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田中利典師の『体を使って心をおさめる 修験道入門』集英社新書(5)/「修験道の成り立ち PART.Ⅰ」

2022年03月23日 | 田中利典師曰く
田中利典師の名著『体を使って心をおさめる 修験道入門』(集英社新書)の内容を師ご自身の抜粋により紹介するシリーズ、今回は「修験道の成り立ち PART.Ⅰ」である。西洋と違い、日本では「森は神仏のおわす場所として、本来の姿を活かしながら大事に守られてきた」、そのような山岳信仰が修験道のベースにある。では師のFacebook(2/26付)から抜粋する。

シリーズ「修験道の成り立ち」
拙著『体を使って心をおさめる 修験道入門』(集英社新書)は7年前に上梓されました。一昨年、なんとか重版にもなりました。「祈りのシリーズ」の第2弾は、本著の中から、「修験道」をテーマに、不定期にですが、いくつかの内容を紹介いたします。前回からかなり間が空きましたが、よろしければご覧下さい。 

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「修験道の成り立ち」
修験道は神仏を分けず、神も仏もともに尊いものとして礼拝してきました。修験道のみならず、古来からの日本人の信仰は、先述した如く、仏教伝来以降、神も仏もともに礼拝するものでした。それが、日本の宗教の原点といってよいと思います。そして、神仏への礼拝以前にあった、日本ならではの山岳信仰がそのベースだと言えるでしょう。

古来、山の民は、動物や木の主である山の神が山中に存在すると信じていました。山の民だけではありません。里の水田耕作民も、山の神は農耕を守る水分神、のちには祖神であるとして、ふもとに祠をつくって崇めました。

そのうち、山に籠もって修行する者たちが現れます。代表的な修行者が飛鳥時代に活躍する役小角(役行者)です。後で詳しく述べます。また、さらに最澄・空海が活躍する平安時代から盛んになった密教とも結びつくことで、山岳修行によって験力を修めて加持祈祷の力をもった者が修験者と呼ばれた、という言い方もできると思います。

修験者たちは、身近に見える山を神仏や祖霊がおわす世界であると考え、畏れをもって仰ぎ見てきました。山には聖なるものがおられ、その聖なるものを仰ぎ見、そこに入って大自然と同化し、山の霊気をいただいて修行してきたのです。そして、山の民・里の民も、山を神がいる聖なるものととらえていたので、そのうち、修験者に導かれる霊山詣(ありがたい霊力のある山にお参りにいく習慣)が盛んになりました。

「修験道はもっとも日本的な宗教」
日本人の山に対する感覚は、欧米の文化と比較してみると、特徴がより際立ちます。欧米人には、キリスト教成立以降の社会では山を仰ぎ見るような信仰はありませんでした。たとえば、トーマス・マンの小説『魔の山』、あるいはハリウッドの『ロード・オブ・ザ・リング』や『ハリー・ポッター』などの映画を見てもわかるように、欧米では、森や山は悪魔が住みつくところとみなされています。

欧米人の彼らがすすんで山に入るようになるのは、わずか二百年ほど前のことです。自然科学の発達により、山にいるのは悪魔ではなく岩や氷の固まりであるとわかってきて、そこからようやく西洋の登山の歴史は始まります。日本ではあまり知られていないのですが、西洋登山は極めて新しいものなのです。

欧米の宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教など)文化圏の自然に対する考え方は、八百万の神の文化のある日本とは大きく異なります。キリスト教などでいうところの「神」は自然の中には存在しません。神は自然を創造しましたが、自然と同化してはいないのです。神はつねに自然の外にいる「絶対者」です。

その絶対の神と契約した人間にとって、自然は、神から与えられたものとされています。神との契約によって、自然をどのように切り取ってもよい、意のままに扱ってもよい、という論理のもとに発達してきました。これがキリスト教精神を基層とした欧米の文化の考え方です。欧米の森のほとんどは一度切り取ったあと、新しく植えた森、つまり悪魔を追放して住みとった森なのです。

日本人にとっての森は、そのままが聖なる存在です。“自然は、「Nature(ネイチャー)」ではなく、「おのずからあるもの」ととらえる”、それが日本人にとっての自然観です。その目線の中で、森は神仏のおわす場所として本来の姿を活かしながら大事に守られてきたのです。

聖なるものがおわす山や森の世界に入るということは、聖なるものにふれることであり、聖なるものからエネルギーをいただくという考えがあります。こうした宗教意識の基層の部分に深くかかわってきたのが修験道です。このような日本の古き山岳信仰に、神道や外国から入ってきた仏教、道教、陰陽道などが習合して成立したのが修験道であり、山伏の宗教です。ですから、修験道こそ日本人の感覚に根ざした、もっとも日本らしい宗教と言っていいと私は思っています。

*写真は富士参詣曼荼羅。日本人の山岳への思いが込められた曼荼羅図といえます。
#ウクライナの人々に1日も早く平和が回復されることを念じます!
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