今日も、田中利典師(金峯山寺長臈・種智院大学客員教授)からご恵送いただいた『父母への追慕抄~父母の恩重きこと天の極まりなきが如し~』という冊子の1篇を紹介する。今回は「父母は七世、師僧は累劫(るいこう)なり。義深く、恩重し」、『金峯山時報』(平成13年8月号)の「蔵王清風」欄に掲載された文章である。師のブログ「山人のあるがままに」では、こちらに出ている。
父が亡くなった。7月の暑い夜のことだった。病院のベッドで家族に看取られながら、片方ずつ息子2人の手を握りしめ、静かに息を引き取ったのであった。ここ数年、父は病の床にあったが、死の当日まで自坊で過ごし、わずか半日の緊急入院で、最後は穏やかに死期を迎えた。享年86歳の生涯だが、大往生と言わせてもらってもよいだろう。
父の急逝に悄然(しょうぜん)としながら、それでもばたばたと葬儀を終え、いまは、心の中にどうしようもない大きな空洞が空いてしまっているのを感じている。半年前からは寝たきりになっていたし、ある程度の覚悟は出来ていたつもりだが、この春からの多忙の中で、ついつい父のことが疎かになっていたことも確かだった。言いしれぬ悔いが残った。物言わぬ存在でもいいから、そのぬくもりだけでも永遠に感じていたいというのが正直な心根である。
親不孝な息子だったのかもしれない。あんなにたくさんのことをして貰いながら、何にも恩返しすることもなく、見送ってしまったようで、やるせなくて仕方がない。「親を亡くせば、誰でもが感じることだよ」と言われても、何の慰めにもならず、ただ自分の身勝手さ、愚昧(ぐまい)さ、至らなさに身が切り刻まれる思いなのである。
「父母は七世、師僧は累劫なり。義深く、恩重し」(唐の道宣[どうせん]律師)というが、私の場合、亡父は大好きな父でもあり、師僧でもある。若くして在家から験門に入り、数多(あまた)の修行を重ねながら、法師として活動するそんな父の大きな背中を見て育ってきたのであり、現在私が修験僧となり、また宗門の実務に携わっているのも、すべて父によって導かれた道なのである。その恩たるや如何なるものなるか、到底、計り知れない重さである。
生前父とはよく意見を違(たが)えた。教えを受くべきこともたくさんあったが、素直に聞けなかったし、そのことは後で絶対に後悔しないと心に決めていた。ただ亡くしてみて思うことは「若し能(よ)く自らの行が具足せば、即ち他を化すること自然(じねん)なり」という聖徳太子のお言葉である。父は父なりのやり方で愚息達を教化し導いて来てくれたのだと痛感する。だからこそ今の自分がある、のである。
生涯を一行者として見事に生き抜いた父であったが、その法嗣(ほっし)として、いくばくかでも報いることが、唯一、私に出来うる恩返しなのであろう。そのことを実践していく中でしか、この心の空洞を埋めるすべはないとわかる。いまはただ、その恩徳に、感謝して合掌するのみである。―「金峯山時報平成13年8月号」より
私は昭和56年に学校生活を終えて、金峯山寺に入寺しました。しかし、昭和59年と平成5年には年老いた父を思い、父からの教えを学び、また自坊の手伝いに専心するべく、金峯山寺を辞めて、綾部に帰ろうとします。しかしそのたびに、自坊での父との関係はうまくいかなくて、そのうち金峯山寺も忙しくなり、再び三度(みたび)吉野に呼び戻されたのでした。
そして平成13年に宗務総長に就任して、結局、父のもとには戻れないまま、父を見送ることになりました。そういう後悔が、父の死に臨んで、やはり私の中には大きかったと思います。もちろん、本山で活躍することは父が望んだことなので、親孝行になった部分も大いにあったのですが…。
「父母七世」とは、自分に至るまでの七代にわたる父母(直系の祖先)、「累劫」とは、きわめて長い時間のこと。利典師にとってお父上は師僧でもあったので、二重の意味で「義深く、恩重し」ということになるが、本山・金峯山寺の宗務総長として大活躍された利典師は、見事に親孝行を果たされた。
昨日、Mさんという方が師のFaebookに《『父母への追慕抄』が無事に我が家に到着しました。先生のお父様、お母様への思いが詰まった冊子となっております。なかなか上手く行かない親子関係の我が父母への接し方、親孝行のヒントにさせて頂きたいと思います。最後になりましたがお忙しい中、又、体調が優れない中、先生、有難うございました》と書き込んでおられた。
