9/29(土)、東京・三越前の奈良まほろば館で「検定で知る!奈良の魅力」(第1回奈良まほろばソムリエ講座)という講話をさせていただいた。午後2時の開始だったので、当日の朝から向かうつもりだったが、台風が近づいていたので大事をとって前泊した。翌朝は幸い台風もまだ来ていなくてとても良いお天気だったので、お寺参りをすることにした。
まず訪ねたのが、芝の増上寺(ぞうじょうじ 東京都港区芝公園)である。なお、かつて芝(芝白金台)には芝村藩(奈良県桜井市芝)の江戸藩邸があり、そのゆかりで地名が「芝」(東京都港区)になったそうだ。奈良の地名が東京に飛び火したとは面白いが、考えてみれば有楽町という地名も、そこに信長の弟・織田有楽斎(おだ・うらくさい=芝村藩の初代藩主だった織田長政の父)の邸宅があったことから名づけられたのである。
増上寺は浄土宗の七大本山の一つで、徳川将軍家の菩提寺として知られている。定番の初詣スポットで、大晦日のカウントダウンでは鐘の音とともに約3000個の環境風船が夜空に放たれる。

大門(増上寺の表門)

三解脱門(増上寺の中門)
増上寺へは、地下鉄「大門駅」で降りる。大門は、増上寺の表門である。中門は三解脱門(三門)といい、都内有数の古建築であり東日本最大級を誇る。国の重要文化財にも指定されている。この日は薪能が行われるとかで、三解脱門は閉まっていたので、黒門(通用門)から入った。すると、突然目の前に巨大な塔が…。五重塔ではなく、それは東京タワーだった。

大殿(本堂)

安国殿
東大寺の創建時には高さ70~100mといわれる東西2つの七重塔があったそうだが、こちらは333mの電波塔だ。あまりにも近いので驚いたが、東京タワーの建設時、増上寺は墓地の一部を用地として提供している。「高い建物のない時代には、ちょうどこんな感覚で七重塔を見上げていたのだろうな」としみじみとした気持ちでタワーを見上げ、何枚もシャッターを切った。

鐘楼堂。大梵鐘は寛永寺、浅草寺とともに江戸三名鐘の1つ
大殿(本堂)にはご本尊阿弥陀如来(室町時代)や宗祖である法然上人像がお祀りされていた。「ネットで百科」の「増上寺」の項を見ると《東京都港区芝公園にある浄土宗の寺。 浄土宗六大本山の一つ。 三縁山広度院増上寺,略して縁山という。 1393 年 (明徳 4) 浄土宗第 8 祖聖聡が,武蔵国豊島郡貝塚台局沢 (現, 千代田区平河町付近) にあった真言宗の光明寺を改宗して増上寺と改名, 念仏弘通の中心道場としたことにはじまると伝える。 第 12 世存応(ぞんのう)のとき,徳川家康の帰依をうけて徳川家の菩提所 (ぼだいしよ) となり, 1598 年 (慶長 3) 現在地に移された。大伽藍の成った 1608 年勅願所となり, その後関東十八檀林の筆頭,ついで総録所として一宗を統轄する機関となった》。

本堂(大殿)のご本尊

本堂の法然上人像
《16 年 (元和 2) 家康の没後安国殿が造営された。 2 代将軍秀忠の没後から 7 代将軍家継に至る御霊屋 (おたまや) が造営されるに伴って御霊屋の別当寺院が生まれ, 年とともに寺領,堂宇を増し,たび重なる火災にも徳川家の外護 (げご) のもとに再建された。 52 年 (承応 1) ごろには,20 万坪の境内に 20 余りの堂宇が建ち並び, 当時 3000 人にのぼる学僧がいて念仏の声は一山に鳴り響いたという。明治期に入って 1869 年 (明治 2) に勅願所となり, 72 年教部省の命によって大殿は神仏合併大教院となり, 皇祖大神がまつられたことがあった》。

