今年は天誅組(てんちゅうぐみ)が決起して150年目にあたるので、県内外で様々なイベントが行われている。天誅組が決起した8月17日には「長屋門さきがけ塾Special」として、『天誅組始末記』の著書のある小中陽太郎氏による記念講演会「天駆けよ、天誅組」(五條市中央公民館)が開催され、そのあと「150回忌 慰霊祭」(桜井寺=五條市)が営まれた。
※トップ写真は「維新の魁・天誅組」保存伝承・顕彰推進協議会の田中修司会長(桜井寺の150回忌)
ランチはリバーサイドHOTEL(五條市)のおまかせ定食(1,260円)。8/17のメインは鶏の照焼、うまい!
翌8月18日には、舟久保藍さん(天誅組研究家)、岡本彰夫さん(春日大社権宮司)、阪本基義さん(東吉野村教育長)など豪華メンバーによる「天忠組150年記念シンポジウム」(奈良県文化会館)が開催された。このうち私は小中氏の講演会と150回忌に参加させていただいた。当日配布された資料から小中氏の講演「天駆けよ、天誅組」の内容をピックアップして紹介すると、
『天誅組始末記』(1970年)は、大和書房の維新シリーズの1冊として企画され、すでに福田善之による『高杉晋作』が上梓されていた。筆者が天誅組を選んだのは、戦時下、二・二六などの青年将校が心酔した理由を知りたかったことと、天誅組の御先鋒の理論と60年代の学生たちの先駆性の理論の近似性を辿り、直接行動の有効性を検討しようというものであった。
土佐の武市半平太につらなる吉村寅太郎の存在が浮上する。それとともに、隻眼の軍師、徳川譜代の刈谷藩士松本奎堂の存在である(森銑三「松本奎堂」1943年)。「昌平骨の俊才、稀代の名文家が、なぜ恩義ある幕藩体制に弓引くのか」それは彼の軍令書に明らかである。さらにその中で、松本は「たとえ敵地の賊民といえども乱暴狼籍をむさぼり、婦女子を姦淫し、隣人を殺すことあるまじきこと」(拙著68頁)と命令する。これは最近読んだ毛沢東の『長征』とも呼応する。
小中陽太郎氏の講演「天駆けよ、天誅組」
憂いをやつしつつ、なぜ国事に奔走するのか?それらを裏切るような宮中隠謀がある。天誅組の悲劇は、一言でいえば孝明天皇の大和行幸ドタキャンに尽きる。これ以上に梯子を外された例は、鶴ヶ城を守るために出陣した白虎隊に勝るとも劣らない。そして、河内勢、十津川勢は険峻をさまようのである。それにしても、吉野、十津川地方はなんという自然風土と歴史の宝庫であろう。
吉野である。古く義経静御前、西行、後醍醐天皇、賀名生行宮、大塔宮、そして天誅組。単に山高く、水清きが故であろうか? ここに金鉱を求めた平賀源内を入れるのはその評伝を書いて私の聶厦だけであろうか(『翔べよ源内』平原社、2012年)。ここには人の魂を呼ぶ霊力が宿っている。南朝の時代から、天皇家のために命を捨てて顧みない秘密兵団が控えていて、一旦緩急あるときは田地田畑・家屋敷はおろか家族も自分の命をもなげうって錦旗の元に馳せ参ずるパワーが潜んでいる。これを天皇崇拝とか軍国主義と一蹴しては日本人は解けない。
これをしも、パワースポットといわずしてなんといおう。
五條名物、金時堂の天誅組・寅太郎饅頭。アンコがたっぷり
さて、今日(8/24)の「なら再発見」(産経新聞奈良版・三重版など)のタイトルは《天誅組決起150年 夢破れた「皇軍御先鋒」》で、私が執筆した。「天誅組の変」の全体像と「150回忌」のことなどを紹介した。全文を引用すると、
金時堂の外観
今年は「天誅(天誅)組」決起150年の記念すべき年である。
文久3(1863)年8月13日(旧暦)、決起の大義名分となった「大和行幸(ぎょうこう)の詔(みことのり)」が下った。孝明天皇が春日大社、神武天皇陵や伊勢神宮を参拝し、攘夷を祈願するというものだ。尊皇攘夷派は、天皇自らが兵を指揮して攘夷を行うことで武力倒幕に持ち込もうとした。
天誅組は大和行幸の尖兵[せんぺい](皇軍御先鋒[ごせんぽう])として五條で兵を挙げた。南大和の幕府領を平定し、義兵を集めて行幸を迎えるため、当地を支配していた五條代官所を討とうと考えた。
