿児島のシンボル的な山は、まだその姿を雲の中に隠している。どうも桜島には嫌われてしまったらしいなw。錦江湾を15分の船旅。かなり利用者がいる様子で日中15分ヘッドの24時間運行。しかも日中は2隻連なってのピストン輸送みたいですね。
桜島港到着。一応このフェリーもR224指定されているようですが、道に入るとさっそく無茶な注意書きが火山活動の活発さをアピールしているwどうせいっちゅーねん(笑)。道の間際まで溶岩がゴロゴロ。道の到る所に分厚いコンクリートの防空壕みたいな避難所がある。時刻は夕暮れ時。晴れの天気ならば夕日に映える桜島を眺めつつ一服、と行きたいところだが、何だか空は夕立でも一発来そうな怪しい雲行き。これが不気味にガスに煙る南側からの桜島です。
続く。
やまとおのこのますらおは おほくにのみたまとともに…
戦争がいいか悪いか、特攻がいいか悪いかの「善悪の部分」はあえて論じる事は避けたい。
ただ、リアルとドラマの区別だけはしておきたいな、と思いました。
●開聞を後に
砂むしで汗だくになった私は、コーヒー牛乳を片手に休憩室でぼーっと。外は気温35℃の灼熱の真夏の太陽が待っている。この状態のまま即座にハンドルを握る事は結構きつい(笑)。窓の外はさざ波の東シナ海。受付のねーちゃんも暇そうだ。小一時間しっかりとクールダウン、そろそろ西大山の駅に枕崎行きの列車が着く頃だ。腰を上げてハンドルを握る。熱っ!真夏の放置された車の中では、たまに鍋つかみが必要な場合があるな(笑)。
13時21分発の枕崎行きを、さっきより灼熱度が増した西大山の駅で待ってみる。草むらの水分が日差しで蒸発し、むわっとした夏草の匂いが満ちている。誰も乗る人のいない駅に列車は静かに到着し、何事もなく午後の日差しにけぶる開聞岳に向かって消えていった。あ、この駅は午後が逆光になるみたいだから、山と絡めたいなら写真を撮る人は午前中に行った方がいいね(笑)。そうなると撮影対象列車は2本くらいか…まあ、ここを見ている人で行く人はそうはいないと思うがw
●知覧へ
列車は行ってしまった。再び何もない静寂に戻った西大山駅と開聞岳にお別れ。車を指宿スカイラインへ。これからの目的地は知覧町。品質の良いお茶の取れる、上品な武家屋敷の町並みが続く薩摩の小京都…と言う部分にはあまり興味はない。「特攻の街」としての知覧に興味がありました。太平洋戦争末期、沖縄に上陸した連合軍の手が本土に及ぶのを食い止めようと、命を張って戦艦に突入した壮大かつ無謀な作戦・特攻。昭和17年に現在の福岡県の太刀洗(たちあらい)にある陸軍飛行学校の分教場として作られた知覧の飛行場は、戦局の変化に伴いその姿を変え、特攻の最前線基地となった。この街におけるたった3年間の歴史が、これほど多くの人の訪問を集めるとは…と思うほど、夏休みとは言え平日の昼下がりに、駐車場はほぼ満車に近い状態であった。
激しい時には毎日、西南にある開聞岳の向こうに編隊が消えて行ったらしい。もう見る事のない本土の最後の風景が、あの開聞岳の秀麗な姿だったと言う。あの山に悲しい歴史あり。その山の上空で、両翼を左右に振ってお別れの挨拶をする、隊員の心の中いかばかりか。
●知覧特攻平和会館
まず最初にお断りしておきますが、ここの展示物に関しては「館内撮影禁止」であるために何も記録しておりません。内部には特攻隊の命に殉じた年端も行かない若者の絶筆(と言うか、遺書)とその在りし日の姿が、事細かに出撃回数ごとに区切られて展示されている。まあ、引いてみれば施設全体には当然散華思想と言うか賛美系のフィルタがかかっている訳で、バランス感覚的には悪い施設なのだけれどもね。
