産経新聞奈良版・三重版ほかに好評連載中の「なら再発見」、今回(1/17付)登場するのは、大和郡山市にある古社・薬園(やくおん)八幡神社。タイトルは「薬園八幡神社 屋根、狛犬…“不思議の園”」、執筆されたのはNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」会員の藤村清彦さんである。
※トップ写真は薬園八幡神社の唐破風(からはふ)の付いた幣殿
藤村さんはいつも、私などが想像もつかないマニアックな話を探してこられ、詳しく調べてお書きになる。今回もこの神社にまつわる超マニアックな話である。いきなり本文を読むと面食らうので、予習のため、南都銀行の観光サイト「ええ古都なら」から概要を紹介しておく。
平城京の薬草園に由来する古社
近鉄郡山駅から東へまっすぐに進んだ道沿いに、通称「やこうさん」と呼ばれる「薬園八幡(やくおんはちまん)神社」がある。『続日本紀(しょくにほんぎ)』の天平勝宝元(749)年の記録によれば、平城京九条大路の南、梨原に、この宮があったとあり、「八幡」神をこの新宮内の神殿にまつって、「薬園」の名をつけて命名したのが始まりという。
中世には、東大寺領薬園荘の守り神とされ、郡山城築城の際には塩町から現在の場所に移された。春日造りの檜皮葺き(ひわだぶき)の本殿は、ところどころに極彩色が残る。見事な吊り燈篭(つりどうろう)が並ぶ社殿は、江戸時代に再建されたものだが、桃山時代のようすをよく残しており、県の指定文化財になっている。
境内には「薬園」の名にふさわしく、「かりん」などの薬草が植えられ、こじんまりとしたなかに清々しい雰囲気があふれる。入口に立つ石灯篭の文字は、藩主柳澤家にゆかりある家に生まれた、文人であり画家でもある、柳 里恭(りゅう りきょう、1703~1758年)が書いたものといわれている。そのほかにも平安時代の特徴を有する僧形八幡神像(そうぎょうはちまんしんぞう)や女神像など、由緒ある品々が伝わる古社である。
つまり「やこうさん」は、もと平城京の南端に祀られ、中世には薬園荘(東大寺領)の守り神となった。のちに現在地に移築。建物は再建されたものだが、往事の特徴をよく残す。灯籠や神像も興味深い…、というものである。では、そろそろ全文を紹介する。
薬園(やくおん)八幡神社(大和郡山市材木町)は、『続日本紀(しょくにほんぎ)』に由緒が記された古社だ。創建は、大仏鋳造の守護神として、宇佐(うさ)神宮(大分県)から八幡神が勧請(かんじょう)された天平勝宝元(749)年。奈良に入った八幡神は平城京の南、薬草園のあった梨原(なしはら)の宮に建てられた新殿に迎えられ、7日の悔過行(けかぎょう)を経て東大寺に入った。
このとき八幡神は分霊(ぶんれい)されて梨原で祀られ、後に現在お旅所となっている魚町に移り、延徳3(1491)年に現在の材木町に鎮座することになったと伝わる。
※ ※ ※
薬園八幡神社では歴史の謎を楽しみたい。まず八幡大神が留まった「梨原」の地はどこか。大和川―佐保川を船で上って来たとすれば、羅城門(らじょうもん)に近い「奈良口(ならぐち)」付近で下船し、東へ進んで「神殿(こどの)」あたりから北上して東大寺を目指したのではなかろうか。神殿という地名から梨原の神殿の地が想像される。
境内で面白いのは建物の配置と様式だ。北側に鳥居と表門がある。その先の中央が通路になった割拝殿(わりはいでん)を抜けて左に90度向きを変えると、祭儀を行う幣殿(へいでん)と本殿が連なる。幣殿と本殿が西を向くのは珍しいが、これは郡山城を護るためか。
八幡宮の総本宮宇佐神宮は南面で流造(ながれづくり)だが、当社本殿は春日造(かすがづくり)で、檜皮葺(ひわだぶき)の屋根の棟(むね)には十六弁菊花紋が付いている。また幣殿と拝殿の屋根に唐破風(からはふ)がのる。唐破風というのは、中央部を凸形に、両端部を凹形の曲線状にした玄関の屋根の形である。1社に2つも唐破風があるのも珍しい。
安政の大地震の記録が残る石燈籠
