鳥瞰ニュース

空にいるような軽い気分で・・・

北京開会式のこと

2008年05月30日 20時31分37秒 | 個人的主張など
もう40年以上も前に新潟で国体があった。その年は東京オリンピックもあったから、本来の秋の国体が春に行われ、その春の大会が済んですぐに新潟地震があった。
橋げたがパタパタと落ちてノコギリの歯みたいになり、集合住宅が液状化現象でパタンと倒れた。石油コンビナートでは火災が起り何日間も燃え続けた。新潟県は夏の国体を返上したが、東京オリンピックは支障なく予定通り開催された。

チベットで暴動があり、聖火リレーが人垣リレーになり、四川大地震があっても北京オリンピックは間違いなく開催されるだろう。

中国批判をする評論家を近頃よくテレビで見る。彼らの言うのを聞いていると、まるで中国という名の一人の人間がいるような印象をうける。何もかもいっしょくたの擬人化をして国を語っている人が多い。おそらく彼らは偏見を助長しデマの発生源となっている。

中国国内の若者の間ではインターネットの呼びかけで大きな集団が発生し、大きな力となることがあるようだ。単純化した方向と力のベクトルを作り操るのはどこでもよく行われる政治手法だ。利用されているのだろう。

中国政府が日本政府と手を携え、韓国政府ともインド政府ともベトナム政府とも仲良くしてしまったら、アメリカはすごく困るらしい。アメリカが困ると言うのはそれこそ、変な言い方だ。アメリカの何が困るかと言えば、軍需産業だ。つまりはアメリカの経済にとって都合が悪いということらしい。

だから、なんとしてもアジアが一体となったりしないように、いろんなところで緊張感をつくり、反日感情を煽り、他の反何々運動を煽って、反米感情だけは際立たせないようにしたいらしい。そうでないと武器が売れないから。

戦争は軍需産業を存続させるために起こされる。すべて経済主導。イデオロギーだ、宗教戦争だ、民族紛争だといっても実は経済的必然から発生している。地道な平和活動がなぜぶち壊されるか・・・それは武器を売らなければならないからだ。

そういう風に考えると小さな個人レベルでも喧嘩ほどばかばかしいものはない。誰かが武器を売りつけたがっているんじゃないか? 武装させたがっているんじゃないか・・・と考えてしまうと、もう喧嘩を防ぐためなら何でもしようという気になる。

というわけで、オリンピックは大々的にお祭り騒ぎにしたらいい。国の威信だ面子だなどということはどうだっていいのだ。世界のアスリートが中国に集まることが必要なのだ。世界中からの見物客が中国全土からの見物客と交流して互いを見せ合ったらいい。

中国の人々と世界の人々とがお祭りで交流することが大事なのだ。マスコミも四川大地震での日本の支援隊の活動に対して「日本人に感謝している」なんていうコメントばかりをわざわざ何度も放映したりせずに、又逆に「日本人は嫌いだ」という中国人の若者のコメントをことさら流したりせずに、交流しているところを正直に流したらよい。

北京オリンピックの開会式が行われる時、中国政府関係者は威信を示せた面子を保てたと安堵するだろう。オリンピックビジネスの関係者は莫大な利益確保が計算通りで大喜びするだろう。そんなことはどうだっていい。我々はお祭りが待ち遠しいのだ。敢えて我々と言わせてもらおう。我々は北京オリンピックが待ち遠しい。北京開会式が待ち遠しいのである。

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ヒメダカのこと(その3)

2008年05月29日 17時11分14秒 | 随筆或いはエッセイ

昨日ヒメダカの稚魚を2匹発見した。昨年10匹買ってきて8匹生き残っていたのだが、これで元に戻った。それで今日も観察してみると、稚魚は3匹になっている。そして、親のいる方の水槽にも1匹いたのだ。これはいけない、成魚に食われる恐れがある。成魚と言ったって、せいぜい3センチ余り。稚魚にいたっては、よく見ても目玉二つと丸い腹で2ミリ位、それに細長い尻尾が5ミリ位で全長は1センチ足らずの姿。それでも、自分の親に食われるかも知れず、ひしゃくで何とかすくいあげて兄弟のいる方へ移してやる。これにて合計12匹になったから得した気分。

親たちの方は、と見れば何だか急に大きくなったような気がする。比較する対象ができたからか。近頃毎日のように餌をやっているからか。メダカにあるまじき太り方までしているのがいる。じっと息をこらして見ていると水面近くに浮いてくる。水面の餌を食べるデカヒメを観たら、やはり卵の房をぶら下げている。条件さえ整えば、いくらでも産もうという腹か、それとも危機感か。いずれにしても逞しい。

デジカメを持ち出して構えてみたが、なかなか撮れない。生き物相手は根気が頼り。水槽の縁に手を固定して、ピントも水面に合わせ、じっと待って撮れたのが、この画像。稚魚も撮ろうとしたが、ボーフラと同じ程度のサイズだから、こっちはあきらめた。画像を入れるのは10回に1回位の割りでやってみようと思う。今度は画像にハマルかも知れない。


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ヒメダカのこと(その2)

2008年05月28日 19時11分09秒 | 随筆或いはエッセイ
今月初めにアオミドロで青汁状態になったヒメダカの水槽をきれいにした。その際に仮住まいをさせた小さい水槽でやつらは繁殖行動をしていたので、もしかしたら自然繁殖するのかという期待を持った。仮住まいの方で一週間ほど過ごさせ8匹全員を元にもどした。卵がどこかに産み付けられたとみなして、仮住まいの方の水は捨てずに放置しておいた。