見れば見るほど、戦局悪化の物資困窮時に急ごしらえで作った精度の悪い戦闘機に、300kgからの爆薬を積んで、わら半紙に定規で書いたような地図だけで沖縄に飛んで行って敵艦に体当たりして「お前ら国のためになれ」と言う計画には無茶がある。のだが、そのような無茶に、平然と対峙していた当時の若者(みんな17歳からハタチそこらだったねえ)の精神性と言うのは…出撃前に美味しそうに恩賜のタバコを吸うヤツもいれば、最後の食事を楽しそうに女学生と食べるヤツもいる。何をしてそこまで心の安寧を保っていられるのかが、今となっては理解しがたいやるせなさがありました。それでも、皆勇ましく「皇国のために」「銃後を案じて」飛び立って行った事、人間の盾となって本土を守ろうと本気で信じていた純粋な気持ちと使命感がしたためられた各々の絶筆を見るに付け、それがどうにもリアルに思えず理解に苦しむ。死に際に当たってにしては恐ろしく達筆な字であり、怖くないのか?辛くないのか?逃げたくないのか?…と思ってしまうのだが。モノの本に寄れば「あれは弱い心の吐露を見せてしまうと示しが付かないから、意図的に上官が書かせたんだ」なんて言う人もいますけどね。
うーん、自分には、昔のような何も情報のない社会で、ハタチもない歳の子が純粋に皇国教育を受けたらそうなってしまうだろうな、と理解する事にした。疑うべきを知らない無垢の青年だったからこその爽快な絶文であったのではと思う。中途にオトナだと、いろいろな事が理解出来過ぎて文章に雑味が出てしまうんじゃないかな。
1,000人を越える特攻に殉じた青年たちの顔、顔、顔。これがまた皆一様に凛々しい。ゲートルを巻き、ゴーグルを付けて、落下傘を十字たすきに巻いた姿。単純に言って「お前らカッコイイ!」と言う感じなんですよ。ちょうど早実のエース齋藤が「ハンカチ王子」なんてアホなニックネーム貰っていたが、そう、みんなあんな感じの齋藤的顔立ちだね。紅顔の美少年と言うか。男と生まれたならば、大空を駆け回る事が全ての子供の憧れだった時代。そんな時代が故の誇りと優越感が表情に滲み出ているように思えた。
艦砲射撃とグラマンの銃撃の嵐の中を、照準を敵艦のみに絞り、翼がもげようが機体が火を噴こうが、ただただ真っ直ぐに操縦桿を握って突入する事。精神一統ならざらん、効果の割に大変な集中力を要する難儀な作戦だろう。自らに対する見返りのなさからも、割に合わないことこの上ないのだが、この顔と目を見たら…
彼らはそれを厭うような事はしなかったでしょうね。
日本人って桜が好きじゃないですか。
瞬間に華麗に咲き誇りはかなく散る姿が、日本人のDNAに強烈に訴えますよ。
物事の是非は置いといて、この精神性は伝え残すべきものでしょうね。
…以上は会館を見ての感想。
実際は、心の安寧を保っていられるはずもなく、鳥浜トメさんの話に残るように、心の中の葛藤はそりゃあ凄まじいものがあったらしい。それが、この特攻平和会館からは余り伝わっては来ない。そう言う風に伝えたいから、そうしているのでしょう。会館の物語はドラマで、トメさんの話がリアルなのかな、と。
沢田研二の歌で「サムライ」ってのがあるんだけど、この歌の世界観が何となくリンクするね。
●桜島へ
どすん、と重いものが胃の腑に落ちたような気分で、結構な山間ワインディングである指宿スカイラインを鹿児島市内へ。桜島フェリーで鹿児島市街から桜島へ渡ってしまおうと言う訳。朝も濃霧で全然その姿を現してくれなかった桜島。開聞岳よりある意味鹿児島のシンボル的な山は、まだその姿を雲の中に隠している。どうも桜島には嫌われてしまったらしいなw。錦江湾を15分の船旅。かなり利用者がいる様子で日中15分ヘッドの24時間運行。しかも日中は2隻連なってのピストン輸送みたいですね。
桜島港到着。一応このフェリーもR224指定されているようですが、道に入るとさっそく無茶な注意書きが火山活動の活発さをアピールしているwどうせいっちゅーねん(笑)。道の間際まで溶岩がゴロゴロ。道の到る所に分厚いコンクリートの防空壕みたいな避難所がある。時刻は夕暮れ時。晴れの天気ならば夕日に映える桜島を眺めつつ一服、と行きたいところだが、何だか空は夕立でも一発来そうな怪しい雲行き。これが不気味にガスに煙る南側からの桜島です。
続く。