鳥瞰ニュース

空にいるような軽い気分で・・・

トラックバックの事

2008年02月28日 00時22分56秒 | テレビ・ネット・映画
加藤ローサAV出演記念・・・というのがトラックバックに入っていました。
今までトラックバックして頂いたものはほとんどヤバそうなものばかりだったので、ちょっとそのサイトを覗いて直ぐに削除していたのです。
一応必ず検分してみないといけません。
で、今回の加藤ローサ・・・ブログを見てみると、最初のかわいらしい顔アップの画像は加藤ローサその人に間違いないでしょうし、youtubeの動画はゼクシーのCFなんでしょう。間違いない!
ところが、次のブラを外して乳首を半分ほど見せてる悩殺美人画像はどうも加藤ローサではないような気がします。
で、動画はこちら!!とか書いてあるのは、わたしどうしてもクリックできないのです。何だか恐ろしくて・・・。
でも何となく削除しがたくてそのままにしていたら、更新もしないのにアクセス数が増えてる。
加藤ローサさんのおかげでしょうか?
本当に加藤ローサの動画?
『加藤』と『ローサ』の間に小さく『ダ』なんて入ってるんじゃないの?
加藤ダローサ ってか!?  
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サッカー 東アジア選手権の三戦目

2008年02月24日 02時20分02秒 | 勝手に応援
日本:韓国戦を、またまたテレビで観ました。
結果は1:1の引き分け。
優勝は出来ず。
しょうがない。優良可不可の、可の下ですね。
後半の40分過ぎあたりから、すごく期待をもちました。
イライラ感が過剰な程の期待感にすり代わり、もしも・・・という予想をせずにはいられませんでした。
悪い方からいくと、点を入れられて敗色濃厚になってしまったら・・・
もうがっかりして、今まで見てきた1時間半は何だったんだ!と不満憤懣大噴火という感じに・・。
良い方の、追加点を入れて逆転勝利濃厚になったら・・・
もしかして、不整脈のあるわたしは、あまりの興奮に、大発作を起こしてしまうんじゃなかろうか・・・
結局、双方点を入れることが出来ず引分けで終わったら・・・
やはり、イライラに逆戻りして納得の平静さに戻れるのではないか・・・
と思いました。
とどのつまり、サッカーはイライラを楽しむスポーツだという私の持論を証明する結果でした。

今回の観戦で一番印象的だった事。
『岡田監督のインタビュー』でした。
かなりの高視聴率だろうと思われる放送で、
残念な結果だった・・・という短いコメント以上の内容な無くて、
最後に、自分から吐き捨てるように
「もういいですか」と言って画面から消えた。
勝てなかった!くそ!くそ!という感情丸出し。
全日本代表チームの監督でも広報能力は全く期待されていないんですね。きっと。
ワールドカップ・フランス大会での選手最終ふるい落とし発表時の彼の決然とした表情には凛々しさを感じたものでしたが・・・。
いろいろご不満もありましょうが、監督がそうそうブスッとしていたら、引いてしまう方々も多かろうと心配してしまう今日この頃。
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サッカー 東アジア選手権の二戦目

2008年02月21日 00時09分52秒 | 勝手に応援
日本:中国戦をテレビで観ました。
結果は1:0の勝ちで、勝ち点3。
まぁ、優良可不可の良ですね。

何だかすごくやりにくいグランドみたいでした。
足元は滑るし、ボールは転がらないし・・・。
ボールが転がらないことを生かしたプレーを見たかったけど、なかなかそうは切り替えできないんですかねぇ。
あまり見せてもらえませんでした。
北朝鮮戦よりラフプレーが多くて、審判も中国に何となく甘くて、最後の方になったら日本の選手はシミュレーション気味に転んでは痛がって休んでましたね。
これで引き分けたり負けたりだったらさんざんでしたが、よくぞ0点に抑えてくれました。
あーイライラした。
やはり、サッカーはイライラを楽しむものなんでしょうか。
キーパーがよく頑張った。
向こうさんは跳び蹴りなんかしてたけどね・。
ところで私、楢崎正剛好きなんですよねぇ。
シレッとしてるとこが。
19歳の内田もいいなぁ・・・シレッと感が。