たった20日間でしかないのに、もう両方の水槽はまたまた青汁になってしまった。それでもヒメダカは、色が付いてるだけに水深10cm位までは、うっすらと泳いでいるのがわかる。ときどき素早い動きなんかをして元気そうだから、しばらくはこのままいくつもり。

そして本日、小さい方の水槽の表面に何かがうごめいているのを発見した。ボーフラが湧いたかとメガネをかけてそっと覗いて観ると、姿はボーフラみたいだが動きがボーフラではない。すーいすーいと泳ぐではないか。メダカであった。子供の頃によく手ぬぐいを沈ませて掬った小さい小さいメダカの姿がありました。2匹確認。

我が家で、繁殖はショウジョウバエ、藪蚊に続いてのものではないか? しかも今回は望まれての誕生であるから、これはめでたい。大人のメダカに食われない程度に成長したら、親子対面をさせてやるつもり。しかし近親婚になったらまずいのかな? そんなことを気にしていたらねずみ算式に水槽が必要ではないか。ヒメの姫らしきを愛でながら悩んだりするのである。

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大相撲から『Oh SUMO』が分離独立。

2008年05月27日 11時15分16秒 | 勝手に応援
北の湖理事長が自ら日本相撲協会からの脱退を表明し新組織を立ち上げることを発表した。朝青龍をはじめ外国人力士全員に移籍するよう呼びかける模様。格式とは無縁な格闘技として新しいルールを作りファン獲得と興行の成功をめざす方針とみられる。独立する組織は『Oh SUMO』と名乗り、広く全世界にアピールする予定だという。

勝敗ルールは先の大相撲千秋楽横綱決戦を踏まえ、手足が土俵に付いても負けとはならず、上半身の腕以外の腹背頭などに土が付いて初めて負けとなる。だめ押しは勝つための必要連続技になる。土俵を割ったらやり直し、勝負は文字通り土が付くまでとする。変則技として初めから四つんばいで向っていくファイターも現れるだろうと予想されている。

土俵面積は大相撲の倍以上で、周りには低反撥マットを敷き詰める。にらみ合い(ガン飛ばし)は片方が瞬きしてしまうまで続けるのを黙認し、勝負の前後に『NIRAMECCO』という作法として定着させる。以上のような構想も元理事長は示した。

第52代横綱で相撲解説でおなじみの北の富士勝昭氏は、「実は堅苦しくて堪らなかったのだが、ようやくこれで自分も格式から解放される」と『Oh SUMO』の顧問を引き受けることを快諾した。竹刀を持たないと親方の威厳を示せない親方衆はこぞって追随する様子をみせている。

注目の高砂親方と朝青龍は、電卓を持って話をしているのを目撃された。群るマスコミ記者には相変わらずぶっきらぼうな投げやり発言をしているが、各方面に連絡をとって、どの道が一番得か検討している模様だ。

横綱審議委員会各氏の去就も注目されるが、内館氏は『Oh SUMO』では「女でも土俵に上れるのなら行司をしてみたい」などと発言し、双方から首を傾げられている。さらに「男女混合のタッグマッチもあるなら奇麗なコスチュームで出てみたい」などとも語ったと伝えられている。

*************************************

以上のような白昼夢をみた。大相撲が横綱の品格だケンカ両成敗だと色々言われている。「相撲はおもしろけりゃいいんじゃないの?」とニュース番組司会の小倉智昭氏が言っていた。そういう見方からすれば、せっかくの『あわや殴り合い』だったのに・・・乱闘すりゃよかったのに・・てなものだ。ここ一番あわやはやはり泡と消え。

横綱だ最高位だといっても、今の横綱は全くの悪ガキに見える。計算された演出なんだろうか。NHKのアナウンサーがちやほやとおだて上げ、関係者一同で創り上げたガキ大将なのではないか。しかし私は〔礼に始まり礼に終わる〕というような相撲道を云々するつもりはない。

ただ勝負の見切りについてはどうしても言いたい。見切りの見事さを感じるのは、今の力士なら高見盛だ。彼は勝負が決まったか決まらぬかにスッと力を抜く。相手が土俵から落ちるのをかばって手を差し伸べる。貴乃花がそうだった。モンゴルの人でも安馬はいい。昔はほとんど皆がそうだった。それが美しかったのだ。そして場合によってはその場で会釈したりして・・・良かった。

だめ押しを防ぐ意味でも、勝敗が決まったあと握手させるとか、抱き合ってハグさせるようにしたらどうだろう。異形の肉体が土俵上で健闘を讃えあってのハグハグなんて微笑ましくていい光景ではないか・・・と思うのである。

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自作 詩のようなもの(その1)

2008年05月26日 22時12分29秒 | 言葉の世界
とんび(のように)

