鳥瞰ニュース

空にいるような軽い気分で・・・

ようおまいり

2024年07月06日 06時53分06秒 | 言葉の世界






三室戸寺参道の緩い坂道を上がり、さて、この石段を頑張れば本堂へ、となる登り口に石碑があった。
読みにくくなっていたけれど、すぐに判ったのは、関西に住んで半世紀経っているからか。
『おこしやす』は京都の店でよく言われるけれど、『ようおこし』のこともある。
『ようおまいり』は、『ようこそお参り下さいました』ということなのに、『良くよくお参りしなさいね』という押し付けかと思ったりする。
対面でのことなら言い方や仕草や表情で、たぶんニュアンスは微妙に違うのだろう。
この石碑はいつ造られたものか、『ようおまいり』と彫らせる意図や状況を想像しようにも、どうもよく分からない。
寺に参るのは徳を積むことだという。
『ようおまいり』に対して、『はて?』などと首を傾げる時点で、もう徳を積むことはできないと思わないではない。
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読まされてしまう・・・その③

2023年02月25日 09時29分00秒 | 言葉の世界


『みんないきいき標語 大丈夫? 優しい心 スイッチオン 2019 R1 ハートフルぷらん』
R1とはなんだろうと、検索してみても、ピン芸コンクールとか明治ヨーグルトでもないだろうし、すぐには分らなかった。
などと書いていたら、あーもしかして2019年は令和元年か、と気づいた。
「ハートフル」って何だろう、心優しいというような意味だろうけど、と思って辞書を引いてみた。
CASIOのジーニアス英和辞典ではでてこないので、ネット検索してみたら、和製英語なんだそうだ。
辞書を引き直して比較検討してみると、英語ならheart warming(心暖まる、喜ばしい)が正しい。
今どきの小学生はこういうのを読まされてしまう訳ね。
「ハートフルぷらん」じゃなくて「はあとふるプラン」にしたら良かろうに、などと散歩じじいは思う。
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読まされてしまう・・・その②

2023年02月23日 07時56分56秒 | 言葉の世界


『和顔愛語』
「わげん」で変換すると「和顔」がちゃんとでてくる。
検索してみると、『和顔愛語』は無量寿経にある言葉だそうで、浄土真宗本願寺派の仏教豆辞典のその項には『仏頂面はいけませんよ』と最初にある。
ところで『仏頂面』の本来の意味は何かと、CASIOの広辞苑を調べてみると、(仏頂尊の恐ろしい相にたとえた語という)とある。
それなら『仏頂尊』とはなんぞやとなれば、(仏の頭頂に宿る広大無辺の功徳を仏格化した尊)とある。
すると、無愛想で不機嫌な、いわゆる仏頂面をすることのできるのは、広大無辺な功徳を与えることのできる尊だけなのであるからして、凡夫凡婦は和顔愛語をもって人と接すべし、という事ですね!?
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読まされてしまう その①

2023年02月22日 08時23分08秒 | 言葉の世界


歩行中はひとつの考えが堂々巡りをしていたり、意識的に歩幅や速さをトレーニングに似せたり、行く先だけを漫然と思っていたりといろいろだ。
ブログネタが無いので散歩さえすれば何か見つかるだろうと、ほぼ挙動不審者になっていることもある。
そんな散歩中に目で見つけた言葉。

『世の中に 最も度し難いものは 他人ではない この私』
『この私』は誰なのだろう、この文章を書いた人の署名がなかったけれど、私によく似た人が書いたに違いない。
皆が皆、そのように思い始めて、うつむき、内省的内向的懐疑的自嘲自制をする世界も観てみたい。
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読んだ本と読んでる本

2023年02月21日 07時34分34秒 | 言葉の世界




『認知症世界の歩き方』
この本を読むと、もうすでにその世界に踏み込んでいるという認識があり、うかうかしていられないという気になる。
『記銘、保持、想起』か、なるほど認識とは、心に止まったことを留どめ活かすことができてこそのものだ。
この本の中で新しい知識として『パレイドリア(pareidolia)』をメモして何度も何度も見直しして、やっと覚えた。
物の中に人や顔や動物の姿が見えてしまう現象だそうで、レビー小体型認知症によく現れる幻視であるという。

『Steel Ball Run スティール・ボール・ラン』
『ジョジョの奇妙な冒険』50巻を読み終えて、やれやれと思ったものの、続きもあるのではないかと思ったら、案の定、ちょっと違うかたちでの続きがこれ。
漫画なのだから、読み終えたというのは語弊がありそうだけれど、なにしろ言葉が多くて、虫眼鏡を使わないと読めないほど小さい説明書きも前作では多くあった。
荒木飛呂彦という人の書く漫画は、読んで疲れるタイプなのにまた読み始めてしまった。
文庫版より一回り大きい単行本で24巻。

