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田中利典師の『修験道という生き方』新潮選書(3)/父から子へ、修験者への道

2022年10月18日 | 田中利典師曰く
金峯山寺長臈(ちょうろう)田中利典師は、ご自身のFacebookに、新潮選書『修験道という生き方』(宮城泰年氏・ 内山節氏との共著)のうち、利典師の発言部分をご自身で加筆修正されたものを〈シリーズ『修験道という生き方』〉のタイトルで掲載されている。心に響くとてもいい文章なので、私はこれを追っかけて拙ブログで紹介している。
※トップ写真は、般若寺(奈良市般若寺町)のコスモス(2022.10.5 撮影)

第3回の今回のタイトルは「拝み屋の子ども」。拝み屋とは祈祷師のこと。利典師は、他のところで「拝み屋の子と呼ばれるのは嫌だった」と書いておられた。修験道とか修験者のことは、あまり理解されていなかったのだろう。

私の愛読書である司馬遼太郎著『城塞』に、こんなくだりがある。同書の狂言回しである小幡勘兵衛(おばたかんべえ)を紹介する場面だ。勘兵衛は〈齢のころは36、7であろう。赤土色の皮膚に毛穴があらく、鼻ばなふとく両眼大きく、まばたきするごとにぎょとぎょと鳴るかとおもわれるほどまぶたが厚く、みるからに異相であった〉という風貌である。

大坂城で淀殿が初めて勘兵衛と対峙する場面。〈(なるほど)相当な面魂である。この城内の侍どものなかで、これだけの顔をぶらさげた者はいない。あちこちの石組のかげからのぞきこんでいる侍女たちが口々に勝手な声をあげた。よい男、という者もあれば、金峰山寺の修験者のような、という者もいる〉と表現されていた。前置きが長くなった。利典師のFacebook(10/6付)から全文を抜粋する。

シリーズ『修験道という生き方』③「拝み屋の子ども」
私は山伏だった父に連れて行かれて、五歳のときに初めて大峯山上(山上ヶ岳)に登りました。なぜ五歳のときに山上ヶ岳に登ったかというと、二歳のときにひどい肺炎になり、お医者さんから「もうこの子はあかん」と言われたそうです。親父はもともと国鉄の職員だったのですが、その頃は辞めて、祈祷師専職になっていました。

当時、祈祷師は「拝み屋」ともいわれていました。私が死にかけたとき、母が父に言った言葉が振るってました。「あんた、拝み屋のくせして、他人の祈祷をするのに、自分の子どもの命を救えんのか」と。ひどいことを言ったもんですよねえ。

そこで、父は一念発起、大峯山山上のご本尊蔵王権現様と役行者さまに願をかけて、「この子が五歳になったら必ず連れて登るから、どうかこの子の命を救ってくれ」と拝んだそうです。その力をいただいたのか、医者も驚くほど、奇跡的に回復をしました。そういう宿縁があって、私は五歳になったとき山上に連れていかれます。

正直いうと、私は今でも山行はそんなに好きではない。宮城猊下のようにチベットやヒマラヤのような、よその国の山にまで行くような気持ちは毛頭ありませんし、日本の山でも滅多に行かない。ただ、修行だから、大峯奥駈修行を中心に石鎚山や富士山など、縁があったところは、いわば、しょうがないから行っているような、そんなへなちょこな山伏なんですよね。

ただ、五十五歳を過ぎても未だに奥駈に行ったりしてたわけで、考えてみると、やっぱり深い縁があったのでしょう。大峯山との縁というか、役行者様との仏縁というか。

父は大正五年に京都府下の綾部という、片田舎の寒村の次男坊として生まれました。実家は普通の家だったのですが、国鉄に入ったこともあって全国いろんなところを巡った。当時は国鉄職員は汽車にただで乗れたらしく、人助けが好きだったようで、全国を回りながら人助けをやっているいろんな先生を尋ねて学んだそうです。

そのとき、一番ご縁があったのが、家からそう遠くないところにあった金峯山寺末の行者さんでした。父はその行者さんとの縁で弟子になり、自分でもいろいろ勉強した。

そうやって勉強していたとき、数に神が宿るという考え方を応用した占術でもあり、除霊術でもある数霊学に出会った。数霊学というのは気学(日本で生まれたともいわれる占術。方位などから吉凶を占い厄除をすることが多い)の一種なのですが、父の中で、数霊学と山伏の道が一本になっていきました。

そして、だんだんと人助けの道一本でやっていこうという気持ちになっていったようですが、祈祷師ってそう簡単にご飯が食べられるわけでもない。そんなときに、師匠から、自分がやっている金峯山寺末の教会の跡を継いでくれと言われ、師僧が亡くなって、その跡を継ぐことになります。その時に国鉄を辞めたようです。

その後、二十五年くらいたったとき、師匠の息子がサラリーマンを定年退職して、実家の教会に戻ってきたので、預かっていた教会は息子に返して、父は自分の生家を取り壊し、信者さんの助けも借りて、新しい寺を建立することになりました。父が五十五歳の頃です。