姿も色も美しくないから
ふわふわと生きながらえたのだろう
やむを得ず残り物や腐りモノを食すうち
なりは大きくなった
狩りがへただから侮られ
鴉(からす)にはいつもつきまとわれ
鳧(けり)にも鶺鴒(せきれい)にさえも追いかけられ
逃げる時だけ少し羽ばたいて
あとは尾羽の撥さばきだけで滑って逃げる
鴉がゴミ袋を狙って破く
残飯が晒されるのを滑空待機して
さっと横取り引っかけてかっさらう
掴み損ねたり
逃げ去るときに落したり
相変わらずのへた振りだけれど
鴉や鴎(かもめ)に追いかけられても
飛びながら食う
横取りも慣れてきて
近ごろは弁当広げる人の手元からさえ
掠めとるのです
何となく何羽かで帆翔したり
何となく何十羽もで樹に止ったり
何となく地べたに佇んだり
孤高が似合わないから
いつだって何となくだ
離陸するには
ばっさばっさと
苦手の羽ばたき数回
ようやっと風を掴まえる
上昇気流が拠り所の程よい風が頼みだ
目的も目標も忘れて
空高く
何故か空高く
迂闊に舞いながら
啼くときも
泣くときも
お戯けとしか聞えない
ぴーひょろろ

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頭痛の切り替えスイッチ

2008年05月25日 11時43分56秒 | 健康ネタ
頭痛はなぜ起きるか、どうしたら防げるか、治せるか、を知りたくて健康番組を見たり新聞の特集を読んだりしてきたが、どうも自分にぴたりと当てはまるのがない。

私はかなりの頭痛持ちだ。以前は定期的といっていいほど頻繁に痛くなり、薬をそのたびに飲んでいた。ところが以前にも書いたダイエット野菜スープを摂り始めてから、もう頭痛とは縁が切れたかと思うほどだったのだが、つい先日また2日間頭痛を経験した。

ちょっと寒い思いをして鼻づまりがしてくる。すると鼻の奥がツーンとした感じがあり、肩と首筋に凝りを感じる。朝の通じはイマイチで残便感があり、拳を握ってむくみを感じる。寝不足気味で耳鳴りがする。胸にザワザワとした感じを覚え、不整脈が頻繁になってきて、ヤル気が起きなくなる。以上の症状がいくつか重なると集中力がなくなり鬱々とした感じになって頭痛のスイッチが入るのだ。

スイッチがどこで入ったのか、その瞬間はわからない。頭が重いなと感じてブルブルッと頭を振ってみると、頭痛になっているのがわかる。痛くて堪らないという頭痛ではなくて、床に置いてある物を取ろうとしゃがむとズキン、頭を振るとズキン、そしていつも鈍くズーンという感じだ。たいてい2~3日持続する。

これらのどれが決定的な前兆なのかが、どうしてもわからない。全部が複合的な前兆なのかどうかもわからない。原因は寒さや疲れか、精神的ストレスか、暴飲暴食かなどと省みて考えてはみるのだが、どうもストレートに繫がらないのだ。

以前は市販の薬を飲んでいたが、それも肝臓をいためてから止めた。薬が原因での肝炎を疑われたからだ。若い時分の二日酔いでは、頭痛と同時に眼球を握られるような目の痛みを感じたものだった。今は二日酔いするほど飲むことはなくなったのに、同様の頭痛を飲酒に関係なく感じることもある。

どうしたら治るかと色んなことを試してみた。迎え酒みたいに酒を飲んでみても一向に治らない。これは先ずもってアルコールがおいしくない。悪くなることはあっても治ることはない。風呂に入ってみるのも何度か試した。ぬるい風呂に長時間入ったり、熱い湯にさっと入ったり・・・これも駄目。

もしかして血が粘着質になっていてどこかで詰まり気味かと、後手後手の納豆摂取やら、ポリフェノール摂取やらもやってみたが駄目。むくみ気味のことが多いから汗を流そうと運動しても治らない。逆に水分補給が必要かとスポーツ飲料の大量摂取をしても治らない。

結局はしんどいから、仕事だけはこなすもののゴロゴロとして身体を休め、もしかして食べ物の摂り過ぎかも知れないと節食しようと思いはするのだが、腹は割合一人前に空くからつい食べてしまう。確実に絶食で治ると誰かが説得力ある言葉で言ってくれたら確かめもするが、そうじゃなかったら、やれるもんじゃない。

布団に寝て治すしかないと眠ろうとしても、鈍い頭の痛さがあるから熟睡はできない。実際はかなり眠っているのだろうけれど、ずーっと眠れなかったような、変な夢を見続けた感じがして不快が続く。

ところが、あるとき前触れなく突然切り替えスイッチが作動して、本当に嘘のように頭痛が治る。その瞬間がわかるわけではないが『スイッチが切り替わった』という感じがするのだ。はたと気づいたら治っているのだから、その切り替えは過去1分以内だった位の感覚だ。

若い時に読んだ、T.ウィリアムスの《焼けたトタン屋根の上の猫》の主人公はアルコール依存症で、いつもアルコールを飲んでは、頭の中でカチッという音がしてスイッチが入る瞬間を待っていた。あの気持ちが実感としてすごくよくわかる。

文章表現では、頭や胸がスカッとすることを『靄が晴れる』『霧が晴れる』などと気象に喩えて表現されることが多いけれど、私の頭痛からの脱出はスイッチが一番ピタリとくる。

歯痛の辛さに、自分の虫歯をピストルで撃った男がいたという話を読んだか聞いたことがある。私とて、しんどい時には、それと同じ位の陰惨なイメージを浮かべる。

スイッチが入るのを防ぐ方法は結局のところまだ判らない。そして入ってしまったスイッチを切り替える方法も判らない。何となくやっている対症方法の中に、しっかりあるのかも知れない。

