橋下大阪市長のことをアメーバーにたとえたので、石原都知事はどうたとえるかと考えた結論が【傾城手管者】。それは何故かと問われれば。傾城とは色香で国を傾け滅ぼすモノ。手管は人をだます技巧。手練手管と使われる手練も手管も人をだまくらかしてあやつる技のことだ。手練手管は同じ意味を繋げて強調する四字熟語だけれど、広辞苑では手練と手管が微妙に違った説明になっていたので手管の方を採った。
主(あるじ)は民(選挙民)なのが民主主義だ。すると、現代の傾城とは、城主たる人民に対して耳にここちよい言葉を使って身を危うくさせる者だ。何しろ選挙に勝ち、多くの味方を得ている格好なのだから、その言葉の使い方は巧妙だ。
先日、石原氏はある講演の場で『中国を支那と言わなくてはいけない・・・』と呼びかけたというニュースが小さく報じられていた。以前は『三国人発言』などもあったが、彼は使われなくなって久しい言葉を、しかも嫌がられたり政治的歴史的に不適当とされた言葉をわざと使って、世間全般の気を引こうとしているのだろう。
自民党代議士をしている彼の息子が「確信犯だから・・・」と父親の言動を評して言ったことがある。おそらく、どう攻撃されようと自分有利に進むというシミュレーションがあり、自信たっぷりに挑発しているのだ。マスコミはいつだって太鼓持ちをやらされている。そうして主たる民は、その話芸というかシナをつくった流し目に騙されてしまうのだろう。
中国の歴史的事情からの自尊自大的な中華思想に対して、腹立たしくて羨ましくて残念でたまらないという小児的な想いを、自尊心からあからさまに出し続けているのが現都知事だ。先のブログのコメントで橋下氏について書いた『彼が究極的にめざしているのは、日本の総理大臣になり、憲法9条を廃棄し、原潜や原子力空母を持ち、核爆弾を持ち、アジアの警察となり、アメリカと対等になることだ・・・』というのが彼にも当てはまると思う。
橋下氏と同じ考え方などと言ったら失礼かも知れない。石原氏をそっくりまねているのが橋下氏なのだから。パフォーマンスのやり方が少し違うように見えるかも知れないが、本質的には全く同じだ。親子より親子らしい位の似方だ。
面白い劇場劇を観ているような気分で愉しんでいたら、主たる民はとんでもない苦境に立たされることになるのだ。危機感を感じている人も多くいるだろうけれど、マスコミは現象を追うばかりで本質を伝えない。君が代を強制するなどという大人気ない蛮行が平気でまかり通っている。恐ろしいことだ。
主(あるじ)は民(選挙民)なのが民主主義だ。すると、現代の傾城とは、城主たる人民に対して耳にここちよい言葉を使って身を危うくさせる者だ。何しろ選挙に勝ち、多くの味方を得ている格好なのだから、その言葉の使い方は巧妙だ。
先日、石原氏はある講演の場で『中国を支那と言わなくてはいけない・・・』と呼びかけたというニュースが小さく報じられていた。以前は『三国人発言』などもあったが、彼は使われなくなって久しい言葉を、しかも嫌がられたり政治的歴史的に不適当とされた言葉をわざと使って、世間全般の気を引こうとしているのだろう。
自民党代議士をしている彼の息子が「確信犯だから・・・」と父親の言動を評して言ったことがある。おそらく、どう攻撃されようと自分有利に進むというシミュレーションがあり、自信たっぷりに挑発しているのだ。マスコミはいつだって太鼓持ちをやらされている。そうして主たる民は、その話芸というかシナをつくった流し目に騙されてしまうのだろう。
中国の歴史的事情からの自尊自大的な中華思想に対して、腹立たしくて羨ましくて残念でたまらないという小児的な想いを、自尊心からあからさまに出し続けているのが現都知事だ。先のブログのコメントで橋下氏について書いた『彼が究極的にめざしているのは、日本の総理大臣になり、憲法9条を廃棄し、原潜や原子力空母を持ち、核爆弾を持ち、アジアの警察となり、アメリカと対等になることだ・・・』というのが彼にも当てはまると思う。
橋下氏と同じ考え方などと言ったら失礼かも知れない。石原氏をそっくりまねているのが橋下氏なのだから。パフォーマンスのやり方が少し違うように見えるかも知れないが、本質的には全く同じだ。親子より親子らしい位の似方だ。
面白い劇場劇を観ているような気分で愉しんでいたら、主たる民はとんでもない苦境に立たされることになるのだ。危機感を感じている人も多くいるだろうけれど、マスコミは現象を追うばかりで本質を伝えない。君が代を強制するなどという大人気ない蛮行が平気でまかり通っている。恐ろしいことだ。