(緑のトンネル@田原~法華口間)
北条鉄道、粟生から北条町の約15kmを、機織り型でウロウロ。線路際に展開するにはあまりにも暑く、そして当初に目論んでいたレンタサイクルが借りられなかったという誤算もあり、ある意味腰を据えて駅撮り&車内撮りに勤しむこととする。起点から終点まで一貫して平板な北播の平野を走る北条鉄道、車窓のアクセントは乏しいのですが、ほんの一瞬、法華口の駅から田原の駅の間で涼やかな森のトンネルを抜ける。大きな川も渡らず、大きな山も越えない北条鉄道ですが、ここが唯一、沿線で一つだけのトンネルじゃないかな。
夏の日差し降り注ぐ網引駅のホーム。加古川側の起点である粟生の駅から一つ目の駅。車輪が削ったレールの鉄粉がしみ込んだ赤茶けたバラストとホームが、強い日差しに焼き付いている。網引と言われて、海辺でもないのに何の網を引くのか?と思うような駅名だが、昔々、この辺りに魚がよく獲れる沼があって、網を引く漁師の姿が引きも切らなかったことによるそうだ。六甲山系から西側の播州平野は、降水量が少ないせいで灌漑用のため池の類が非常に多い。そんな池や沼で獲れる魚、フナだのコイだのくらいしか思い付かないけれど、そういうものでも昔は農村の貴重なタンパク源だったのでしょう。
むわっとした夏の風が吹く駅のホームの片隅で、老人がゆっくりと煙草に火を付けて、美味そうに吸っている。夏の太陽は照ったり翳ったり。その光に合わせて駅前の大きなイチョウの樹の影が、駅前のアスファルトに現れたり消えたり。この立派な大イチョウ、雰囲気からしたら大正4年に播州鉄道として開業した当時からのものだろう。私鉄の播丹鉄道として開通した加古川線は、国鉄に買収されるまで厄神からの三木線、粟生からの北条線、野村からの鍛冶屋線といくつもの支線を伸ばしていましたが、現在残っているのは北条鉄道だけ。
そんな網引の駅前に立っている小さな看板が、78年前の出来事を静かに伝えています。昭和18年、「姫路海軍航空隊」の訓練用として、現在の法華口駅の北方に当たる静かな北播の農村に鶉野(うずらの)飛行場が開かれました。時は戦局に日本軍の敗戦の色濃く、本土決戦も視野に入りかけていたであろう昭和20年の3月、テスト飛行を行っていた局地戦闘機「紫電改」が、この網引駅付近で築堤に引かれていた北条線のレールを引っ掛ける形で墜落。墜落直後の剥がれたレールに、粟生方面に向かっていたC12牽引の旅客列車が突っ込み脱線転覆、死者12名、負傷者104名を出す惨事となったのでありました。「紫電改」は、太平洋戦争末期に川西航空機で製造された本土防衛のための戦闘機ですが、日本海軍では最も優れた戦闘機として評価の高い戦闘機でした。飛行場に隣接していた川西航空機鶉野工場は、戦後の財閥解体により航空機部門が「新明和工業」、自動車部門が「明和自動車工業」に分社化。明和自動車工業は、後にダイハツ工業に吸収されたものの、新明和工業は国産航空機であるYS-11の製造をはじめ、今でも飛行艇や航空機の部品を自衛隊や民間航空会社に提供しており、日本の航空産業の中核を担っています。
姫路海軍航空隊では、太平洋戦争末期に「白鷺隊」という特攻隊が組織されました。特攻作戦・・・なんて言うと、鹿児島の知覧や鹿屋、福岡の大刀洗など、九州方面が主力のイメージがあったのですが、その特攻隊を組成したのは、この白鷺隊のように全国から集められた航空連隊でした。この北条線の事故からおよそ一ヶ月後の昭和20年4月、特攻に参加した白鷺隊は、九州や台湾の飛行場から作戦に順次投入され、60数名の隊員がその命を落としています。
夏の青空が広がる網引の駅。こんな北播の片隅にも、戦争の爪痕と歴史が眠っています。