『権力は腐敗する』
前川喜平の「右傾化を深く憂慮する一市民」というツイッターはたまに読む。
元文部科学事務次官が「安倍・菅政権による国政の私物化は枚挙にいとまがない」と「はじめに」で記している。
毎日新聞出版で、第一刷が2021年9月5日。
まだ、「はじめに」しか読んでいないけれど、胸の悪くなる内容であることは間違いない。

『ウソをつく生きもの』
「はじめに」の途中までしか読んでいないけれど、昔は「野生の王国」をずっと観ていたし、今は「ダーウィンが来た」を欠かさず観ている私にすれば、おさらいのような内容だと思う。
人間のつく『ウソ』とは似て非なるものだけれど、あえて『ん?』のキャッチーなタイトルにしたのだろう。
比喩を豊かにするお勉強としてではなく、疲れた時に手軽に読み飛ばす娯楽になりそうだ。
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ひとこま

2022年09月22日 07時07分55秒 | 言葉の世界






『ひとこま』を漢字で書くと一齣となり、辞書には『劇や映画などの一場面』とある。
ところが一齣を『ひとくさり』と読めば、『話、音曲などの一つの区切り・段落』となる。
ふとしたことから疑問が湧いて調べたのだけれど、齣という漢字は書けなくていいから読めたら充分だ。
充分と書いたり十分と書いたりするのが『じゅうぶん』だけれど、十分は『じっぷん』と読めば時間のことだ。
などと、連鎖反応が起きる。
昨日、病院のホールにあるテレビ画面の4分の1が真っ黒で、朝ドラを観るのに想像力が必要だった。

病院では意想外のしんどいこともあったので、帳尻合わせに回転寿司で景気づけ。

回転寿司屋をでたら、夕焼け雲に破線のような飛行機雲があり、右側には暗雲たちこめるといった雰囲気の雲もあった。
一夜明けて本日午前7時台は宇治60%、京都90%の雨予報。
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おかしくない状況

2021年08月17日 18時04分45秒 | 言葉の世界


各地で大雨被害が報告され、まだまだ起きそうな連続降雨もあって、本当に線状降水帯というのは恐ろしい。
以前、ここに線状降水帯という表現はふさわしくないのではないかと書いたことがある。
カラーで示される雨雲情報を見ていていつも思うのは、線状降水帯ではなくて、帯状降水域ではないかということ。
それはともかく、テレビでは『いつ災害が起きてもおかしくない状況です』などと気象庁の発表や現場中継などで言うことがある。
コロナ禍を伝える情報で、クラスター感染や医療崩壊ということに対しても、いつ発生しても(起きても)おかしくない状況と言う。
聞いていて、いつも『おかしくない』の使い方は『おかしくないのか?』と思う。
ただし、文字の文章ではこのような表現をせずに、危険性があるとか増大しているという、きちんとした書かれ方になる。
おかしいというのは、可笑しいと書かれることがあるので、切羽詰まった危険性の告知に、可笑しく『ない』と否定されてもふさわしくない気がするのだ。
今まで私は、「何々があってもおかしくない」と使うときには、全く無責任な予測予想発言として言ってきた。
私は危険な状況、あるいは悪い予感を言う時に、『何々になるかもしれない』『可能性がある』と言ってきた。
『何々があってもおかしくない』と言う時は、冷やかし半分のような放言が可能な場でしか使って来なかった。
私の言葉感覚がおかしいのだろうか?

画像は、お盆が過ぎてお墓から引き上げてきた花。
もったいなくて捨てられない。
ボーフラが湧いたので、1匹38円のヒメダカ10匹を買ってきた。
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頌春 2021

2021年01月01日 01時07分07秒 | 言葉の世界


『新年あけましておめでとうございます』
このように年賀状を作って印刷も終わってから、この挨拶文は変なのではないかという。
『新年』と『あけまして』は重複表現ではないかという。
違和感を少し感じてはいた。
言葉だけ違えて意味の重複を無意識にやってしまっていた。
それならこの際、『新年あけまして 謹賀新年 頌春』とでもしてやろうか、などとふてくされそうになった。
もともとなんにつけポカが多いのだけれど、加齢も加わって、ボロがポロポロでてしまうのは仕方ない。
ある程度は気を付けつつ、現状はこのようであるとさらけ出していこうと思う。
後で気づいても、「ま、いっか」として、前に進むしかない。
よほどひどい時は訂正したり修正したりはするけれど、今回のようなミスは、そのままいってしまおうということ。
ということにして新年があけました。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
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ガサツな言い方

