(永遠のマイラバトレイン@福鉄200形)
はい、北府駅に降りたのは、この駅で静態保存されている福鉄200形を見たかったからです。というか、福鉄に乗りに来た中の半分くらいはこのイベントで占められていたといっても過言ではない。高度経済成長期を飾った福鉄の誇る名車は、エバーグリーンな輝きを誇りながら活躍を続けていましたが、路線自体の低床化車両への統一を図るため、FUKURAM(福鉄1000形)の導入と引き換えに残念ながら平成28年に惜しまれつつ引退。その後は西武生の車庫でずーっと雨ざらしにされていましたが、福鉄を代表する車両かつイメージリーダーとして鉄道ファンや地元民から保存を望む声が非常に大きく、クラウドファンディングで資金を募った上で再塗装がかけられ、北府駅の入口の脇に保存されることとなったものです。
福鉄200形は、新しく作られたホームと一緒に大屋根の下で保存されている。昨年に公開されたばかりというから、まだまっさらぴんのピッカピカで、曇天の空の下でもひときわの美しさを持って私を迎えてくれた。ボディに近い位置に柱が多いのが難だが、雪の多い北陸であることを考えると屋根の強度は無視出来ないですからこればっかりは仕方ないか。いずれにしろ雨ざらし雪ざらしにしてしまえば動かない鋼鉄の重量機械など簡単に腐ってしまうので、屋根付きは必須条件だろう。個人で保存している鉄道車両も日本各地にあるが、だいたい屋根がないことで寿命を縮めているものも多いような気がする。カーポートなんかと違い、鉄道車両を保護する屋根を付けることは、なかなか個人の負担ではやり切らない事でもあるのでしょうが・・・
まだこの200形203編成が現役だった頃のひとコマ。雨上がりの市役所前で。202編成はFUKURAM初代編成の投入から運用を外れ気味の中で、平日であれば!という期待を込めての福井遠征だった。202は越前武生の側線で運用を外れていたが、朝運用くらいには入ってくれるだろうと思っていた203編成が終日運用だったのが非常に喜ばしかった思い出がある。まだ市役所前が市役所前で、木田四ツ辻が木田四ツ辻だった時代の話。そうそう、現役の最後で203編成は福鉄急行色のリバイバルカラーを纏ったのだけども、純正のそれよりは若干青緑に寄った色になっていた。今回の保存に際し、その辺りの色の認識は正しく改められて、正しく「福鉄急行色」たるインディゴブルー+ベージュの色合いに戻されている。
エッチングされたボディナンバー、陰影の浮かび上がりも印象的なプレスドア。駅に止まればパタンと降りるステップを、そろりそろりと降りる乗客たち。そして武骨な連接台車。あの頃の福井の空気をそっと閉じ込めたとも思える、静かな200形の車内に等間隔で並ぶボックスシート。日車ロマンスカーの特徴ともいえる椅子のヘッドカバーは外されていたのが残念だったのだが、何から何までがいちいち心の琴線にピリピリと触れて来て、なんともまあエモーショナルな感情が沸き上がって来る。たかだか電車の車両だと言ってしまえばそれまでだけど、長電の2000だったり、地鉄の10020だったり、この福鉄200だったり、とにかくその土地に暮らす人々を運び続け、お国の言葉と四季の移ろいを眺め続け、皆に愛され続けた何かというものは、確実にこの鋼鉄のカタマリに宿っていると思うのだ。
北府の車庫の側線に留置されていた、ドイツのシュツットガルトからやって来たレトラムと合わせて。そして改めて私から語るのも野暮な、福鉄200形の生い立ちから保存に至るまでのヒストリー。3193人分の愛と、その他のこの車両に心を寄せたあまたの人々により保存に至った旨が記されている。レトラム、北陸新幹線の福井延伸に備えて冷房改造したらしいですね。早速開業日当日の観光客のイベント向けのツアー運用なんかも組まれているそうで(車内で水ようかんと羽二重餅の振る舞いがあるようです)、北府の駅を訪れる人も増えることと思います。福鉄200形の保存は、この北府駅の「鉄道ミュージアム化計画」の一環でもありました。
あの頃、200形の運転席にしがみついて、流れて行く景色を見ていたあの少年。
今はいくつくらいになったのやら。
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