痛みの感じ方は千差万別らしいから、対症方も千差万別なのだろう。この持病は自分で見極めるしかないと思っている。『痛みはもうゴチソウサン!』という位味わったつもりだが、何とか極めたい。頭痛道。

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若者の車離れとビール離れ

2008年05月24日 00時37分59秒 | 個人的主張など
日本の若者が車を買わない、ビールを飲まないという傾向がでてきたそうだ。メーカーは嗜好を分析したりして対策を考えているらしい。

対策なんて簡単なことではないか! 日本のトップ企業なのだから、他の様々な職種の企業に率先して、従業員の給与を上げ、期間工、臨時工、派遣労働者、契約社員などの正規雇用化を図り、将来の不安要因を失くすよう努めることだ。

海外に生産拠点を移したり、日産のゴーン氏のようなリストラや大合理化の締め付けをするのではなく、日本的な『人は石垣、人は城』という人間重視の組織論に戻したらよいだけのこと。

日産のゴーン氏といえば、日産の役員達の報酬は日本の他企業に比べると破格の高額だそうだ。どうしようもない赤字体質を改善して、復活した今の日産があるのだから当然という考え方のようだが不思議な人間がいるものだ。

新車を買うとして、幾ら位が役員報酬になるのだろう?そして幾ら位が宣伝費か・・・などと考えると、とてもじゃないが買う気にはならない。企業の社会的責任などという理念は建前では語るかも知れないが、本音は企業エゴの私利私欲でしかないだろう。

また、物言う株主とか言われるファンドが企業を操ろうともしている。原油の高騰を始めマネーゲームの渦中にいや応無く生活の基本部分が投げ込まれ、庶民はただただ振り回されている。

若者の嗜好に合うような企画だとかデザインだとかの姑息な手段を取らずに、底辺の目線で根本的な人間的な生活を思い浮かべるだけで結論はこれしかないと判ることだ。それなのにマスコミも本質的なところを見過ごしているのか隠しているのか、何故かあまり意味のないデータを示したり分析したりで訳がわからない。

若者が車を離れビールを飲まず、せっせと携帯メールやインターネットで情報交換をしている。実にリアルな映像のゲームで未来への不安をごまかし、或いはシミュレーションしている。凶悪犯罪が増えるのは当たり前ではないか。

何かがきっかけで、大きなうねりが起きるかも知れない。そういう気配は今のところ感じないけれど、何が始まってもおかしくない時代になっているのだろう。未来は若者に握られている。たぶん。

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雀をなんとなく見ながら時間つぶし

2008年05月23日 02時15分26秒 | 随筆或いはエッセイ
約束のモノを指定された時間に引き取りに行ったのに、ある行き違いから1時間以上待たなければいけないことになって、何となく目に止まった雀を見ながら時間つぶしをした。

ついこの前まで土手で自生する菜の花が黄色い帯を創っていたのに、花の後の青い鞘がもう枯れ葉色になっているものもある。種は濃い紫に成熟すると鞘が割れて零れ落ちる。

雀が二羽、菜の枯れ立ちの中で飛び跳ねたり啄ばんだりしていた。スマートな方は動き素早く餌摂りに余念がない。これに追いついては羽根をふくらませ、小刻みに震わせて餌をねだっているのがたぶん雛。一羽しか育たなかったのか、それとも一人前のなりをして自立できない最後の雛がまとわり付いているのか。

屋根の上ではこれまた二羽の雀。片方がもう片方に、ちょんちょんと近づいて行って背中に跳び乗った。いきなり交尾か。上はパタパタ羽ばたいてバランスを取っている。下はしゃがんでされるまま。尾羽で尾羽をかき分けて、いやいやかき分けてはいない。右からどけて何とか摺り合せることができたかどうか。

降りてはまた繰り返す。およそ3秒3秒インターバルか。雀によって右利きと左利きがあるのだろうか。今まで観た記憶をたどってみても右利きしかいないような気がする。住む国によって違っていたりしたら面白い。日本は右が多くて、中国ロシアは左だったが右も多くなってきた・・とか。

鳥の交尾は凸凹がはまるのではなく単にこすり合わせるだけらしい。だからあんな無理な体勢の一瞬でいいのだろう。二羽は5~6回繰り返して、一羽がパッと飛び立った。行ったのはオスだな、照れたんだろうか。すぐ後に、はたと我に返ったメスが後を追う。『待ってよ』てなもんだ。

しばらくして、道を隔てた隣の家の一階の窓ひさしに一羽飛んできた。雨戸シャッターの隙間から中にもぐりこんだ。とんでもないところに巣を作ったものだ。もう一羽飛んできたのだが、ワラ屑のようなモノをくわえている。間違いなく巣作りをしている。

開かずのシャッターならぬ、降ろすことのないシャッターならいいけれど。巣作り途中ならまだしも、巣が完成して産卵後に住人がシャッターを降ろしでもしたらまずい。『あれ、何か引っ掛かって降りないぞ、エイ!エイ!』なんて無理矢理降ろそうとするのだろう。それが孵化後だったりしたら、などと想像するとちょっとおぞましい。

それぞれ別々に見た雀のペアは、時間差があっただけで同一のペアだったのかも知れない。何しろ時間つぶしの、たまたま一人野外観察会だったので双眼鏡も持っていないし漫然と観ていただけだが、雀の繁殖は今盛りなりと実感。雀と鳩はいつだって繁殖中かも知れないなどとも想う、これが本日思いがけない余禄の時間つぶし。

