(小春日和のカーブを切って@東吾野駅)
「ジャンボくん」ことE851カラーの特別車両が、第7高麗川橋梁のカーブを渡って東吾野の駅に滑り込んでくる。高麗川に綾なして続く奥武蔵の鉄路は、何度も何度も高麗川の流れを渡っては峠道を詰めて行くのだが、高麗駅の先の第1高麗川橋梁から正丸駅の手前の第15高麗川橋梁まで、西武線にはなんと15もの橋梁がある。正丸峠に源を発する高麗川は、下流の坂戸市で越辺川に合流し、川越市で入間川に合流し、最終的にはさいたま市の北部で荒川に合流する一級河川で、荒川水系の一部。早朝からのお務めだったのか、早くも帰り支度のハイカーが陽だまりで電車を待つ東吾野の駅。まだまだ盛りには程遠い奥武蔵の紅葉だけど、山へ登ればいくばくでも色づいているのだろうか。
突然現れたE851カラーに興味深そうな親子連れ。お父さんがしきりにカメラを構えていたあたり、鉄道ファンの親子だろうか。親から子へ伝える郷土の歴史とその色である。ただ、こういったケースではお父さんだけが興奮して喜んでいるばかりで、子供は「?」となっていることもままあるものです。私がそうでしたからよく分かります。割とお父さんの好みで息子の趣味関連を英才教育して、お出掛けなんかのダシに使う、というテクニックはあると思うんだよな(笑)。
西武鉄道のセメント輸送の残滓を訪ねつつ、「ジャンボくん」を沿線のモチーフと合わせるべくロケハンをしてみる。この4017FがE851のカラーを纏うとなった瞬間、思い浮かべてしまったのは東横瀬の風景じゃなくてこの高麗駅のセメントサイロと引き込み線のことでした。満載のセメント貨物を持ったE851が、一回飯能方面に乗り越してから推進運転でこのサイロの脇まで貨車を押し込んでいたのだそうで・・・今は引き込み線の跡地は高麗駅脇の月極め駐車場になっていますね。ちなみに何年か前までは、セメントサイロにもちゃんとスリーダイヤと「三菱マテリアル」の文字が書かれていて、目に見える形で遺構として残っていたんですけどね。いつの間にかスリーダイヤのロゴと書き文字が白く塗りつぶされていた。
西武秩父から返してきた「ジャンボくん」を高麗のセメントサイロと合わせて。最盛期は、東横瀬から高麗駅のサイロまでは毎日3往復のセメント便があったそうで、セメントは東横瀬から高麗駅のストックポイントに運ばれて、そこからトラックに積み替え周辺に輸送されて行ったものと推測されます。そして、高麗駅の周辺には飯能の名峰・天覧山から尾根が続く多峯主(とうのす)山の北側を切り開いたこま武蔵台、横手、永田台と西武グループが開発した三つの大規模ニュータウンがあって、この高麗駅のストックポイントからも造成用の擁壁や構造物を作るための原料が現場に投入されたのではないだろうか。西武秩父線が開通したのが1969年(昭和44年)、こま武蔵台の分譲開始が1977年(昭和52年)。造成工事期間を含めて、何となく時間軸としては合っているような。
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