田中利典師の名著『体を使って心をおさめる 修験道入門』をご本人の抜粋により紹介するシリーズ。少し間が空いたが今回は7回目、「修験道の成り立ち PART.Ⅲ」を紹介する。師のFacebook(2/28付)より。
※トップ写真は吉野山・花矢倉からの眺望、正面は金峯山寺蔵王堂。下千本はほぼ満開だった(2022.4.7 に私が撮影した)
シリーズ「修験道の成り立ち」
拙著『体を使って心をおさめる 修験道入門』(集英社新書)は7年前に上梓されました。一昨年、なんとか重版にもなりました。「祈りのシリーズ」の第2弾は、本著の中から、「修験道」をテーマに、不定期にですが、いくつかの内容を紹介いたします。よろしければご覧下さい。
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「修験道を始めた人は?」
修験道の開祖は?と問われれば、答えは「役行者です」あるいは「役小角です」ということになります。けれども、役行者ご自身が修験道を組織化したわけではありません。また、役行者の時代に修験道がまとまった信仰形態・集団組織として定まったということではありません。
時代が下って、役行者の足跡を慕う多くの山林修行者が現れてきました。たとえば、弘法大師空海をはじめ、当山派修験の祖・理源大師聖宝、天台修験三井寺の開基となる智証大師円珍や、比叡山の回峰行の祖・相応和尚など、数多の行者が金峯山や大峯山で修行しました。それらの山林修行者たちは、徐々に修行法や所作をかたち作り、儀礼や教義をもった宗教として集団を組織化していったのでした。
「多様な修験的な活動」
かつて、神官や僧侶と一般庶民のあいだに位置し、加持祈祷などを行った宗教人、それが修験者たちでした。役行者も出家はしていない優婆塞(在家の修行者)です。修験道の山伏たちは、時には行人や聖、衆徒、雑密、優婆塞、御師などと呼ばれる、多様な活動をになっていた人々だと私は思っています。
また、修験者や山伏の中でも、それぞれの得意分野があり、主に里での占いや加持祈祷をなりわいとした人々、死者儀礼に関わっていた人々、寺や神社に奉仕していた人々、神楽や延年の舞をになった人々など、全国には膨大な数の修験者や山伏がいました。
「修験道、二つの流れ」
山林修行者たちによって組織された修験道は、やがて二つの流れとなりました。ひとつは「本山派修験」です。天台密教や法華思想を教義の基盤とし、熊野修験を拠点に、大津の三井寺や京都の聖護院がその中心になります。
もうひとつは、「当山派修験」です。理源大師聖宝を祖に、真言密教を教義の基盤としています。東大寺や興福寺など南都の寺を系譜に発展し、のちに京都の醍醐寺三宝院の傘下にまとめられます。この両派が近世には全国の修験道を統括し、主流となります。
そして、もうひとつ、私のいる吉野金峯山という中心地があります。役行者ゆかりの地である吉野金峯山は、両派がともに修行に集う場所であり、修験道の発展を支える根本聖地として栄えたのです。
「相次ぐ宗教政策」
修験道が全国的に二つの派に大別されたのには、江戸時代の政策が影響しています。たとえば、金峯山寺は徳川幕府の時代になると、豊臣家ゆかりの寺としてさまざまな圧力がかけられました。
江戸幕府は、慶長十八年(一六一三)に「修験道法度」を定めます。これは修験道に限らないすべての宗教対策の一環であり、寺社の擁する軍事力を含む大きな勢力を削いで幕府の管理下に置こうという、織田信長・豊臣秀吉の刀狩り政策以降の流れです。
この「修験道法度」により、全国の修験者を天台宗寺門派の聖護院を本寺とする本山派と、真言宗の醍醐寺三宝院を本寺として仰いだ当山正大先達衆を中核とする当山派の、いずれかに所属させました。
これとは別に、吉野金峯山寺には天台宗の天海僧正が派遣され、天台宗山門派輪王寺末となりました(金峯山寺の住職はこれ以降、管領職とよばれ、初代の天海僧正にはじまり、現代まで31世を数えています)。
さらに幕府は山伏や宗徒への特権を奪い、妻帯さえも禁じました。これは血族で結びつく集団を削ぐのが目的でした。
次項から「近代の災禍」へ。
#ウクライナの人々に1日も早い平和の日々が回復されますように!