病からまだ十分癒えないお体で、素晴らしいご本をお送りいただいた利典師、有り難うございました。
父が亡くなった。7月の暑い夜のことだった。病院のベッドで家族に看取られながら、片方ずつ息子2人の手を握りしめ、静かに息を引き取ったのであった。ここ数年、父は病の床にあったが、死の当日まで自坊で過ごし、わずか半日の緊急入院で、最後は穏やかに死期を迎えた。享年86歳の生涯だが、大往生と言わせてもらってもよいだろう。
父の急逝に悄然(しょうぜん)としながら、それでもばたばたと葬儀を終え、いまは、心の中にどうしようもない大きな空洞が空いてしまっているのを感じている。半年前からは寝たきりになっていたし、ある程度の覚悟は出来ていたつもりだが、この春からの多忙の中で、ついつい父のことが疎かになっていたことも確かだった。言いしれぬ悔いが残った。物言わぬ存在でもいいから、そのぬくもりだけでも永遠に感じていたいというのが正直な心根である。
親不孝な息子だったのかもしれない。あんなにたくさんのことをして貰いながら、何にも恩返しすることもなく、見送ってしまったようで、やるせなくて仕方がない。「親を亡くせば、誰でもが感じることだよ」と言われても、何の慰めにもならず、ただ自分の身勝手さ、愚昧(ぐまい)さ、至らなさに身が切り刻まれる思いなのである。
「父母は七世、師僧は累劫なり。義深く、恩重し」(唐の道宣[どうせん]律師)というが、私の場合、亡父は大好きな父でもあり、師僧でもある。若くして在家から験門に入り、数多(あまた)の修行を重ねながら、法師として活動するそんな父の大きな背中を見て育ってきたのであり、現在私が修験僧となり、また宗門の実務に携わっているのも、すべて父によって導かれた道なのである。その恩たるや如何なるものなるか、到底、計り知れない重さである。
生前父とはよく意見を違(たが)えた。教えを受くべきこともたくさんあったが、素直に聞けなかったし、そのことは後で絶対に後悔しないと心に決めていた。ただ亡くしてみて思うことは「若し能(よ)く自らの行が具足せば、即ち他を化すること自然(じねん)なり」という聖徳太子のお言葉である。父は父なりのやり方で愚息達を教化し導いて来てくれたのだと痛感する。だからこそ今の自分がある、のである。
生涯を一行者として見事に生き抜いた父であったが、その法嗣(ほっし)として、いくばくかでも報いることが、唯一、私に出来うる恩返しなのであろう。そのことを実践していく中でしか、この心の空洞を埋めるすべはないとわかる。いまはただ、その恩徳に、感謝して合掌するのみである。―「金峯山時報平成13年8月号」より
私は昭和56年に学校生活を終えて、金峯山寺に入寺しました。しかし、昭和59年と平成5年には年老いた父を思い、父からの教えを学び、また自坊の手伝いに専心するべく、金峯山寺を辞めて、綾部に帰ろうとします。しかしそのたびに、自坊での父との関係はうまくいかなくて、そのうち金峯山寺も忙しくなり、再び三度(みたび)吉野に呼び戻されたのでした。
そして平成13年に宗務総長に就任して、結局、父のもとには戻れないまま、父を見送ることになりました。そういう後悔が、父の死に臨んで、やはり私の中には大きかったと思います。もちろん、本山で活躍することは父が望んだことなので、親孝行になった部分も大いにあったのですが…。
「父母七世」とは、自分に至るまでの七代にわたる父母(直系の祖先)、「累劫」とは、きわめて長い時間のこと。利典師にとってお父上は師僧でもあったので、二重の意味で「義深く、恩重し」ということになるが、本山・金峯山寺の宗務総長として大活躍された利典師は、見事に親孝行を果たされた。
昨日、Mさんという方が師のFaebookに《『父母への追慕抄』が無事に我が家に到着しました。先生のお父様、お母様への思いが詰まった冊子となっております。なかなか上手く行かない親子関係の我が父母への接し方、親孝行のヒントにさせて頂きたいと思います。最後になりましたがお忙しい中、又、体調が優れない中、先生、有難うございました》と書き込んでおられた。
病からまだ十分癒えないお体で、素晴らしいご本をお送りいただいた利典師、有り難うございました。