天誅組の主将は前侍従の中山忠光、総裁は土佐藩の庄屋出身の吉村虎太郎ら3人。ほかに河内の大地主・水郡善之祐(にごりぜんのすけ)、歌人で国学者の伴林光平らがいた。
8月17日、約50名の天誅組は大坂から千早峠を越えて五條に入り午後4時頃、代官所を襲撃し代官・鈴木源内らを殺害。本陣を五條の桜井寺に置き、五條新政府を樹立した。
ところが翌日、大変なことが起きた。薩摩・会津藩などの公武合体派が、長州藩を中心とした急進的な尊皇攘夷派を京都から追放したのだ。世にいう「8月18日の政変」。これにより大和行幸は中止され、天誅組は皇軍から、一夜にして「賊軍」に転落した。
鈴木代官らの首を洗ったという手水鉢(桜井寺)
その後、彼らは諸藩によって編成された追討軍により、猛攻撃を受けた。抵抗もむなしく9月24日、東吉野村で待ち構える追討軍と激突の末、多くの隊士が戦死し、天誅組は壊滅した。
敗走の様子は、伴林光平の《雲を踏み嵐を攀(よじ)て御(み)熊野の果無し山の果ても見しかな》というすさまじい歌に詠(よ)まれている。
しかし40日にわたる抵抗は幕府の弱体化を世に示し、彼らがめざした倒幕維新は4年後に実現。天誅組の挙兵は「明治維新の先駆け」と呼ばれることになる。
新暦と旧暦の違いはあるが、今年8月17日の天誅組挙兵の日、本陣が置かれた桜井寺で「150回忌」慰霊祭が営まれた。天誅組隊士と五條代官所役人たちの合同慰霊法要である。
私は「維新の魁(さきがけ)・天誅組」保存伝承・顕彰推進協議会の田中修司会長から誘いを受けて参列した。列席者には五條市、東吉野村、安堵町など天誅組ゆかりの市町村関係者や顕彰活動の従事者などにまじり、天誅組河内勢の首領・水郡善之祐の子孫、水郡庸隆(つねたか)氏の姿もあった。
五條市には鈴木代官など代官所関係者の墓、東吉野村などには吉村虎太郎はじめ天誅組隊士の墓があるが、いずれも住民により花などが供えられ、今も手厚く守られていることに驚く。
新しい日本の建設のため命をかけて立ち上がった若き隊士たち、そして温厚な性格で住民から慕われていたという鈴木代官。150年のときを経て、敵味方が同じお寺で霊を慰められ、鎮められたことには感慨深いものがある。
天誅組決起150年の今年は、県内外で様々なイベントが行われている。3月には関連本の決定版ともいうべき舟久保藍(ふなくぼあい)著「実録 天誅組の変」(淡交社)が刊行され、6月には東吉野村の肝いりで村内の西善から饅頭(まんじゅう)「さきがけ」も発売された。
天誅組についてはあまり広く知られているとはいえないし、無謀ともいえる行動への誤解もある。この機会に、ぜひ崇高な理念で動いた彼らへの理解を深めていただきたいと思う。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会専務理事 鉄田憲男)
天誅組の志士79人の名前を刻んだ位牌(桜井寺)
8/18の「天忠組150年記念シンポジウム」で、岡本権宮司は、こんな発言をされたそうだ。ブログ「真夏の熱闘天誅(忠)組WEEKⅡ」によると、「新撰組は会津藩お抱えの浪士団、それに比べ天忠組はボランティア。これだけをとっても大したもので、知名度が低すぎるのでは?」「文久2年、春日大社の神鏡の落下という超不吉な出来事がなければ、それを畏れた孝明天皇の大和行幸における春日大社へのお参りという話もなかったのでは…」「天誅組には今もある種の偏見があることは事実です。しかし日本のために、身を捨て、家族を捨ててでも国を憂い、良くするというその精神と行動に拍手する大きな心が大切であり、後世に伝えなければなりません」。
天誅組150年の今年は、私もいろんなところで天誅組に関する講話をさせていただく予定である。天誅組の表面的な行動ではなく、彼らの「精神」をお伝えしたいと思っている。皆さん、ぜひ天誅組にご注目ください!