※トップ写真は吉野山・花矢倉からの眺望、正面は金峯山寺蔵王堂。下千本はほぼ満開だった(2022.4.7 に私が撮影した)
シリーズ「修験道の成り立ち」
拙著『体を使って心をおさめる 修験道入門』(集英社新書)は7年前に上梓されました。一昨年、なんとか重版にもなりました。「祈りのシリーズ」の第2弾は、本著の中から、「修験道」をテーマに、不定期にですが、いくつかの内容を紹介いたします。よろしければご覧下さい。
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「修験道を始めた人は?」
修験道の開祖は?と問われれば、答えは「役行者です」あるいは「役小角です」ということになります。けれども、役行者ご自身が修験道を組織化したわけではありません。また、役行者の時代に修験道がまとまった信仰形態・集団組織として定まったということではありません。
時代が下って、役行者の足跡を慕う多くの山林修行者が現れてきました。たとえば、弘法大師空海をはじめ、当山派修験の祖・理源大師聖宝、天台修験三井寺の開基となる智証大師円珍や、比叡山の回峰行の祖・相応和尚など、数多の行者が金峯山や大峯山で修行しました。それらの山林修行者たちは、徐々に修行法や所作をかたち作り、儀礼や教義をもった宗教として集団を組織化していったのでした。
「多様な修験的な活動」
かつて、神官や僧侶と一般庶民のあいだに位置し、加持祈祷などを行った宗教人、それが修験者たちでした。役行者も出家はしていない優婆塞(在家の修行者)です。修験道の山伏たちは、時には行人や聖、衆徒、雑密、優婆塞、御師などと呼ばれる、多様な活動をになっていた人々だと私は思っています。
また、修験者や山伏の中でも、それぞれの得意分野があり、主に里での占いや加持祈祷をなりわいとした人々、死者儀礼に関わっていた人々、寺や神社に奉仕していた人々、神楽や延年の舞をになった人々など、全国には膨大な数の修験者や山伏がいました。
「修験道、二つの流れ」
山林修行者たちによって組織された修験道は、やがて二つの流れとなりました。ひとつは「本山派修験」です。天台密教や法華思想を教義の基盤とし、熊野修験を拠点に、大津の三井寺や京都の聖護院がその中心になります。
もうひとつは、「当山派修験」です。理源大師聖宝を祖に、真言密教を教義の基盤としています。東大寺や興福寺など南都の寺を系譜に発展し、のちに京都の醍醐寺三宝院の傘下にまとめられます。この両派が近世には全国の修験道を統括し、主流となります。
そして、もうひとつ、私のいる吉野金峯山という中心地があります。役行者ゆかりの地である吉野金峯山は、両派がともに修行に集う場所であり、修験道の発展を支える根本聖地として栄えたのです。
「相次ぐ宗教政策」
修験道が全国的に二つの派に大別されたのには、江戸時代の政策が影響しています。たとえば、金峯山寺は徳川幕府の時代になると、豊臣家ゆかりの寺としてさまざまな圧力がかけられました。
江戸幕府は、慶長十八年(一六一三)に「修験道法度」を定めます。これは修験道に限らないすべての宗教対策の一環であり、寺社の擁する軍事力を含む大きな勢力を削いで幕府の管理下に置こうという、織田信長・豊臣秀吉の刀狩り政策以降の流れです。
この「修験道法度」により、全国の修験者を天台宗寺門派の聖護院を本寺とする本山派と、真言宗の醍醐寺三宝院を本寺として仰いだ当山正大先達衆を中核とする当山派の、いずれかに所属させました。
これとは別に、吉野金峯山寺には天台宗の天海僧正が派遣され、天台宗山門派輪王寺末となりました(金峯山寺の住職はこれ以降、管領職とよばれ、初代の天海僧正にはじまり、現代まで31世を数えています)。
さらに幕府は山伏や宗徒への特権を奪い、妻帯さえも禁じました。これは血族で結びつく集団を削ぐのが目的でした。
次項から「近代の災禍」へ。
#ウクライナの人々に1日も早い平和の日々が回復されますように!
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