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相撲は美を求める(相撲を観つつ思うこと:その3)

2008年05月20日 13時47分00秒 | 勝手に応援
【相撲協会は19日、ロシア出身の幕内若ノ鵬(19)=間垣部屋=に厳重注意をした。前日、安馬に敗れた怒りから国技館の風呂場で暴れて棚を壊すなどしていた。
素行のよろしくない外国出身力士は、協会にとって悩みのタネだ。
「横綱の品格」を問われた朝青龍、写真記者に暴行した露鵬、Tシャツ姿で出歩いた繁華街で通行人と小競り合いになった把瑠都、禁を破って車を運転し人身事故を起こした旭天鵬……。枚挙にいとまがない。
相撲は「スポーツ」と「伝統芸能」が融合した日本独自の文化だ。
「強さ」とともに相撲の本分をどう指導するか。国際化の進む土俵の整備は、「非暴力」とともに急務の課題だ。(吉田純哉) (asahi.comより抜粋)】

>相撲は「スポーツ」と「伝統芸能」が融合した日本独自の文化だ。
と言うが、それを二つに分裂させるべき時期に来ているのだと思われる。つまり『格闘技スポーツ相撲』と『伝統芸能相撲道』とに分けるべきなのだろう。

大相撲に対する深い知識と理解が私にあるわけではない。ただ普通のファンとしての直感からの意見だが、外国人力士総てに伝統芸能としての相撲を押し付けるのは無理があると思うのだ。

朝青龍にとって相撲は格闘技ビジネスでしかない。勝ちさえすればよく儲かりさえすればよい賞金勝負だ。儲からなくなって引退となっても、親方になるとか部屋を興すなどは先ず考えられない。モンゴルに帰ってビジネスにいそしむ手筈は整っているようだ。彼にとっての『溜め』はマネーだ。

元横綱の曙が格闘技に転じて面白さを提供しているように、朝青龍を筆頭にして露鵬、安馬、把瑠都、黒海、若ノ鵬などは『格闘技スポーツ相撲』になれば、大人気を博すだろう。日本人力士の中でも千代大海、稀勢里、雅山などはこちら向きだ。

相撲の美しさは、何といっても異形の体だ。ミスターコンテストやギリシャ彫刻などの鍛え上げられた筋肉美はあからさまな力の誇示だが、相撲取りの体は筋肉を内に覆い隠している『溜め』の美なのだ。

芸能として奉納されるのも頷けるというものだ。技の上手さ強さに身体の美しさ品のよさを上げるなら、もう一番に大鵬だ。あまりに強かったから、負けた時の方が嬉しかったけれど、あの美しさは比類ない。ロシア人の血が混じっているということだったが、全くそんなことは気にもならなかった。

柏・鵬時代などと言われ、ハワイ巡業だかの土産に当の横綱の二人がピストルを持ち帰り、『こりゃまずい』と気づいて川に捨てたという事件があった。川が浚えられピストルも見つかって、二人は大目玉を食った。こんなお茶目な一面もあったけれど。

あの当時の大関で豊山という観音像のような表情をした力士がいた。所作といい品の良さといい美しさといい、忘れられない。彼は時津風部屋を継ぎ年寄も定年になって、完全引退した。その部屋でついこのまえ時太山のリンチ暴行死事件が起きたのは誠に皮肉というか残念だった。

今の相撲取りに対して個人的な好みで言うなら、大関の琴欧州がすべてにおいて美しい。出島の真っ白い餅肌も好きだが、もう少し体が大きくて大関から落ちることがなかったら良かったのにと思う。安美錦も好きだ。彼には取りこぼしのない急激な進歩を期待している。

白鳳が歴代の横綱をビデオで研究しているそうだ。技もさることながら、美しさ品のよさを身につけようとしているのだろう。技は今場所を見るかぎり充実して隙がなく十分な横綱相撲だ。まだ、態度と表情に『溜め』の美しさが備わっていない。期待できない気もするけれど、少し期待してみようという気になってきた。

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車の運転とエゴ(エゴイズム,エゴセントリック)

2008年05月19日 17時54分48秒 | 個人的主張など
【交通標語のピカイチ『左小回り、右大回り』】の中で、我が物顔の横着運転も、それに腹を立てるのも同じくエゴということなのだろうと書いた。何だか説明不足の気がするので、思うところを書いてみたい。

なぜ我が物顔の横着運転に腹を立てるのもエゴセントリック(利己的な、自己中心の人)か。それは車があるべき姿を自分の中で想定していて、自分の思惑から外れた車(運転手含む)に対して腹を立てるということだからだ。

車はものすごく恐ろしい道具であるにもかかわらず、安全装置が全く装備されないまま走り回っている。そのことを十分認識できていないということでもあるからだ。車の事故が何故起きるかを安全装置から考えてみよう。

居眠り運転事故:居眠り感知警告装置が装備されていない。
よそ見運転事故:運転手の目が前方を見ていないことを警告する安全装置が付いていない。
ドライバー気絶による事故:よそ見警告後に緊急急停車するような装置がない。
スピード出しすぎ事故:スピード制限表示と車とが反応する装置が創られていない。
車同士事故:車を認識し、相手のスピードを察知して自動制御する装置が付いていない。
対人事故:人が当ったと同時に人をはね飛ばさずに抱きとめるような装置ができていない。
車自体の不具合事故:足回り(タイヤ脱落防止)などの自己点検センサー装置がない。