※トップ写真は「維新の魁・天誅組」保存伝承・顕彰推進協議会の田中修司会長(桜井寺の150回忌)
ランチはリバーサイドHOTEL(五條市)のおまかせ定食(1,260円)。8/17のメインは鶏の照焼、うまい!
翌8月18日には、舟久保藍さん(天誅組研究家)、岡本彰夫さん(春日大社権宮司)、阪本基義さん(東吉野村教育長)など豪華メンバーによる「天忠組150年記念シンポジウム」(奈良県文化会館)が開催された。このうち私は小中氏の講演会と150回忌に参加させていただいた。当日配布された資料から小中氏の講演「天駆けよ、天誅組」の内容をピックアップして紹介すると、
『天誅組始末記』(1970年)は、大和書房の維新シリーズの1冊として企画され、すでに福田善之による『高杉晋作』が上梓されていた。筆者が天誅組を選んだのは、戦時下、二・二六などの青年将校が心酔した理由を知りたかったことと、天誅組の御先鋒の理論と60年代の学生たちの先駆性の理論の近似性を辿り、直接行動の有効性を検討しようというものであった。
土佐の武市半平太につらなる吉村寅太郎の存在が浮上する。それとともに、隻眼の軍師、徳川譜代の刈谷藩士松本奎堂の存在である(森銑三「松本奎堂」1943年)。「昌平骨の俊才、稀代の名文家が、なぜ恩義ある幕藩体制に弓引くのか」それは彼の軍令書に明らかである。さらにその中で、松本は「たとえ敵地の賊民といえども乱暴狼籍をむさぼり、婦女子を姦淫し、隣人を殺すことあるまじきこと」(拙著68頁)と命令する。これは最近読んだ毛沢東の『長征』とも呼応する。
小中陽太郎氏の講演「天駆けよ、天誅組」
憂いをやつしつつ、なぜ国事に奔走するのか?それらを裏切るような宮中隠謀がある。天誅組の悲劇は、一言でいえば孝明天皇の大和行幸ドタキャンに尽きる。これ以上に梯子を外された例は、鶴ヶ城を守るために出陣した白虎隊に勝るとも劣らない。そして、河内勢、十津川勢は険峻をさまようのである。それにしても、吉野、十津川地方はなんという自然風土と歴史の宝庫であろう。
吉野である。古く義経静御前、西行、後醍醐天皇、賀名生行宮、大塔宮、そして天誅組。単に山高く、水清きが故であろうか? ここに金鉱を求めた平賀源内を入れるのはその評伝を書いて私の聶厦だけであろうか(『翔べよ源内』平原社、2012年)。ここには人の魂を呼ぶ霊力が宿っている。南朝の時代から、天皇家のために命を捨てて顧みない秘密兵団が控えていて、一旦緩急あるときは田地田畑・家屋敷はおろか家族も自分の命をもなげうって錦旗の元に馳せ参ずるパワーが潜んでいる。これを天皇崇拝とか軍国主義と一蹴しては日本人は解けない。
これをしも、パワースポットといわずしてなんといおう。
五條名物、金時堂の天誅組・寅太郎饅頭。アンコがたっぷり
さて、今日(8/24)の「なら再発見」(産経新聞奈良版・三重版など)のタイトルは《天誅組決起150年 夢破れた「皇軍御先鋒」》で、私が執筆した。「天誅組の変」の全体像と「150回忌」のことなどを紹介した。全文を引用すると、
金時堂の外観
今年は「天誅(天誅)組」決起150年の記念すべき年である。
文久3(1863)年8月13日(旧暦)、決起の大義名分となった「大和行幸(ぎょうこう)の詔(みことのり)」が下った。孝明天皇が春日大社、神武天皇陵や伊勢神宮を参拝し、攘夷を祈願するというものだ。尊皇攘夷派は、天皇自らが兵を指揮して攘夷を行うことで武力倒幕に持ち込もうとした。
天誅組は大和行幸の尖兵[せんぺい](皇軍御先鋒[ごせんぽう])として五條で兵を挙げた。南大和の幕府領を平定し、義兵を集めて行幸を迎えるため、当地を支配していた五條代官所を討とうと考えた。
天誅組の主将は前侍従の中山忠光、総裁は土佐藩の庄屋出身の吉村虎太郎ら3人。ほかに河内の大地主・水郡善之祐(にごりぜんのすけ)、歌人で国学者の伴林光平らがいた。
