産経新聞奈良版・三重版ほかに好評連載中の「なら再発見」、今回(4/20付)のタイトルは「東大寺戒壇堂と入江泰吉旧邸 広目天像 大和路撮影の出発点」。筆者は、NPO法人奈良まほろばソムリエの会の石田一雄さんである。以下、全文を紹介する。
奈良市の東大寺大仏殿から、人気の少ない道を西へ下ると戒壇堂(かいだんどう)がある。天平時代の塑像(そぞう)「四天王立像(してんのうりゅうぞう)」(国宝)が安置されている。激しい動きを表現しているが、静かで気迫に満ちた厳かな表情で必見だ。
戒壇堂から自然石の階段を下りると、そこは東大寺旧境内の水門(すいもん)町だ。土塀や生け垣の奥に木造家屋が軒を連ね、古き良き奈良のたたずまいが残る。
* * *
写真家、入江泰吉(明治38―平成4年)の旧邸もある。入江が昭和24年から亡くなるまで過ごした家だ。平屋建ての木造家屋で、門には自筆表札がかかっている。
「大和路」を生涯のテーマにし、半世紀にわたって叙情豊かな写真を撮り続けた。奈良の魅力、素晴らしさを全国に知らしめた功労者だ。
全作品約8万点を寄贈された奈良市は、新薬師寺に近い同市高畑町に平成4年、入江泰吉記念奈良市写真美術館を開館した。
建築家、黒川紀章氏が設計した美術館は、周辺の田園風景になじんだ外観で、入江作品の常設展示のほか、年に数回の企画展も開催。館内の記念室には、入江の銅像や愛用カメラが収められている。
奈良市出身の入江は大阪で写真家となったが、昭和20年の大阪大空襲で自宅と店舗を焼失し、失意のうちに帰郷した。
虚脱状態の中、立ち寄った古本屋で手に取った亀井勝一郎の「大和古寺風物誌」に感銘を受け、古寺遍歴を始めた。
たまたま訪れた東大寺三月堂の四天王像が、戦災をおそれて疎開した先から戻って運び込まれるのを目撃。奈良の仏像がアメリカに没収されるという噂を聞いて、その前にすべての仏像を写し残そうと仏像撮影を決心したとされる。
撮影機材をかき集め、最初に撮った仏像が戒壇堂の四天王像のうち広目天(こうもくてん)像で、大和路撮影の出発点となった。
眉間にしわを寄せ鋭く遠くを見つめる広目天のまなざしに、ハッとさせられた人は多いはずだ。入江の残した最後の言葉も「東大寺戒壇院の仏さん、あれを…」だったそうだ。
* * *
入江旧邸は、平成16年に亡くなったミツヱ夫人から奈良市に寄贈され整備中で、平成26年度にも一般公開の計画だ。
奈良に生まれ大和路の風物を写真という遺産で残してくれた恩人、入江泰吉。最後の言葉に残した戒壇堂を望むこの旧邸を、実際に見学できれば、より一層、入江を身近に感じられるだろう。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 石田一雄)
「奈良大和路」という言葉も、入江の発明である。「奈良」だけでは奈良市だけと勘違いされる。「大和路」だけでは、イメージが湧きにくい。「奈良大和路」とすることで、奈良県全域がイメージされるのである。
文中にある入江泰吉記念奈良市写真美術館では、さまざまな企画展が開かれていて、ちょうど今は「写真集でたどる入江泰吉の軌跡―前期(昭和20~45年まで)―」が開催中である。東大寺に近い旧邸が公開されれば、観光スポットとして、立ち寄る人も多いことだろう。ぜひ、ご期待いただきたい。
石田さん、良い記事を有難うございました!
奈良市の東大寺大仏殿から、人気の少ない道を西へ下ると戒壇堂(かいだんどう)がある。天平時代の塑像(そぞう)「四天王立像(してんのうりゅうぞう)」(国宝)が安置されている。激しい動きを表現しているが、静かで気迫に満ちた厳かな表情で必見だ。
戒壇堂から自然石の階段を下りると、そこは東大寺旧境内の水門(すいもん)町だ。土塀や生け垣の奥に木造家屋が軒を連ね、古き良き奈良のたたずまいが残る。
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写真家、入江泰吉(明治38―平成4年)の旧邸もある。入江が昭和24年から亡くなるまで過ごした家だ。平屋建ての木造家屋で、門には自筆表札がかかっている。
「大和路」を生涯のテーマにし、半世紀にわたって叙情豊かな写真を撮り続けた。奈良の魅力、素晴らしさを全国に知らしめた功労者だ。
全作品約8万点を寄贈された奈良市は、新薬師寺に近い同市高畑町に平成4年、入江泰吉記念奈良市写真美術館を開館した。
建築家、黒川紀章氏が設計した美術館は、周辺の田園風景になじんだ外観で、入江作品の常設展示のほか、年に数回の企画展も開催。館内の記念室には、入江の銅像や愛用カメラが収められている。
奈良市出身の入江は大阪で写真家となったが、昭和20年の大阪大空襲で自宅と店舗を焼失し、失意のうちに帰郷した。
虚脱状態の中、立ち寄った古本屋で手に取った亀井勝一郎の「大和古寺風物誌」に感銘を受け、古寺遍歴を始めた。
たまたま訪れた東大寺三月堂の四天王像が、戦災をおそれて疎開した先から戻って運び込まれるのを目撃。奈良の仏像がアメリカに没収されるという噂を聞いて、その前にすべての仏像を写し残そうと仏像撮影を決心したとされる。
撮影機材をかき集め、最初に撮った仏像が戒壇堂の四天王像のうち広目天(こうもくてん)像で、大和路撮影の出発点となった。
眉間にしわを寄せ鋭く遠くを見つめる広目天のまなざしに、ハッとさせられた人は多いはずだ。入江の残した最後の言葉も「東大寺戒壇院の仏さん、あれを…」だったそうだ。
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入江旧邸は、平成16年に亡くなったミツヱ夫人から奈良市に寄贈され整備中で、平成26年度にも一般公開の計画だ。
奈良に生まれ大和路の風物を写真という遺産で残してくれた恩人、入江泰吉。最後の言葉に残した戒壇堂を望むこの旧邸を、実際に見学できれば、より一層、入江を身近に感じられるだろう。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 石田一雄)
「奈良大和路」という言葉も、入江の発明である。「奈良」だけでは奈良市だけと勘違いされる。「大和路」だけでは、イメージが湧きにくい。「奈良大和路」とすることで、奈良県全域がイメージされるのである。
文中にある入江泰吉記念奈良市写真美術館では、さまざまな企画展が開かれていて、ちょうど今は「写真集でたどる入江泰吉の軌跡―前期(昭和20~45年まで)―」が開催中である。東大寺に近い旧邸が公開されれば、観光スポットとして、立ち寄る人も多いことだろう。ぜひ、ご期待いただきたい。
石田さん、良い記事を有難うございました!