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先日は當麻寺(たいまでら)「奥院(おくのいん)」のボタンを紹介した。今日は當麻寺「西南院(さいなんいん)」のボタンを紹介する。撮影したのは同じ日(2020.4.29)である。ところでこの當麻寺、『日本大百科全書』によると、
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庭の高台からは、東西両塔が見渡せる
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奈良県葛城(かつらぎ)市當麻にある寺。真言、浄土の両宗に兼属する。二上山(にじょうさん)禅林寺(ぜんりんじ)と号する。612年(推古天皇20)用明(ようめい)天皇の皇子麻呂子(まろこ)王が建立した河内(かわち)(大阪府)の万法蔵院(まんぼうぞういん)を、王の孫当麻国見(たいまのくにみ)が役行者(えんのぎょうじゃ)を開山として681年(天武天皇10)現在地に移転、改称したといわれる。
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しかし、東西両塔(国宝)並立の奈良時代伽藍(がらん)配置の遺構を存するところから、天平(てんぴょう)年間の初頭(730ころ)に当麻氏の氏寺として創建されたとの説もあり有力である。
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763年(天平宝字7)横佩(よこはぎ)の大臣(おとど)とよばれる藤原豊成(とよなり)の女(むすめ)、中将姫が當麻寺に入って法如(ほうにょ)と号し、阿弥陀如来(あみだにょらい)の助力によって織り成したと伝える浄土変相(じょうどへんそう)図があり、蓮糸(はすいと)の「當麻曼荼羅(たいままんだら)」として有名だが、実際は絹糸の綴織(つづれおり)である。
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破損が甚だしいため何度も複製され、現在、曼荼羅堂(本堂)厨子(ずし)に安置されているのは1685年(貞享2)作のもので、曼荼羅堂や厨子とともに国宝となっている。また前に複製された「文亀(ぶんき)曼荼羅」は国の重要文化財に指定。
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1180年(治承4)平氏の南都焼討ちの際、東西両塔を除いて被災、以後は浄土教中心の道場として栄えた。当寺の近傍に出生したといわれる源信の影響からか、4月14日には「當麻寺のお練(ね)り」で知られる「聖衆来迎練供養会式(しょうじゅらいごうねりくようえしき)」が行われ、いわゆる迎講(むかえこう)の姿を伝える数少ない現存例の一つとして有名である。
奥院とはまた違った趣きで、たくさんのボタンが咲いていた。残るは中之坊、こちらもお楽しみに!
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庭の高台からは、東西両塔が見渡せる
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奈良県葛城(かつらぎ)市當麻にある寺。真言、浄土の両宗に兼属する。二上山(にじょうさん)禅林寺(ぜんりんじ)と号する。612年(推古天皇20)用明(ようめい)天皇の皇子麻呂子(まろこ)王が建立した河内(かわち)(大阪府)の万法蔵院(まんぼうぞういん)を、王の孫当麻国見(たいまのくにみ)が役行者(えんのぎょうじゃ)を開山として681年(天武天皇10)現在地に移転、改称したといわれる。
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しかし、東西両塔(国宝)並立の奈良時代伽藍(がらん)配置の遺構を存するところから、天平(てんぴょう)年間の初頭(730ころ)に当麻氏の氏寺として創建されたとの説もあり有力である。
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763年(天平宝字7)横佩(よこはぎ)の大臣(おとど)とよばれる藤原豊成(とよなり)の女(むすめ)、中将姫が當麻寺に入って法如(ほうにょ)と号し、阿弥陀如来(あみだにょらい)の助力によって織り成したと伝える浄土変相(じょうどへんそう)図があり、蓮糸(はすいと)の「當麻曼荼羅(たいままんだら)」として有名だが、実際は絹糸の綴織(つづれおり)である。
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破損が甚だしいため何度も複製され、現在、曼荼羅堂(本堂)厨子(ずし)に安置されているのは1685年(貞享2)作のもので、曼荼羅堂や厨子とともに国宝となっている。また前に複製された「文亀(ぶんき)曼荼羅」は国の重要文化財に指定。
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1180年(治承4)平氏の南都焼討ちの際、東西両塔を除いて被災、以後は浄土教中心の道場として栄えた。当寺の近傍に出生したといわれる源信の影響からか、4月14日には「當麻寺のお練(ね)り」で知られる「聖衆来迎練供養会式(しょうじゅらいごうねりくようえしき)」が行われ、いわゆる迎講(むかえこう)の姿を伝える数少ない現存例の一つとして有名である。
奥院とはまた違った趣きで、たくさんのボタンが咲いていた。残るは中之坊、こちらもお楽しみに!
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