本日一番気になったこと。
実況アナウンサーが、中国のラフプレーとアウェーのことを語るついでに、
「耐え難きを耐えて・・・」と言ったこと。
言った本人も直後に『しまった』と思っているかも知れません。
問題にならなければいいけどね・・・。
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医者殺し

2008年02月19日 21時56分31秒 | 健康ネタ
こどもの頃、私の父は魚を食べたあとは必ず医者殺しをしていた。
食べ終わったご飯茶碗に魚の骨を入れて熱湯をそそぐ。
そして呑む。
ただそれだけで、病気にならない・・・
ということで医者いらずの医者殺しというわけ。
骨の各所から万病予防のエキスでも出るんか~い!
とお疑いの方もいらっしゃるでしょう。
実は茶碗についたごはんノリも奇麗になり食後の白湯は口の中もすすいでくれるしで、とても有益なんですね。
それだけか~い!
と突っ込んだ方はご自分でお調べになって下さい。
たぶん昔の故事諺には根拠があるはずですから。

焼きサンマを食べるのに、頭はちぎって残してましたが、それ以外はバリバリ骨ごとハラワタごと全部食べる人を見たことがあります。
最後に尻尾のチョキは口から取り出してましたけど。
見事でした。
この人なんか、医者殺しどころか、医者も食いそうです。
いか物食いは医者も食い・・てか。
なんだか、健康ネタだとアクセス数が増えるみたいだから調子こいてみました。

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金柑はまるごと全部食う

2008年02月19日 17時45分37秒 | 健康ネタ
近ごろ売っている金柑はやたら大きいような気がする。
しかも以前のものよりかなり甘い。
それでも、そうそうむしゃむしゃ沢山食えるものじゃないし必ずある種を口から出すのが面倒くさい。
そう思ってつい食わず嫌いみたいになっていたけど、エイめんどくせーと種ごと食ってみた。
知り合いにブドウの種も食べてしまうという人がいるのを思い出したから。
なんだ!金柑の種は思っていた程苦くない。
違和感なく食える。
むしろおいしい。
バリバリ感が新鮮だ。
緑のヘタさえ気にならない。
食べてみるもんですね。
風邪の予防に是非とも冬場は金柑を2個ずつくらい毎日食おうと決めたのであります。
もしかしたら、金柑の葉っぱだって、枝だって、木の皮だっておいしいのかも・・・。
何だって食ってみよう。
いざという時がくる前に・・
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サッカー 東アジア選手権の一戦目

2008年02月18日 20時51分25秒 | 勝手に応援
日本:北朝鮮戦をテレビで観ました。
結果は1:1の引き分けで勝ち点1。
3点は入れられた試合だったのにねぇ。
先取点1点入れられたのは、相手が上手かった。
Jリーグでやってる選手らしいし、あれはしょうがないですね。
で、成績をつけるとしたら
3:1 なら文句なしの 優
2:1 で納得の    良
1:1 で不満ありの 可
0:1 だったら  不可
ということで、かろうじて可で合格って感じでしたね。
北朝鮮選手がかなりのラフプレイをするかと思ったら、おおむね紳士的でよかった。
お互いシミュレーションもあまりなかったみたいに見えたしね。
わたしは、シミュレーションばかりの寝転んでナンボみたいな選手はどうしたって好きになれない。

サッカーってのは本当に観ていてイライラするスポーツだ。
もう少し点が入るようにルールを変えたらいいのに・・といつも思うんであります。
ハンドやオフサイドなどの反則ルールはそのままでいいけれど、
ゴールをもう少し巾を広くしたらいいのになぁといつも思う。
両サイドをもう1mずつ広くしたらいいのに。
PK戦の時だけ衝立立てて今のサイズにしたらいい。
どんなもんでしょうか?こういう案。
フーリガンが発生して騒ぐのだって、あれは点が入らないからイライラがつのるんですよ・・たぶん。
それで、点が入った時はもうとんでもないエクスタシーになってしまう。
本当にサッカーは困ったスポーツだ。
観たくないと思いつつ、日本代表の中継となると、いつだって観てしまう。
あ~イライラする。
いつ来るんだ我がエクスタシーよ!
でも奇跡の大逆転勝利なんかが起きたら心臓が耐えられないかも・・知れない。
もう観たくない。
でも観るから、頑張れニッポン。
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閑話休題:口唇ヘルペスの事