2020年02月02日 00時00分30秒 | 言葉の世界
『・・・・に行きますので・・』と言うところを、『・・・・に行きますんで・・』と言う人が多くなってきた。
ここ10年か20年ほど前からだと思われるのだが、丁寧に言っているようでいて少しも丁寧に聞こえない。
『何々なので・・』を『何々なんで・・』と言うし、『何々するので・・』を『何々するんで・・』と気軽に言う。
関西弁でなら、『行くさかい』『行くよって』『行くさけぇ』と言うところを、『行くんで』で済ます。
朝ドラ【スカーレット】では、信楽方面方言(?)で『行くさけぇ』と言うだろうところを、『行くんで』と主人公は言う。
確かにそう言ったかどうかの証拠を示せないけれど、とにかく喜美子の『・・・んで・・』が気になって仕方ない。
もうしばらくしたら、一般的になるのかもしれないけれど、誰が流行らせたのか、とにかく【スカーレット】の時代には、『・・・んで・・』は使わなかっただろうと思う。
先日のブログで違和感と書いたのは、このガサツさも感じてのこと。
嫌味なジジイになったもん(の)だと自分でも思いますンデ、そこんとこよろしく。
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またきておくれやす

2020年01月31日 00時42分00秒 | 言葉の世界
毎月のクレジットカード利用分を銀行口座へ入金するために、いつも同じコンビニのATMを利用する。
月初めに引き落とされると、口座には数千円程度の残金しか残らないようにしている。
じつは引き落とし日に間に合わない失敗をしたことがある。
その時はクレジット会社に電話をして「うっかり勘違いして・・」と言い訳したりして面倒だった。
毎月末にコンビニで入金するのだけれど、いつも10万円ほど預金があるという原則でも作って、補充していくようにすれば、忘れても事なきを得るのに、やはりそのゆとりが無いというか、ゆとりがあればゆるみも湧くだろうしという結論。
そのような私へコンビニのATM機械は、入金後に「またきておくれやす」と言ってくれる。
年端の行かぬ舞妓が言っているような、少し間延びした言い方が哀れな感じもして、じつに微妙な雰囲気を味わう。
京都市内のファミリーマートのATMは、みな同じなのか、私の行く店だけなのか、他の手続きの時は違う言葉なのかなどを知りたい気もする。
それぞれの県単位で違うのかどうかも。
だからどうしたということもないけれど、ただ毎月末に半白のジジイが「またきておくれやす」に、たぶん『ふっ』というような顔付きをしてATMをあとにするということ。

追記;本日2/2散歩のついでに寄って、トイレも借りて、もう一度聞きたくて千円入れてみた。聞き違いしていたことが判明。「またきておくれやす」ではなく、「またきとぉくれやす」と言っていた。はんなりした京都弁でおました。
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『スカーレット』の関西弁,滋賀弁,信楽方言

2020年01月28日 06時10分40秒 | 言葉の世界

クロガネモチ。かねもちで縁起物だとか。

朝ドラを観ながら、それぞれの俳優が演じる人物のセリフと言い方に感心したり、変だなと思ったり、快不快を感じたりの毎朝。
私は裏日本新潟県から関東は東京と千葉へ、そして関西は大阪と京都へと流れて今に至る。
滋賀県とは縁あって、滋賀県各所出身の方と話す機会があり、信楽で生まれ育った人とも付き合いがあった。
そういう私が(って、言葉に対しての何の専門家でもないけれど)思うに、スカーレットは方言指導が徹底されていて、けっこううまいなぁと。
ヒロイン喜美子の貧しい生まれ育ちと長女でしっかり者の気丈さ優しさのキャラクターがうまく演じられていると思う反面、ガサツさのようなものを感じてがっかりしたりする。
なんか違うような気がしてしまうけれど、生まれ育ちまでもしっかり演技して見事なのかもしれない。
ただ、現在では普通でも、あの時代にその言い方はしなかっただろうという言い回しもあって、違和感多々。
女優の背の高さとか容姿とか表情とか顔つきとかよりも、発音の仕方、発声時の鼻への息の抜け方のようなものに違和感があるのかもしれない。
カモの類は卵から孵ったときに見た対象を親として追いかけるとかなんとか言う。
そのような一瞬で決定されるものではなく、赤ん坊が言葉を覚えていくのは母親からばかりではなく言語環境というような第一段階で発声方法を学んでいくのだろう。
そういうところまで、俳優女優は指導されたり気を配ったりして演技をしているんだろうかなどと思ったりする。
ドラマとは関係ないけれど、桂米團治(桂米朝の息子)の鼻にかかった関西弁(京都弁)は見事に『らしさ』があり滑らかで品がいい。
それとは対象的なキャラクターとしての喜美子なのだろうから仕方ないかとか何とか思いつつ、毎朝8時には必ずテレビの前にいる。
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真面っすか

