青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

名物は ネギとコンニャク 石灰石。

2021年08月03日 17時00分00秒 | 上信電鉄

(農業倉庫の脇を行く@馬庭)

上信電鉄は、西上州の物資の集散を担う産業路線としての側面もあり、平成の初期まで地方私鉄としては珍しく定期の貨物輸送が行われていました。そんな訳で、沿線には今も鉄道貨物輸送華やかなりし頃の遺構と言うべき施設が点在しています。馬庭駅の下仁田寄りにある農業倉庫。今も何かの倉庫には使われているのだろうけど、御影石に蔦の絡まるその風貌が好ましい。現役の線路との間に中途半端なスペースがあるのは、おそらくここに貨物の積み込み用側線があったのではないかと。今は廃レールとバラストが積まれて、保線用具の仮置き場の様になっていますがね。先ほど神農原で捕まえた6000形を農業倉庫と合わせて。地方私鉄では、こんな施設を愛でるのも楽しみの一つ。

今日の6000形は、高崎を15レで出庫した後、28レ→25レで往復して下仁田で滞泊してしまうショート運用。そうなると、撮りだけでなく乗りもしておきたいところ。上州富岡駅の駐車場にクルマを放り込んで、フリーきっぷを購入。こんなご時世だから、撮影ばかりでなく、乗っていくばくかの収益に貢献しないとな・・・という気持ちはこれまで以上に持っております。富岡製糸場の最寄り駅としてすっかりきれいに整備された上州富岡の駅、ホームがバリアフリー化されていましたが、書き文字のレトロな案内板は昔のまま。25レで高崎から下って来た6000形で暫しの鉄道旅。

上州一ノ宮で大半の乗客が降りた、昼下がりの下仁田行き。先ほど遊んでいた千平を過ぎると車窓には山が迫り、赤津信号場で上り電車と交換。上信電鉄は、昭和40~50年代中期の輸送力増強策として、佐野・新屋・赤津の三つの信号場を開設し交換設備の増加による高速化(交換待ちの短縮)と列車の増便を図りました。駅の交換設備を増やすのでなく、信号場で所要時間の短縮と高速化を図ったのって珍しいよね。

終点まで乗車したのは、後部車両を貸切で利用していた私を含めて3名程度・・・ほぼ空気輸送と言われても仕方がない状態。冷房は入っていたのだけど、換気のために窓を開けており生ぬるい6000形の車内。列車は上信線唯一の白山トンネルをくぐり、下仁田の街へ入って行きます。

夏の日差し照り付ける下仁田のホーム。頭端式の1面2線のホームに、貨物取扱時代を忍ばせる複数の側線があって、とても雰囲気のある終着駅。側線に並べられた有蓋の廃貨車は「テム」という形式で、周辺の鉱山で採掘される石灰石の工場で作られた製品(生石灰など)を出荷していたそうだ。上信の貨物扱いは、下仁田からの無蓋車による石灰石製品の出荷(青倉工業)と南高崎のセメントサイロへのセメント輸送(秩父セメント)が最後まで残っていたのだけど(平成6年廃止)、高崎~南高崎のたった1駅とはいえ、デキ1がタキ1900やホキ5700を牽いて走っていたなんて激しく魅力的が過ぎるシーンですよねえ・・・

「ねぎとこんにゃく下仁田名産」と上毛かるたに読まれた街・下仁田。盆地の下仁田には平地が少なくて、山の斜面の水はけのいい畑にコンニャクやネギの栽培が適していたのが普及の理由だそうですが、確かコンニャクも作る時に消石灰(水酸化カルシウム)を混ぜて固めるんですよね・・・そんなこんなでこの街の名産品になったのかな。奥多摩から秩父にかけては鉱脈が続いているのか石灰石の鉱山が多いですけど、その北限がこの下仁田周辺あたりでしょうか。元々2000万年前は海だったらしいですからね、この辺り。地質に含まれる石灰質は、かつての海に沈むサンゴや貝の堆積物なのでしょう。

開業当時からの木造平屋建て、いかにもローカル私鉄の終着駅らしい下仁田駅の佇まい。
丁度時刻は午後1時過ぎ。トップライトの日差しに朦朧とするような駅前に立ちすくんでいると・・・
なんだか、腹が、減った。

コメント
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