2008年02月17日 11時20分51秒 | 健康ネタ
パソコンではフリーセルをやってることが多い妻が、インターネットで何かを熱心に読んでから言った。
「わたし口唇ヘルペスになったわ」
以前は風邪の華などと言われていたブツブツが確かに唇にできている。
「感染力が強いから気をつけてね」と言うのである。
私もネットで2~3の記述を読んでみた。
なるほど、なるほどと頭の中に『ヘルペス』が入ってくる。
ためしに「お~いヘルペス!」と妻を呼んでみた。
「やだ~、ちゃんと口唇ヘルペスと呼んで!」と応えるのである。
やはり、フルネームでちゃんと呼んで欲しいらしい。
テレビで綺麗な女性がやっているコマーシャルを思い出して聞いてみると、さすがに自分の身に起きたことだけあって、よく調べている。
医者に診てもらってから処方してもらうしかなかった薬が市販品として買えるようになったらしい。
「あの薬買ってきたら?あんな風に綺麗になるかも知れないし・・・」と言ってみた。
「まぁ!」という反応。
あれから少し経ったが妻は例の薬を買ってきていない。
ヘルペスは変化の兆しがない。
テレビでみる美しいモデルの薬品使用前状態のままだ。
こたつで転寝をしている妻の口元をみると、何だか口唇美人に見えてきて悪くない。
「お~いヘルペス」と呼ぶと、「エルメスと呼んで!」などと悪乗りし始めた。
「美人になる薬買ってこいよ」と言うのだが、すぐに忘れてしまうのか、買わないと決めたのか買ってくる様子はないのだ。
悪口雑言を吐いていても今のところ私には口唇ヘルペスの気配がない。
清い生活はまだまだ続く。
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死刑確定と死刑執行と(その6)

2008年02月14日 23時58分23秒 | 個人的主張など
今の司法のやり方は、事件の起きたその時一点までを重視して、まるで加害者のことをすべて理解したように検察は心理まで分析する。しかも、裁判担当の検察官は取調べをした訳でもないのに書類だけで想像逞しく事件を見ていたように説明し断罪し求刑をしてみせる。

ところで、本日(2/14)のニュースに、放火されて焼け落ちた韓国の南大門を当局が大規模に遮蔽してしまったことに、市民から抗議の声が上っている・・というのがあった。
インタビューに「覆うなら透明なものにして、再建が見られるようにして欲しい」と答えている女性のものが紹介されていた。

日本でも事件があったら何でもかでもブルーシートで覆い隠してしまう。事実確認捜査のための現場保存が第一ということなのだろうが、とてもそうとは思われない印象を持つことがある。

犯人被疑者加害者に対しても、毛布をかぶしたり上着を被せたり通路までシートで覆ったりで、警察検察の所有物みたいな感じがする。

折しも、法務大臣が鹿児島の警察検察の違法捜査による冤罪に対して、トンチンカンな失言をして直ぐに謝罪をするというニュースも本日流れた。

このインターネット時代に、まだ何でも隠し密室に事件そのものを隔離し捜査ではなく、勝手に操作しようという旧態依然の考え方がはびこっているのだろう。

取調室の透明化や映像化などがようやく言われはじめている。裁判ではまだ傍聴した絵描きが被告の様子を思い出して描いたものがマスコミで報道されている。ばかばかしい限りだ。

誰が真実を怖れているのだろう。おそらく上からモノを見て物事を取り仕切っている人達なのだろう。公務員の無謬性などを、まだ当たり前のように思っている人種がいるという事なのだろう。