次は燈籠に注目したい。表門外の一対の石燈籠の文字は、池大雅(いけのたいが)に絵を教えたという文人画家柳里恭(りゅうりきょう)(柳沢淇園(やなぎさわきえん))の筆になるものだ。表門を入った左側の石燈籠には、「安政元(1854)年6月14日夜発生した伊賀上野を震源とする大地震(おおじしん)から逃れた大坂と郡山の商人たちが、神恩(しんおん)に感謝して寄進した」旨が刻まれており当時の世情を伝える貴重な記録だ。
その隣には「高良(こうら)大明神」の石燈籠が立っており境内には高良社が祀られている。これは佐賀県の高良大社の神を表す。なぜ九州の宇佐や高良の神々が大きな力をもつと評価されて奈良へ招かれたのか。興味ある向きには古田武彦(ふるたたけひこ)氏の著作集が参考になる。
さらに幣殿の西側には珍しい南部鋳物(なんぶいもの)製の燈籠が一基ある。文政4(1821)年のもので、龍が浮き彫りにされている。基礎は石で八角形に組まれている。八角の意匠は寺社ではめったに使われないが、この形は皇室に縁(ゆかり)があるからだろう。この燈籠が先の大戦中の金属供出を免れたのはこのあたりに理由がありそうだ、と平田宮司は推測する。
※ ※ ※
見逃がせないのは、拝殿の入り口にある天明元(1781)年銘のある一対の狛犬(こまいぬ)。わが国で2番目に古いもので、向かって右が雌、左の口を閉じ頭頂に一角を有するのが雄、よく見ると共に雌雄のしるしをつけている極(きわ)めて珍しいものだ。雄の両頬には穴があり、右頬の穴には緑青(ろくしょう)が詰まっている。銅のヒゲが埋め込まれていた痕(あと)のようだ。
左頬にひげの穴がある雄の狛犬
薬園八幡神社に残された記録や文字、形は現代の私たちに何を伝えようとしているのだろうか。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 藤村清彦)
「やこうさん」は、JR郡山駅から徒歩5分、近鉄郡山駅から徒歩10分の場所にある。ぜひ、この「不思議の宮」をお参りしていただきたい。藤村さん、今回もマニアックなお話を有難うございました!
※トップ写真は薬園八幡神社の唐破風(からはふ)の付いた幣殿
藤村さんはいつも、私などが想像もつかないマニアックな話を探してこられ、詳しく調べてお書きになる。今回もこの神社にまつわる超マニアックな話である。いきなり本文を読むと面食らうので、予習のため、南都銀行の観光サイト「ええ古都なら」から概要を紹介しておく。
平城京の薬草園に由来する古社
近鉄郡山駅から東へまっすぐに進んだ道沿いに、通称「やこうさん」と呼ばれる「薬園八幡(やくおんはちまん)神社」がある。『続日本紀(しょくにほんぎ)』の天平勝宝元(749)年の記録によれば、平城京九条大路の南、梨原に、この宮があったとあり、「八幡」神をこの新宮内の神殿にまつって、「薬園」の名をつけて命名したのが始まりという。
中世には、東大寺領薬園荘の守り神とされ、郡山城築城の際には塩町から現在の場所に移された。春日造りの檜皮葺き(ひわだぶき)の本殿は、ところどころに極彩色が残る。見事な吊り燈篭(つりどうろう)が並ぶ社殿は、江戸時代に再建されたものだが、桃山時代のようすをよく残しており、県の指定文化財になっている。
境内には「薬園」の名にふさわしく、「かりん」などの薬草が植えられ、こじんまりとしたなかに清々しい雰囲気があふれる。入口に立つ石灯篭の文字は、藩主柳澤家にゆかりある家に生まれた、文人であり画家でもある、柳 里恭(りゅう りきょう、1703~1758年)が書いたものといわれている。そのほかにも平安時代の特徴を有する僧形八幡神像(そうぎょうはちまんしんぞう)や女神像など、由緒ある品々が伝わる古社である。
つまり「やこうさん」は、もと平城京の南端に祀られ、中世には薬園荘(東大寺領)の守り神となった。のちに現在地に移築。建物は再建されたものだが、往事の特徴をよく残す。灯籠や神像も興味深い…、というものである。では、そろそろ全文を紹介する。
薬園(やくおん)八幡神社(大和郡山市材木町)は、『続日本紀(しょくにほんぎ)』に由緒が記された古社だ。創建は、大仏鋳造の守護神として、宇佐(うさ)神宮(大分県)から八幡神が勧請(かんじょう)された天平勝宝元(749)年。奈良に入った八幡神は平城京の南、薬草園のあった梨原(なしはら)の宮に建てられた新殿に迎えられ、7日の悔過行(けかぎょう)を経て東大寺に入った。