元治元(1864)年に再建された長屋門(五條代官所の正門)
8月17日、約50名の天誅組は大坂から千早峠を越えて五條に入り午後4時頃、代官所を襲撃し代官・鈴木源内らを殺害。本陣を五條の桜井寺に置き、五條新政府を樹立した。
ところが翌日、大変なことが起きた。薩摩・会津藩などの公武合体派が、長州藩を中心とした急進的な尊皇攘夷派を京都から追放したのだ。世にいう「8月18日の政変」。これにより大和行幸は中止され、天誅組は皇軍から、一夜にして「賊軍」に転落した。
鈴木代官らの首を洗ったという手水鉢(桜井寺)
その後、彼らは諸藩によって編成された追討軍により、猛攻撃を受けた。抵抗もむなしく9月24日、東吉野村で待ち構える追討軍と激突の末、多くの隊士が戦死し、天誅組は壊滅した。
敗走の様子は、伴林光平の《雲を踏み嵐を攀(よじ)て御(み)熊野の果無し山の果ても見しかな》というすさまじい歌に詠(よ)まれている。
しかし40日にわたる抵抗は幕府の弱体化を世に示し、彼らがめざした倒幕維新は4年後に実現。天誅組の挙兵は「明治維新の先駆け」と呼ばれることになる。
新暦と旧暦の違いはあるが、今年8月17日の天誅組挙兵の日、本陣が置かれた桜井寺で「150回忌」慰霊祭が営まれた。天誅組隊士と五條代官所役人たちの合同慰霊法要である。
私は「維新の魁(さきがけ)・天誅組」保存伝承・顕彰推進協議会の田中修司会長から誘いを受けて参列した。列席者には五條市、東吉野村、安堵町など天誅組ゆかりの市町村関係者や顕彰活動の従事者などにまじり、天誅組河内勢の首領・水郡善之祐の子孫、水郡庸隆(つねたか)氏の姿もあった。
五條市には鈴木代官など代官所関係者の墓、東吉野村などには吉村虎太郎はじめ天誅組隊士の墓があるが、いずれも住民により花などが供えられ、今も手厚く守られていることに驚く。
新しい日本の建設のため命をかけて立ち上がった若き隊士たち、そして温厚な性格で住民から慕われていたという鈴木代官。150年のときを経て、敵味方が同じお寺で霊を慰められ、鎮められたことには感慨深いものがある。
実録 天誅組の変 | |
舟久保藍 | |
淡交社 |
天誅組決起150年の今年は、県内外で様々なイベントが行われている。3月には関連本の決定版ともいうべき舟久保藍(ふなくぼあい)著「実録 天誅組の変」(淡交社)が刊行され、6月には東吉野村の肝いりで村内の西善から饅頭(まんじゅう)「さきがけ」も発売された。
天誅組についてはあまり広く知られているとはいえないし、無謀ともいえる行動への誤解もある。この機会に、ぜひ崇高な理念で動いた彼らへの理解を深めていただきたいと思う。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会専務理事 鉄田憲男)
天誅組の志士79人の名前を刻んだ位牌(桜井寺)
8/18の「天忠組150年記念シンポジウム」で、岡本権宮司は、こんな発言をされたそうだ。ブログ「真夏の熱闘天誅(忠)組WEEKⅡ」によると、「新撰組は会津藩お抱えの浪士団、それに比べ天忠組はボランティア。これだけをとっても大したもので、知名度が低すぎるのでは?」「文久2年、春日大社の神鏡の落下という超不吉な出来事がなければ、それを畏れた孝明天皇の大和行幸における春日大社へのお参りという話もなかったのでは…」「天誅組には今もある種の偏見があることは事実です。しかし日本のために、身を捨て、家族を捨ててでも国を憂い、良くするというその精神と行動に拍手する大きな心が大切であり、後世に伝えなければなりません」。
天誅組150年の今年は、私もいろんなところで天誅組に関する講話をさせていただく予定である。天誅組の表面的な行動ではなく、彼らの「精神」をお伝えしたいと思っている。皆さん、ぜひ天誅組にご注目ください!