また、筋道が迂回してしまいそうなので、結論的に書いてみよう。
「可能性と未来」のことだ。
ある事件が起きてしまった場合。それが国家間対立でも民族間対立でも宗教間対立でも隣人間でも
知人間でも、第三者が一時的に割って入って沈静化を計るのは必要だけれど、最終的には両者が歩み寄って和解をするのがベストの解決だ。

たとえ一方的な、加害と被害の関係であっても、お互いが相手を受け入れ認め合う可能性だってあるだろう。死刑制度のある国では、死刑があるというそのことだけで、始めからその可能性を否定しているのではないかとさえ思われるのだ。

逆説的にいうならば、ひとたび間違いを起こしたならば、罪を悟り自らを罰する機会さえも奪われて、他人まかせの人生にさせられてしまうということだ。

どうも、具体的なイメージを提示できないでいる。急ぎすぎるのか・・・迂回しすぎるのか・・・。
また次回考えてみたい。

(まだまだもうちょっとつづく)

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死刑確定と死刑執行と(その5)

2008年02月10日 15時37分05秒 | 個人的主張など
無期刑と終身刑の違いは何か?
言い方が違うだけで実は同じことのようだ。
無期懲役の囚人が仮出所することはあっても、それはあくまでも仮出所なのであって、常に保護観察下にあり、期限のない刑期は一生続くらしい。
外国での終身刑と訳される刑も絶対に出所させないというわけではなく、仮出所もあるようだ。
刑務所の医師の記述だったと思うのだが、どんなに長い刑期であっても期限付き懲役囚の表情と無期刑囚のそれとでは明らかな違いがあるというのを読んだことがある。
前者には希望が見てとれ、後者にはそれがなく一様に無気力な表情をしているというのだ。
ということを踏まえ前回の続きを書いてみたい。

日本の犯罪事件において、加害者と被害者の接点は裁判途中でさえあまりなく、判決後はほとんどなくなってしまう。
被害者の家族には、事件のことをすべて知りたいと熱心に裁判傍聴をする人も多くいるように思われる。
それでも、全容が明らかになることはありえない。
全容を明らかにできる体制ができていないからだ。
判決確定後のことも知らされない。
被害者を逆恨みした加害者が出所後に被害者を殺したということもあって、被害者に情報開示がなされるようになりつつはあるようだが・・・。

どんな殺人事件が起きても犯人が逮捕されて以後は警察、検察、マスコミ、裁判所皆一様に決まりきった動き方をする。
被害者の家族親族の声も誘導されたように一様な報道のされ方をする。
『何故こんなことが起きたのか?』『なぜ殺されなければならなかったのか犯人に聞きたい』
と多くの人が言うのに、それをただ報道するだけで、その声に答えるかたちには絶対にならないのが現状だ。

裁判に出廷した被告の様子は、証人として証言する被害者家族が被告に訴え問いかけたとしても、いつだって変わらない。
長い拘禁生活や予断に満ちた密室の取調べにより、必然的に一様な被告像にさせられてしまうのではないかとさえ思われる。

それを改善するにはどうしたら良いのだろう。
極端な意見かも知れないが、被害者家族は『何が起きたのかを正確に知りたい』のだから、加害者逮捕とともに、取調べの段階から加害者と接触させるべきなのだ。
もちろん、報復行動も新たな加害行動も防ぐ透明で強固な壁は必要だろうが、言葉を交わすべきなのではないだろうか。
殺人事件にまでは至らなかった事件でも被害者が望むなら、そうさせるべきではないだろうか。
『何故なのだ』と直接聞く権利はある筈ではないか、と思うのである。

もちろん、加害者が現行犯や、自首や、はっきりとした証拠があって、逮捕即犯行を認めた場合に限られるだろうけれど。

『可能性と未来』を書くつもりだったが、そこにすすむ前の段階で足踏みしてしまっている。
また今度にしたいと思う。

(まだもうちょっとつづく)

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死刑確定と死刑執行と(その4)