その新寺建立は、ちょうど私が高校に進学する頃だったのですが、父から「天台宗立の比叡山高校に進み、宗内生制度の寮に入れ」と言われた。私自身は山伏になろうとかお坊さんになろうとか全く思っていなかったわけですが、親の言うことをよく聞く子どもでしたから、素直に比叡山高校に進学しました。

その私の進学がきっかけで、父の信者さんや地元の人たちが、跡継ぎもいるんだから、本格的な寺をつくろうという話になったらしいのです。で、気がつくと、すでに私自身の身も抜き差しならないことになっていた(笑)。

比叡山高校の宗内生制度(通常の授業に追加して天台宗の教義などを学ぶ生徒)は、得度受戒を終えて僧籍を取得していないと入れてもらえません。そこで、慌てて、中学三年生の卒業直前の三月に得度を受けて、金峯山寺僧籍の宗内生として入学させてもらった。

そこからは、気づくと、もう坊さんになる以外ないような道筋で……。 高校を出ると、一年間本山の金峯山寺で、管長様のそばでの随身生活(神仏にしたがう行)をして、その後、京都の龍谷大学で四年、そして叡山学院に二年間、仏教や天台学を勉強させてもらって帰ってきました。

その帰ってきた寺が、天台宗とか、禅宗の寺とか浄土真宗の寺であれば、山伏にはなっていなかったと思うのですけれど、帰るべき寺が私にとっては山伏の寺だった。それで、山を本格的に歩いてないのに山伏とは言わへんやろ!…ということで、山での修行をすることになったわけです。もちろん五歳で連れていかれた大峯には毎年、父に連れられて登ってはいましたが。

山の修行は、虫やダニやヒルはいるし、汗まみれで汚いし、なによりめちゃめちゃ歩かされて本当にしんどい。そんな山行はあまり好きではないのですけれど、それでも何度も何度も山に行くようになり、だんだんと日本人の信仰のあり方がわかってきたような気がしました。

大学で学ぶ仏教は、仏教原理とでもいうべきもの。いわばお釈迦さんの考え方はこうであった、四諦八正道十二因縁はこういう教義である、みたいなことは教わるのですが、日本人が仏教とともにどう生きてきたのかはほとんどお教えてもらえない。

ですから、普通のお寺の息子たちも、大学で学んだお釈迦さんの教えと、実際、自分のお寺に帰って活動することとの食い違いに、真面目な人ほど悩むことになります。たとえば、お葬式でも法事でも、お釈迦さん自身はおやりになっていないし、葬式仏教などは教えておられません。なので、みんななにかジレンマをかかえながら、お坊さんをしているようなことに陥りやすい。

私はその点、檀家のない、信者寺、祈祷寺、山伏の寺ですから、山の修行には強制的にでも行かなければいけないとはいえ、その山修行を通じて、日本人が何を大事にしながら生きてきたのかがだんだんわかるようになってきた。庶民の信仰心に触れる、神と仏を大事にする、そういう基層の部分がストンと心に落ちてきた。

さらにいえば神や仏と自分をつなぐ行を大事にする心構えみたいなことですね。いまでも、宮城猊下のように、山は行くだけで気持ちがいい、なんて境地はないのですが、いつの間にか自分は山伏ですと言えるようにしていただいた。思えば、五歳のときに父の願掛けで山上ヶ岳に連れて行かれてから、もう半世紀をはるかに過ぎています。

自坊の林南院は京都府北部・丹波地域にあるのですが、もともとこの辺一帯は山上信仰、大峯信仰の厚いところなんです。村落共同体のなかに大峯信仰があって、みんなで大峯をめざして行く習慣が育まれていた。「男に生まれたら一度は大峯参りをしてこないと男になれない」って習俗みたいなものもまだ私の子どもの頃は残っていました。

そんな地域で暮らしていた親父がより積極的に大峯と関わっていくようになり、その歴史が私も、そして九歳年下の弟もつながっていった。うちの弟は金峯山寺の管長に就任する前に、すでに大峯山寺の護持院・東南院の住職もしていましてね。役行者と綾部が結ばれて、綾部と父が結ばれて、私も弟も結ばれたことになります。ものすごい縁なのです。

ただ、子どもの頃はそういう父の活動は嫌でしたよ。確かに一方に大峯信仰の世界が綾部にはあったのですが、その一方で父の活動は近所の人たちからは「拝み屋」としかみられず、私は「拝み屋の子」とも言われていました。

同級生に禅宗の寺の娘がいたのですけれども、私が比叡山高校に進むときにも「拝み屋の学校ってあるのか」と言われた。普通の仏教教団の人たちにとっては、修験はその程度の認識だったんです。テレビに出たり本を出したりして、いまはずいぶん変わりましたけれども(笑)。

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哲学者内山節先生、聖護院門跡宮城泰年猊下と、私との共著『修験道という生き方』(新潮選書)は3年前に上梓されました。ご好評いただいている?著作振り返りシリーズは、今回、本書で私がお話ししている、その一節の文章をもとに、加筆訂正して掲載しています。
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