2020年01月21日 00時58分48秒 | 言葉の世界
相手の知らないことを言ったときの返事にはいろいろあるけれど、「マジっすか」を連発する若者がいた。
先日、ある文章中に「真面に」とあって、「マジに」と読ませるのかなと首を傾げつつ調べた。
なんだ「まとも」か、と何だかがっかりした。
CASIOの広辞苑によれば、「まおもて」と読んだら『正面や、まむかい』の意味とのこと。
真面(まとも)ではない事件や極端な天変地異が多くなった気がする。
まともじゃないから事件か。
漫画はほとんど読まなくなったけれど、コマいっぱいに「真面っすか!」で「マジ」とルビを振ったセリフもあるかも知れない。
そのうち、真面がマジと読まれて辞書に載るのも近いのではないかと。
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アポミクシス

2019年12月09日 00時35分11秒 | 言葉の世界


セイヨウタンポポはアポミクシス{Apomixis}(無融合生殖)というものだと知った。
受粉受精なしで種子を作れるそうだ。
その点、日本のタンポポは自家受粉すらできないので、群れていないと繁殖できない。
これじゃ勝負は決まったようなものだけれど、共存している場所も結構あるのだとか。
以前、取り上げた秋海棠(シュウカイドウ)のムカゴはアポミクシスのクローン繁殖。
アポトーシスという細胞の自殺プログラムのことは知っていたけれど、逆の繁殖方法だから対で覚えられそうだ。
アポミクシスとアポトーシス。
アベノミクスなんぞとは混同しないようにしたい。

画像は2週間ほど前のわたしのふるさとだが、今は真っ白な雪に覆われているはず。

※ニホンミツバチの蜂蜜販売中です。

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涙がちょちょぎれる

2019年11月08日 03時10分30秒 | 言葉の世界


涙がちょちょぎれるという表現は、関西にきてから知った。
『ホンマ情けのうて涙ちょちょぎれるゎ』と、初めて入った会社の社長が何度か言っていた。
シリアスな場面では使わずに、戯(おど)けた雰囲気で使う。
小さなニホンカナヘビを見つけ、反射的に手がでた。
芝生の中を動きにくそうにしていて、隠れる穴や陰もなかったから簡単だった。
ヤツにすれば、いくらかき分けてもラチがあかない場所でいきなり拉致された感じ。
状況がつかめなくて放心状態のフリーズ。
画像を見てから思ったことだけれど、余裕の捕獲者目線でみると、全体茶色に涙ちょちょぎれ模様だ。
芝生に返してやったら、フリーズがとけてくねくねと逃げていった。
もうすぐモズがやってくるから気をつけるべし。
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十能が売られていた

2019年10月09日 00時16分16秒 | 言葉の世界




「十能が売っていた」と会話なら言うところだけれど、なぜか文章にすると変。
「十能を売っていた」としたいところだけれど、そうすると叩き売りみたいなのでやめた。
と、そんなことではなく、ホームセンターで見て懐かしかったので撮った。
なぜ十能なのだろうという疑問には向かわないでおこう。
じつは危ない経験がある。
雪国で育ったので、冬の朝は囲炉裏で焚く火の中から暗赤色になった炭を火箸でつまんで十能に入れ、炬燵まで運んだ。
それを小学校低学年ですでにやらされていた。
兄姉がいたから、いつもやっていたわけではなく、たまにやっていただけなのかも知れない。
そうして囲炉裏の間から居間への移動中に焼けた炭を畳の上に落としたことがある。
子どもはいつだって何をするにしたってチャレンジャーだから、危うさを楽しみハラハラを好む。
私はいまだにそのような性状を残しているけれど、そのように十能に危なっかしく積み上げた炭だったはず。
詳しくは覚えていないけれど、小さい欠片なら素手で拾い上げて戻し、指先をフーフーしたりしながら何食わぬ顔で済ましたはず。
大きい炭でも、全体が赤くなっているわけではなく半分くらい熾きたのを炬燵に入れるはずなので、黒い部分を持ち上げて事無きを得たと思われる。
その事で、朝の大忙しの母から叱られたという記憶はない。
ただ、一度、火の着いた炭を畳の上に落としたことがあるという経験を持った事は、その後の人生に少しは生きたはず。
瞬間的に、炭火だって素手で持ち上げられるという事、燃える火だって手ででも消せるということなど、とっさの瞬発力は経験の有る無しでかなり違うのだからして。

おまけ;検索中に『火かき棒が十能を笑う』という、『目糞鼻糞を笑う』と同様のことわざがあることを知った。
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