金峯山寺長臈(ちょうろう)田中利典師は、ご自身のFacebookに、新潮選書『修験道という生き方』(宮城泰年氏・ 内山節氏との共著)のうち、利典師の発言部分をご自身で加筆修正されたものを〈シリーズ『修験道という生き方』〉のタイトルで掲載されている。心に響くとてもいい文章なので、私はこれを追っかけて拙ブログで紹介している。
※トップ写真は明日香村稲渕のススキ(2022.9.25 撮影)
第2回の今回のタイトルは「光に包まれて…」。師は大峯奥駈修行のとき、光が上から降りてきて、光に包まれるというイメージを体験をされた。そこで「死ぬときっていうのは、こういうものなんやな」と感じられたという。なるほど、私も光に包まれて最期を迎えたいものだ。そのためには、もっと善行を積まなければ…。では師のFacebook(10/4付)から、全文を紹介する。
シリーズ『修験道という生き方』②「光に包まれて…」
私が死を怖れなくなったのは、やはり大峯の奥駈修行のときにきっかけがありました。奥駈峯中での勤行中に、光に包まれていくイメージを体験しました。光が上から降りてくる感じですね。もしかすると、山で行中勤行をしているとき、けっこう多くの人が同じような経験をしているのではないかと思うのですが、何か非常に明るい光に包まれる感じをもつときがあるんですよね。
そのとき私は、「あっ、死ぬときっていうのは、こういうものなんやな」と感じた。また、自分が死ぬときは、光に包まれるようにしてそのときを迎えたいとも…。そういう死が迎えられるようにするためには、何をしなければいけないのか。この体験で、いっぱい宿題があるような気になりました。
奥駈修行でくたくたになって行じ、峯中で拝んでいて、なんかしらんけれど光がワーッと包んでくれている。そういうなかにいると、死ぬときはこういうふうに死にたいなという気持ちになったわけですが、それを言葉にすると、蔵王権現にお任せする、不動明王にお任せする、阿弥陀如来にお任せする、そういう風に言い換えれるかと思います。そういうことを教えてくれたのが、私の奥駈行の体験なのです。
それからは、光に包まれて死ねるような最後が迎えられる生き方をしておかなければいけない、と思うようになった。もっともいま死んだら、光やなくて、灰色の煙か何かにつかまりそうな気がしますけどね(笑)。
私の母が死んだときは、亡骸のそばで、ああ母は光に包まれて逝ったんだ、という感じ持ちました。私は子どもの頃、死ぬのがとても怖かった人なのです。宇宙のどこかから地球をみているイメージが、私の死へのイメージとしてあって怖かった。
それは、地球はずっと生きつづけているのに、死んだら自分だけ、その地球上の生活から疎外されているみたいな感じなのですが、奥駈での体験をして以来、死を考えてもそういうイメージは湧いてこなくなりました。格好良く言えば、死は終わりではないという感覚が少しずつ私のなかで生まれて来たようなのです…。
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哲学者内山節先生、聖護院門跡宮城泰年猊下と、私との共著『修験道という生き方』(新潮選書)は3年前に上梓されました。ご好評いただいている?著作振り返りシリーズは、今回、本書で私がお話ししている、その一節の文章をもとに、加筆訂正して掲載しています。
※トップ写真は明日香村稲渕のススキ(2022.9.25 撮影)
第2回の今回のタイトルは「光に包まれて…」。師は大峯奥駈修行のとき、光が上から降りてきて、光に包まれるというイメージを体験をされた。そこで「死ぬときっていうのは、こういうものなんやな」と感じられたという。なるほど、私も光に包まれて最期を迎えたいものだ。そのためには、もっと善行を積まなければ…。では師のFacebook(10/4付)から、全文を紹介する。
シリーズ『修験道という生き方』②「光に包まれて…」
私が死を怖れなくなったのは、やはり大峯の奥駈修行のときにきっかけがありました。奥駈峯中での勤行中に、光に包まれていくイメージを体験しました。光が上から降りてくる感じですね。もしかすると、山で行中勤行をしているとき、けっこう多くの人が同じような経験をしているのではないかと思うのですが、何か非常に明るい光に包まれる感じをもつときがあるんですよね。
そのとき私は、「あっ、死ぬときっていうのは、こういうものなんやな」と感じた。また、自分が死ぬときは、光に包まれるようにしてそのときを迎えたいとも…。そういう死が迎えられるようにするためには、何をしなければいけないのか。この体験で、いっぱい宿題があるような気になりました。
奥駈修行でくたくたになって行じ、峯中で拝んでいて、なんかしらんけれど光がワーッと包んでくれている。そういうなかにいると、死ぬときはこういうふうに死にたいなという気持ちになったわけですが、それを言葉にすると、蔵王権現にお任せする、不動明王にお任せする、阿弥陀如来にお任せする、そういう風に言い換えれるかと思います。そういうことを教えてくれたのが、私の奥駈行の体験なのです。
それからは、光に包まれて死ねるような最後が迎えられる生き方をしておかなければいけない、と思うようになった。もっともいま死んだら、光やなくて、灰色の煙か何かにつかまりそうな気がしますけどね(笑)。
私の母が死んだときは、亡骸のそばで、ああ母は光に包まれて逝ったんだ、という感じ持ちました。私は子どもの頃、死ぬのがとても怖かった人なのです。宇宙のどこかから地球をみているイメージが、私の死へのイメージとしてあって怖かった。
それは、地球はずっと生きつづけているのに、死んだら自分だけ、その地球上の生活から疎外されているみたいな感じなのですが、奥駈での体験をして以来、死を考えてもそういうイメージは湧いてこなくなりました。格好良く言えば、死は終わりではないという感覚が少しずつ私のなかで生まれて来たようなのです…。
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哲学者内山節先生、聖護院門跡宮城泰年猊下と、私との共著『修験道という生き方』(新潮選書)は3年前に上梓されました。ご好評いただいている?著作振り返りシリーズは、今回、本書で私がお話ししている、その一節の文章をもとに、加筆訂正して掲載しています。