よくもまぁ安全装置を研究開発しないままで来たものだなぁ、と多くの人が思っているのではないだろうか?なぜ世界のどこかで上記の装置がどんどん開発されて一般化する動きなどが起きないのだろう。研究はされているのだろうが、それを開発普及させる行政監督能力がないのだろう。

世界中でどれだけの人が交通事故で毎年死んだり怪我したりの大損害を受けていることか。戦争被害どころではないだろう。大損害のはずだが、車を性能よく作って便利さを売る方に世界はまだ夢中なのだろう。利害がそちらにしか向いていないということだ。

安全装置の無い無い尽くしで車は走っているのだ。しかも「ハンドルを握ると人格が変わる」と言われるように、運転席に座ると何故か全能感のようなものを感じてしまう人が多い。車を信用してはいけない。車はみな凶器であり狂気をはらんでいるとみておいた方が良い。

スピードも思いのままに出せる。一つ間違えばどんな自己だって演出できる。どんな自己と書いた。これは実は事故の変換間違いなのだが、事故をも演出できる自己とも言える。一台一台の車はそんな状態で走っているということを皆がきちんと認識すべきだ。

以上から言える結論。
今の世のなかで生き抜くためには、車に腹を立ててはいけない。
制御装置のない凶器である車を上手によけて自分を守らなければならない。

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相撲は『溜め』が命である(相撲を観つつ思うこと:その2)

2008年05月18日 10時36分17秒 | 勝手に応援
大相撲を観ていて、つい首をかしげてしまうことがかなりある。何だか安っぽいのである。何だか総てが見え見えのような気がするのだ。それは相撲取りが感情をあらわに表現するようになったからだと思われる。

仕切り;昔の相撲取りは皆無表情だった。仕切りをする間もただ淡々と儀礼的な同じ動作をこなしていた。でもその動作の間に段々顔が紅潮してきて、体にも汗がふきだしてくる。力が漲ってくるというのか、充電完了の感じが伝わってきて観る方も一緒に気分が高ぶってくる。ところが近頃は闘争心丸出しの表情をもろに出す力士が多いからこちらは見学するだけで気持ちがシンクロすることもなく、何だか相撲に参加できない。

動作;土俵に上ってからの一連の動作のしきたりや意味は知らない。普通のちょっと相撲好きという立場からの感想でしかないのだが、パフォーマンスがやたらに多くなってきたように思う。テレビがそれを望み、観客がそれを喜ぶように思うからだろうか。私は白けるばかりだ。準備運動としての動作に違和感を感じることはないのだが、観客を意識したパフォーマンスに嫌らしさを感じてしまうのだ。昔も若秩父という、塩をてんこ盛りに持って高く撒く人気者がいたが彼には違和感がなかった。そして現代の高見盛も実は好きだ。あれは観客に対するパフォーマンスというより、自己暗示の就眠儀式のようなものに思えるから。

睨み合い;昔の睨み合いは淡々とした準備運動としての仕切り中に、ほんの一瞬目を合わせることもあって、『おっ』と思わせたりするというようなものだった。ところが、今は時間前の見合って立ち上がった時に闘志剥き出しの睨み合いをする場合がある。睨み合いというより、ガンを飛ばすという感じで品のないこと甚だしい。

勝負後;がむしゃら丸出しで勝負が決まってからも駄目押しをしてしまう力士が多く観られるようになった。負かした相手の不様なすがたを『ざまぁみろ!』と見下ろして助け起こそうともしない。手を貸すにしても『早く勝ち名乗りを受けて懸賞金貰いたいんだから、立ち去れよ』という顔つきで押しやり、礼もなにも無く実に大人気ない。

インタビュー;昔に比べたら相撲取りはとてもおしゃべりになった。昔の力士は『はい』と『そうですね』くらいしかインタビューでは言わなかった。あとは、荒い息だけをマイクに吹き付けていた。それをアナウンサーが困ったようにフォローするのを見たり聞いたりするのが面白かったものだ。今は自分で分析したり、反省したり、意気込みを示したりする力士が現れて、こちらの想像力を働かせる余地が少なくなってつまらない。

相撲は溜めなのである。腹いっぱいチャンコを食ってエネルギーを溜め込み、辛い稽古で力を溜め込み、太った顔と体に闘志を溜め込み、喜怒哀楽をも内部に溜め込み、一瞬の力技で勝負する以外はすべてを溜め込んで大きな体を静かに保ち、穏やかに寡黙。それに観客は見惚れて感嘆し拍手するのだ。相撲は『溜め』が命である。何故今のような軽薄な大相撲になってしまったのか。調べたりはしないで全くの個人的直感的意見を次回書いて見たい。
(つづく)

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相撲はベクトルである(相撲を観つつ思うこと:その1)

2008年05月17日 08時42分49秒 | 勝手に応援
相撲をテレビで観ていて、好きな相撲取りに『何であんなにもコロコロ転がされるかなぁ・・』と思ったり、勝てばその勝ち方を反芻して分析して『体の使い方が上手かった、技を覚えたな・・』などと思ったりする。

技の分析を自分なりにやってみると、技は結局ベクトルの応用なのだな・・と思い『相撲はベクトルである』という結論になる。となれば、力と技を競うスポーツはすべてそうだということになるが、相撲が一番分かりやすい。

