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田中利典師の『修験道という生き方』新潮選書(1)/日常生活の中でハレ(晴れ)を意識する

2022年10月11日 | 田中利典師曰く
金峯山寺長臈、林南院(綾部市)住職、種智院大学客員教授・田中利典師は、ご自身のFacebookに、新潮選書『修験道という生き方』(宮城泰年氏・ 内山節氏との共著)のうち、利典師の発言部分をご自身で加筆修正されたものを〈シリーズ『修験道という生き方』〉のタイトルで掲載されている(2022.10.1 スタート)。分かりやすくてとてもいい文章なので、これを追っかけて拙ブログで紹介しようと思い立った。
※トップ写真は明日香村稲渕のヒガンバナ(2022.9.25 撮影)、昔に比べ花の数が激減した

初回のタイトルは「ハレとケを行き来する」。ハレ(晴れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)は普段の生活である「日常」。ケに埋没していると気が枯れ衰え「ケガレ」(穢れ、病気)になる。そこで寺社参り、祭りなどの「ハレ」が必要になる。「ハレ」の行為である山伏修行も、この観点から見直されているというお話である。では、師のFacebook(10/1付)から抜粋する。

シリーズ『修験道という生き方』①「ハレとケを行き来する」
日本の人たちは「ハレ」と「ケ」を意識しながら暮らしてきました。普段の生活のことを日本人は「ケ」(ケガレ)とみてきました。この終わらない日常を過ごしているとだんだん気が衰えてくるし、気が衰えて、弱ってくる。そうすると、病んできます。つまり病気になるということです。日常の中で、いろいろなものにケガレて、病むというのです。

ですからそれを克服するには「ハレ」が必要だと考えました。ときどき、「ハレ」の日を設ける。女性が歌舞伎見物に着る「晴れ着」のハレです。晴れ着はお天気の日に着るのではなくて、非日常の聖なる「ハレ」の日に着る着物なのです。

「ハレ」はお正月とかひな祭り、端午の節句、夏至、冬至などなど、生活の歳時記の中で、「ハレ」を行ってケガレをとるという慣習です。お屠蘇も白酒もちまきも、菖蒲湯も柚湯もみな「ハレ」の行為です。寺社参りなどはまさに非日常を離れ、聖なる場所にいくという「ハレ」そのものです。夏祭り、秋祭りも「ハレ」なのです。

「ケ」は日常、「ハレ」は非日常であり、「ケ」は俗なる毒ある日々で「ハレ」は非日常の聖なるものだといってもよいでしょう。つまり、ときどき聖なるものに触れることによって、ケガレからのバランスを取り直しながら生きてきたということです。

ところが現代社会では、歳時記の中の慣習儀礼の意義が失われ、「ハレ」の行為の意味も失われている。1年が「ケ」の連続になってしまった。なので、そういう昔ながらの慣習から離れた都会での生活に人々は疲れ果てて来ている。そういうところから現代人は、無意識のうちに「ハレ」を欲しているのではないでしょうか。

山伏修行はいま、「ハレ」として再認識されてきているのではないかと私は思います。「ハレ」と「ケ」を行き来しながら生きてきた日本人の知恵を具現化する場所がなくなっている現代社会が、山での修行に、新しい光が当たりはじめたと、私は感じているのです。

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哲学者内山節先生、聖護院門跡宮城泰年猊下と、私との共著『修験道という生き方』(新潮選書)は3年前に上梓されました。今回から新たにはじめる著作振り返りシリーズは、本書で私がお話ししている、その一節からの文章を、加筆訂正して掲載しています。
コメント (2)
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