tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

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棚田嘉十郎翁を偲ぶ

2008年06月22日 | 平城遷都1300年祭
昨日(6/21)の奈良新聞に、嬉しいニュースが載っていた。見出しは《平城宮跡保存の先覚者 棚田嘉十郎(たなだ・かじゅうろう)を顕彰へ 財団職員が提案、市長も意欲》だ。記事によると

《きっかけは、市立南部公民館(同市生涯学習財団運営)施設長の上安董子さん(63)が今年4月、同館の書庫を整理中、「小説棚田嘉十郎 平城宮跡保存の先覚者」(中田善明著)という書物を見つけたこと》。
http://www.nara-np.co.jp/n_soc/080621/soc080621e.shtml

《「1300年祭で嘉十郎を顕彰してください」と本書を添えて藤原昭市長に手紙を出した》。その手紙が市長を動かし《具体的な検討が近く開始されるもようだ。市民との協働的な展開が期待されており、絶版となっている小説の復刻運動をはじめ、英訳活動、嘉十郎劇の上演など、いろいろなアイデアが出ている》。


第一次大極殿院(模型)

なお《嘉十郎は同市須川町の生まれ。奈良公園の植樹を担った植木職人で、たびたび上京して著名人の賛同に奔走。運動が軌道に乗ったところ、関係者の背任的行為に遭い、責任を痛感して自刃した。享年61歳。国の史跡指定はその翌年》。

私は『小説棚田嘉十郎』(1988年京都書院刊・定価1600円)を今年の2月に買って読んだ。絶版になったこの本を探すのに、上安さんは1か月もの間、古書店を回られたそうだが、私は幸運にも、Amazonのマーケットプレイスで、すぐに見つけることができた。
http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/4763640119/ref=dp_olp_2



嘉十郎は私財をなげうち、「大極殿狂人」と陰口をたたかれながらも、荒れ果てていた平城宮跡の整備と保存に奔走する。嘉十郎が保存運動に立ち上がる前の1900(明治33)年、大極殿跡の土壇に立った彼の様子が同書に描かれている。この年、彼は42歳であった。

《嘉十郎は驚いた。天皇が住居された跡にしては一面が田畑であり、大極殿の跡とされたところも、それらしき土壇があって納得されるものはあったが、その土壇は枯草で覆われ、農民の番小屋が建っていたり、牛が繋がれたまま放棄され、牛の糞(くそ)がところかまわず落とされていて、えもいわれぬ異臭を漂わせていたのである。「これは、恥ずかしい!」 大極殿の跡だといわれる土壇の上に立った時、嘉十郎は荒涼たる光景に眉をひそめると、思わず呟(つぶ)やいた》『小説棚田嘉十郎』 。


平城(なら)遷都祭2008(5/3 背後に見えるのが復元中の大極殿院)

奔走する嘉十郎は、貧困と疲労で失明の危機にまで追い込まれる(手術で3m先が見える程度には回復する)。構想実現まであと一歩のところで、怪しげな新興宗教団体の介入を許し、嘉十郎は自らの不明を悔いて自殺する。枕元には、保存運動に協力を得た陸軍中将、男爵、元奈良県知事、元奈良県内務部長などに宛てた遺書と辞世がしたためてあったという。
※参考:伝えたいふるさとの100話「1300年の時を経てよみがえった朱雀門」
http://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/1_all/jirei/100furusato/html/furusato062.htm

この本に感銘を受け、市長に手紙を書かれた上安さんのお気持ちは貴重なものだし、それに応えようとする藤原市長の態度も立派である。


朱雀門(5/3)

市長には嘉十郎翁の功績を顕彰すると同時に、現在、奈良の地域おこしに汗を流されている市民をバックアップできるような、何らかの支援策も期待したいと思う。

※冒頭の写真は、大極殿院跡を指さす嘉十郎翁(平城宮跡で09.6.24に再撮影)。私の読後感によれば、翁はこういう颯爽としたイメージではなく、貧困と失明と周囲の無理解と戦いながら、最後は無念の死を遂げた孤独な理想家であり、先覚者であった。合掌。
コメント (18)
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