《数度の火災で文化財の多くは失われ, 戦火をまぬがれた建造物は三門 (三解脱門), 大経蔵,御成門 (おなりもん) にすぎない。 しかし,宋・元・高麗の三大蔵経,浄土五祖図などの絵画, 家康の守本尊であった黒本尊などの彫像, 多くの日鑑・古文書などが保存されている。 境内の大梵鐘は重さ 150kgで東京一といわれ, 寛永寺,浅草寺とならぶ江戸三鐘の一つ。(中略) 現在,境内地は 2 万 7000 余坪と最盛時の 7 分の 1 に縮小されたが, いまなお本山として念仏門徒の霊域となっている》。
「20万坪の境内に 20余りの堂宇」とはすごい。してみると、やはり東京タワーは増上寺の旧境内地に建っているのである。名刹と電波塔とは、珍しい取り合わせであるが、タワー⇔増上寺コースは、いかにも外国人観光客に受けそうな観光ルートである。皆さん、東京に行かれた際は、ぜひ「333mの塔のある寺」をお訪ねください。
まず訪ねたのが、芝の増上寺(ぞうじょうじ 東京都港区芝公園)である。なお、かつて芝(芝白金台)には芝村藩(奈良県桜井市芝)の江戸藩邸があり、そのゆかりで地名が「芝」(東京都港区)になったそうだ。奈良の地名が東京に飛び火したとは面白いが、考えてみれば有楽町という地名も、そこに信長の弟・織田有楽斎(おだ・うらくさい=芝村藩の初代藩主だった織田長政の父)の邸宅があったことから名づけられたのである。
増上寺は浄土宗の七大本山の一つで、徳川将軍家の菩提寺として知られている。定番の初詣スポットで、大晦日のカウントダウンでは鐘の音とともに約3000個の環境風船が夜空に放たれる。

大門(増上寺の表門)

三解脱門(増上寺の中門)
増上寺へは、地下鉄「大門駅」で降りる。大門は、増上寺の表門である。中門は三解脱門(三門)といい、都内有数の古建築であり東日本最大級を誇る。国の重要文化財にも指定されている。この日は薪能が行われるとかで、三解脱門は閉まっていたので、黒門(通用門)から入った。すると、突然目の前に巨大な塔が…。五重塔ではなく、それは東京タワーだった。

大殿(本堂)

安国殿
東大寺の創建時には高さ70~100mといわれる東西2つの七重塔があったそうだが、こちらは333mの電波塔だ。あまりにも近いので驚いたが、東京タワーの建設時、増上寺は墓地の一部を用地として提供している。「高い建物のない時代には、ちょうどこんな感覚で七重塔を見上げていたのだろうな」としみじみとした気持ちでタワーを見上げ、何枚もシャッターを切った。


鐘楼堂。大梵鐘は寛永寺、浅草寺とともに江戸三名鐘の1つ
大殿(本堂)にはご本尊阿弥陀如来(室町時代)や宗祖である法然上人像がお祀りされていた。「ネットで百科」の「増上寺」の項を見ると《東京都港区芝公園にある浄土宗の寺。 浄土宗六大本山の一つ。 三縁山広度院増上寺,略して縁山という。 1393 年 (明徳 4) 浄土宗第 8 祖聖聡が,武蔵国豊島郡貝塚台局沢 (現, 千代田区平河町付近) にあった真言宗の光明寺を改宗して増上寺と改名, 念仏弘通の中心道場としたことにはじまると伝える。 第 12 世存応(ぞんのう)のとき,徳川家康の帰依をうけて徳川家の菩提所 (ぼだいしよ) となり, 1598 年 (慶長 3) 現在地に移された。大伽藍の成った 1608 年勅願所となり, その後関東十八檀林の筆頭,ついで総録所として一宗を統轄する機関となった》。

本堂(大殿)のご本尊

本堂の法然上人像
《16 年 (元和 2) 家康の没後安国殿が造営された。 2 代将軍秀忠の没後から 7 代将軍家継に至る御霊屋 (おたまや) が造営されるに伴って御霊屋の別当寺院が生まれ, 年とともに寺領,堂宇を増し,たび重なる火災にも徳川家の外護 (げご) のもとに再建された。 52 年 (承応 1) ごろには,20 万坪の境内に 20 余りの堂宇が建ち並び, 当時 3000 人にのぼる学僧がいて念仏の声は一山に鳴り響いたという。明治期に入って 1869 年 (明治 2) に勅願所となり, 72 年教部省の命によって大殿は神仏合併大教院となり, 皇祖大神がまつられたことがあった》。

《数度の火災で文化財の多くは失われ, 戦火をまぬがれた建造物は三門 (三解脱門), 大経蔵,御成門 (おなりもん) にすぎない。 しかし,宋・元・高麗の三大蔵経,浄土五祖図などの絵画, 家康の守本尊であった黒本尊などの彫像, 多くの日鑑・古文書などが保存されている。 境内の大梵鐘は重さ 150kgで東京一といわれ, 寛永寺,浅草寺とならぶ江戸三鐘の一つ。(中略) 現在,境内地は 2 万 7000 余坪と最盛時の 7 分の 1 に縮小されたが, いまなお本山として念仏門徒の霊域となっている》。
「20万坪の境内に 20余りの堂宇」とはすごい。してみると、やはり東京タワーは増上寺の旧境内地に建っているのである。名刹と電波塔とは、珍しい取り合わせであるが、タワー⇔増上寺コースは、いかにも外国人観光客に受けそうな観光ルートである。皆さん、東京に行かれた際は、ぜひ「333mの塔のある寺」をお訪ねください。