『いなす』という言葉が相撲の解説ではよく使われる。向ってくる力をよけて外したり、横から違う力をあてがって、相手の目標を逸らすことだ。ベクトルの矢印(→)から逃げることだから、あまり露骨にやると好かれない。

『おっつけ』という言葉もよく使われる。マワシを取られないように相手の二の腕を自分の脇に押し付けることだ。私の認識では、大鵬が解説をやるようになって、急におっつけという言葉が出てきたような気がする。ぐぐってみると大鵬の得意技だったらしい。思うに、大鵬が使い始めたのでは? 大鵬の言い回し(方言)が一般化したのではないかな? これは向ってくるベクトルを封じ込める技だ。

『はたき』は一番わかりやすいベクトルの合成だ。突っ込んでくる相手の力に、上からの力を加えてやると、立っていられないベクトルになってしまい、パタリと手をついたり転がったりするわけだ。『素首落とし』なんて物騒な技もある。

相撲取りの身体は丸い胴体に腕と足が生えていて、その手足で技を繰り出しているのだが、もう一つの出っ張りの頭を使うことは余り無いような気がする。頭を低くして相手の身体につけることはあっても、なぜかせっかくの出っ張りを有効に使っていないのではないかと思われる。

そこで首を補助的にではあるが最大限有効に使っての新ベクトル利用技を提案したい。実験はしていないのだが、頭の中だけのシミュレーションではバッチリだ。イメージを説明しよう。

両腕はしっかりと相手の技を封じ込めるのに使い、相手がそちらに気が行ってる状態で、自分の首から上全体を相手の肩あたりにあてがい、思いっきりの上からの力を加えながら身体を引く。そうすると、相手は立っていられないベクトルになって落ちるという寸法。

顔全体を相手の身体にあてがうのを嫌がってはこの技は使えない。自分の顔の汗をぬぐう要領と言うのか、鼻汁をダイレクトになすりつける要領とでも言おうか。顎を押し付けておいて、顎から額まで相手の身体でずるっとぬぐう感じ。首の長い力士ほど技は会得しやすいかも知れない。名付けて『洟水ぬぐい落とし』。

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交通標語のピカイチ『左小回り右大回り』

2008年05月14日 22時29分12秒 | 随筆或いはエッセイ
標語を大雑把に分類すれば、脅し型、諭し型、啓蒙型、号令型、ユーモア型、ギャグ型などに分けることができるだろう。人口に膾炙した多くの標語を昔のものから現代のものまで集めて、分類をしたら何かしら見えてくるものがあるかも知れない。私はそんなことをやる力も根気もないけれど。

子供の時、小学校で標語を作らされたことがある。それが何とどぶろく造りを戒める標語なのだ。昔の教師や教育委員会は何を考えていたのだろう。どうも理解できない。戦争の時期の勤労奉仕のような感覚や体制翼賛的な体質がそのまま残っていたのだろう。

そのドブロク禁止標語だが、私はついついギャグに走る傾向があって上手くは創れなかった。『どぶろくを造って見つかればブタバコだ』とか何とか書いて出したことをうっすら覚えている。何のコンクールでもいつも特選やら金賞やら貰うデキのよい同級生がいたけれど、私は良くてせいぜい入選、銅賞あたりだった。どぶろくの標語は選外だった。

いつもの事だが前置き段階で横道にそれた。交通標語に思うことを書くつもり。『お土産は無事故でいいのお父さん』だ。しかし前記の何々型に分類されるようなものではなく事務的実質一本槍の標語『左小回り右大回り』のことを書くのだった。

免許更新時の講習で、天下りに違いないおしゃべりのおっさんの話を漫然と聞いていたのだが、この標語解説だけが成る程と納得した。左折するときは、スピードを緩めにハンドルは速く回して小さい円で曲るべし。そして右折するときは交差点の真ん中の点を踏まないように大外を小さな円でできるだけ直角に曲るべし、ということなのだ。

想い描いて欲しい。小さな交差点で左折しようとしているときに、左から来た車が横着な曲り方で自分の方にに突っ込んできたときのこと。そしてもうひとつ、あまりブレーキを効かさないで左折しようとして曲り方が甘く大回りになってしまい、折しも前方から車が来てるのに気づいたときのこと。

自分だけが守っていても、事故が起きるときは起きるものだろうけれど、『左小回り右大回り』を心掛けていると確実に『ヒヤリハット』が少なくなる。ルールとすれば単に、曲るときにもキープレフトを守ろうということでしかない。

自分がこのルールを守っていると、そうしない人間に腹が立つ。とくに自分の住んでいる所で、そういうドライバーを見ると教育的指導をしたくなる。高級車なんかで交差点をショートカットで突っ込んでくる女性を見るとこれも又ムカついてしまうのである。運転していて腹を立てるのは非常に危険だ。我が物顔の横着運転も、それに腹を立てるのも同じくエゴということなのだろう。車は運転手の人格を変える魔物なのだから。

当れば簡単に人が死んでしまう車の運転はあらゆる危険予知のシミュレーションと瞬間的想像力が必要だ。年寄りや子供を見たら、その不規則不可解な行動を予知する必要がある。他の車も、自分と同じように動くとみなすほど危険なことはない。

私は車を運転して移動しなければ仕事にならないので、交通ルールはかなり神経質に守っている。スピード違反などは引っ掛かったことがないし免停などなったことがない。交通規則のコンプライアンスは生活を維持する上の基本だ。でもゴールド免許には縁がない。周りにもいない。大体ゴールド免許というものを見たことすらない。何かしら皆さんやってしまうわけである。五年も無違反なんて、なかなかに難しい。