このとき八幡神は分霊(ぶんれい)されて梨原で祀られ、後に現在お旅所となっている魚町に移り、延徳3(1491)年に現在の材木町に鎮座することになったと伝わる。
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薬園八幡神社では歴史の謎を楽しみたい。まず八幡大神が留まった「梨原」の地はどこか。大和川―佐保川を船で上って来たとすれば、羅城門(らじょうもん)に近い「奈良口(ならぐち)」付近で下船し、東へ進んで「神殿(こどの)」あたりから北上して東大寺を目指したのではなかろうか。神殿という地名から梨原の神殿の地が想像される。
境内で面白いのは建物の配置と様式だ。北側に鳥居と表門がある。その先の中央が通路になった割拝殿(わりはいでん)を抜けて左に90度向きを変えると、祭儀を行う幣殿(へいでん)と本殿が連なる。幣殿と本殿が西を向くのは珍しいが、これは郡山城を護るためか。
八幡宮の総本宮宇佐神宮は南面で流造(ながれづくり)だが、当社本殿は春日造(かすがづくり)で、檜皮葺(ひわだぶき)の屋根の棟(むね)には十六弁菊花紋が付いている。また幣殿と拝殿の屋根に唐破風(からはふ)がのる。唐破風というのは、中央部を凸形に、両端部を凹形の曲線状にした玄関の屋根の形である。1社に2つも唐破風があるのも珍しい。
安政の大地震の記録が残る石燈籠
次は燈籠に注目したい。表門外の一対の石燈籠の文字は、池大雅(いけのたいが)に絵を教えたという文人画家柳里恭(りゅうりきょう)(柳沢淇園(やなぎさわきえん))の筆になるものだ。表門を入った左側の石燈籠には、「安政元(1854)年6月14日夜発生した伊賀上野を震源とする大地震(おおじしん)から逃れた大坂と郡山の商人たちが、神恩(しんおん)に感謝して寄進した」旨が刻まれており当時の世情を伝える貴重な記録だ。
その隣には「高良(こうら)大明神」の石燈籠が立っており境内には高良社が祀られている。これは佐賀県の高良大社の神を表す。なぜ九州の宇佐や高良の神々が大きな力をもつと評価されて奈良へ招かれたのか。興味ある向きには古田武彦(ふるたたけひこ)氏の著作集が参考になる。
さらに幣殿の西側には珍しい南部鋳物(なんぶいもの)製の燈籠が一基ある。文政4(1821)年のもので、龍が浮き彫りにされている。基礎は石で八角形に組まれている。八角の意匠は寺社ではめったに使われないが、この形は皇室に縁(ゆかり)があるからだろう。この燈籠が先の大戦中の金属供出を免れたのはこのあたりに理由がありそうだ、と平田宮司は推測する。
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見逃がせないのは、拝殿の入り口にある天明元(1781)年銘のある一対の狛犬(こまいぬ)。わが国で2番目に古いもので、向かって右が雌、左の口を閉じ頭頂に一角を有するのが雄、よく見ると共に雌雄のしるしをつけている極(きわ)めて珍しいものだ。雄の両頬には穴があり、右頬の穴には緑青(ろくしょう)が詰まっている。銅のヒゲが埋め込まれていた痕(あと)のようだ。
左頬にひげの穴がある雄の狛犬
薬園八幡神社に残された記録や文字、形は現代の私たちに何を伝えようとしているのだろうか。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 藤村清彦)
「やこうさん」は、JR郡山駅から徒歩5分、近鉄郡山駅から徒歩10分の場所にある。ぜひ、この「不思議の宮」をお参りしていただきたい。藤村さん、今回もマニアックなお話を有難うございました!
> 「なら再発見」の記事はいつも楽しみに拝見しています。
恐縮です。私は初回の記事と100回目の記事を書かせていただき、喜んでいます。
> 3月末で連載終了とお聞きし、残念です。まほろばソムリエの会のメンバーの署名
> 入りで本当に楽しく興味深く拝読した107回の連載、出版化が待ち望まれます。
はい、出版化のお話も出ていますので、行方を期待しています。
> ソムリエの会も新たに新メンバーを加え、ますます充実と存じ
> ます。形を変えた連載の復活を願うのは私だけではないかも・・・
何か、良い情報発信の方法を考えたいと思っています。