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しゃべり方観察(その10)

2008年05月12日 22時00分45秒 | 言葉の世界
うなりしゃべり、がなりしゃべり、ねこなでしゃべり、おねがいしゃべり、したりしゃべり
こごとしゃべり、ぱずるしゃべり、はきすてしゃべり、のうがきしゃべり、てんびんしゃべり

《てんびんしゃべり》
てんびんときたらバランスだ。反対のための反対と言うのか、まず反対ありきという話しかたを、てんびんしゃべりと名付けたい。

相手の意見を否定して反対意見を述べることにのみ異常な熱意を持っているのではないかと疑わしい人がいる。必ず否定されることがわかっていると話す気力も失せて意気消沈してしまう。そういう相手にはオリジナルの意見など言っても空しいだけだ。

年上である場合は否定の仕方が強圧的であったり、やんわり諭す抱き込み調であったりする。年下の場合は、とにかく自分を対等に押し上げようと背伸びの突っ張りだ。

ところが普段から何でも反対ばかりのてんびんしゃべり人が、こちらの意見を持ち上げて同調してきたりすると、今までに対する憤懣も吹き飛んで『いいヒトだな』なんて思ってしまう。意識的なのかどうか、心を操られているような気もして策士か?などと思ったりもする。

意見交換の話し合いの場合、相手の意見を十分理解したことを示して尊重しつつ、自分の意見をあとから展開していくのが一般的だ。しかし相手にインパクトを与えるためには、先ず否定して正反対から責めるディベートのようなやり方が効果的なのだろう。

どの話題でもどんな課題にも必ずその手を使うのに、落としどころの妥協点ではヘラヘラとして自分というものがなくなってしまうヒトがいる。てんびんしゃべりは、ここぞというときだけ首尾一貫で決めたい。覚悟も必要てんびんしゃべり。
(この項 おわり)

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食を提供するということ

2008年05月11日 17時43分07秒 | 随筆或いはエッセイ
食に関する偽装問題が相変わらず続いている。隠し事体質は根強くはびこっているのだが、それを告発するのも一つの時代の流れに乗ってさかんになっているようだ。

比内鶏の偽装。比内鶏ではない鶏のしかも廃鶏を使っていたという。その方が比内鶏の燻製よりもおいしいというのだ。技術が優れているのか、一つの発見だったのか、大変なECOだ!すばらしいではないか!と思った。豚肉とか牛肉を鶏肉だと偽ったわけではなくて、同じ鶏肉ですから・・・と社長が言い訳をしていたが、技術と味に自信があったからこその言葉だ。五十歩百歩、目糞鼻糞、うそぶき加減がチャーミングだ。(だって、比内鶏よりおいしい肉だったんだから値打ちはありますよ! 原価は安いけど・・・)という内心の声が聞えた。

ミートホープの社長のあの言葉も忘れられない。「昔の肉屋がやってたようなことをやってしまって・・・」と言っていた。大きな食品会社に卸していたのだからプロの目と舌を見事だましていた訳だ。大変な技術なのではないかと思った。その技術を前面に出して、正直に商売する方向に転換していたら、名に恥じない食肉業界のホープになれたかも知れないのに惜しいことをしたものだ。もしかしたら特許も取れた技術なのではなかったか。この人の内心の声も聞えるようだ。(腕に溺れた! 深みにはまる前に引き返したらよかったな・・・)

ブランド物の高価な食べ物飲み物と似た味の安いモノとの正体を伏せて芸能人に当てさせるというテレビ番組があった。必ず意外にも間違う人がいて、結局グルメだ夢を売る商売だのと言っていても味音痴だったり半可通だったりするんだと、視聴者が溜飲を下げるということを目指した番組だったのだろう。主眼はブランドものに匹敵する味の安物があると紹介する番組であればいいのだが、テレビとブランドは切っても切れぬ縁だから無理なのだろう。ブランドモノをバッシングする格好になったら民放のテレビ番組が成り立たない・・か。

赤福餅の賞味期限偽装についても、あの技術はたいしたものなのではないかと思った。冷凍保存して解凍しても造りたてと変わらない味を保っていたのだ。味だけではなく食感とか、成分変化などもなかったのだろう。密かに工夫した大変な技術だったのではないか? 偽装が目的で進歩した技術も、埋もれさせては、それこそもったいない。

大量に砂糖の入っているアンコは保存食品だ。二つの材料でできていたら当然傷みが早い方の期限が来たら処分しなくてはならない。そこで昔から饅頭屋は売れ残った饅頭のアンコは分離して再利用するのが当たり前なのだという事を物知りの人から聞いた。見込み違いの売れ残りを失くす工夫はないのだろうか? 結局一番安易な使い回しや偽装で留まってしまうのはあまりに芸がない。デパ地下やスーパーの閉店前のように、割引の投売りをしたら良いではないか? 自慢じゃないが我が家は刺身も寿司も半額の時間帯にしか買わない。

我が家では一度、クエ鍋セットというのをプレゼントされたことがある。一生に一度しか食べられない幻の魚クエとて有難くおいしく頂いた。その後、アブラボウズという魚をクエとして大量に売っていたという業者が告発された。アブラボウズとは何とも食えない名前ではないか? あ~ぁアブラボウズをクエといっぱい食わされた。

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