2008年02月04日 16時42分13秒 | 個人的主張など
つい先日に起きた殺人事件の報道で、犯人に対してどう思うかと被害者家族に聞いているシーンがあった。
被害者の父親と思われる男性は『悲しさと悔しさで一杯の状態だから、そこまでは考えられない』という内容を答えていた。
本当に心底の実感の肉声だと思った。
そして、マスコミ記者の無神経さ、情けなさがはっきりと出ていた。
これがマニュアルであり、命じられた質問事項なのだろう。
よいコメントが取れたと思っているのだろうか。
仇討ち、敵討ちを検索して読んでみた。
ここに、その歴史的考察を述べるつもりはないが、結論的に言うならば仇討ちの考え方というのは物事を単純に割り切ってしまおうということでしかないようだ。
死刑という極刑を望む要素は仇を討ちたいという気持ち以外に、次に重い刑の無期懲役に決まってしまったなら模範囚を演じていればいつか出所が可能だと理由が大きな要素でもあるようだ。
もし、日本に終身刑があったなら、どれほど被害者家族の心は癒されるだろうか。
『だろうか』の後には『?』としての疑問だけが来るものとして、あまり癒されはしないだろうと考える人が多いのだろうか?
それとも『だろうか』の後には『!』としての強調が込められ、どんなに癒されるか測り知れないと考える人が多いのだろうか?
今までの文脈から判っていただけると思うのだが、わたしは後者だと思うのだ。
被害者家族に多くの可能性を未来を残して欲しいのだ。
なぜ『可能性を未来を』などと考えるかは、前回の最後に一つの理由を書いたが次回に別の理由を書いてみようと思う。

だんだん、そっけない文体になってきましたが、簡潔さをめざすとこうなるのかも知れません。

(もうちょっとつづく)

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死刑確定と死刑執行と(その3)

2008年02月03日 19時36分16秒 | 個人的主張など
死刑を望む声について、思い起こしながら少し考えてみよう。
わたしは被害者家族縁者がマスコミに発言している内容について意見を述べようとは決して思わない。
子どもを返して欲しい、夫を返して欲しい、妻を返して欲しい、親を返して欲しい等々どうにも
ならない事とはわかっていながら発せざるを得ない悲痛な叫びに対して何を言うことがあるだろう。
被告に謝罪の態度を要求し、極刑(つまり現行法では死刑)を望む多くの被害者のコメントにも何も言うことはない。

ただ、不思議に思うのは被害者家族から、
「自分は被告の極刑を望まない」「許したいと思う」「早く刑を終え更生し社会復帰して欲しい」
というような言葉がひとつも聞えて来ないことだ。
そのような事を言う人はマスコミから無視されてしまうのだろうか。
善人であろうとしている人や、本当に誰の死も望まない人の声もある筈なのに、そのような人の発言は抹殺されるのだろうか?

死刑囚には教戒師がつき、こころを穏やかにするために方策がとられるようだ。
それなのに、被害者家族縁者に対して国は何をしてやっているんだろう。
通り魔殺人がきっかけで、そのような事件に対して、国が数百万円だかのお金を被害者家族に対し迅速に支給することになったことは知っているけれど、無料でカウンセラーを派遣したりして、事件による痛手をフォローするというのは聞いたことがない。
なぜそういう被害者に対して国はこうも冷たいのだろう。
死刑の判決を下した。刑も執行する。
それで満足せよという態度なのだろうか?
被害者家族(残された者)の悲しみは当初の烈しい感情から、加害者を許すというかたちに変わることもあるだろう。
加害者を許すという、崇高な想いに至ったときに加害者が死刑執行されていたらどんな気持ちがするだろう。
そういう気高い想いをないがしろにするような権利は国といえどもない。
死刑を執行するということはそのような想いを黙殺することではないだろうか。
死刑制度によって、二重に被害者を苦しませるということがかなりあるのではないだろうか。

(まだまだつづく)

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死刑確定と死刑執行と(その2)

2008年02月03日 12時59分53秒 | 個人的主張など
日本は国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄した国だから、日本の外交目的の最重要事項は当然ながら戦争回避なのだろう。
他国民を殺さず、自国民を殺させないということだ。
それならば、残虐な事件を起こしたとしても、その国が自国民を殺すなど考えにくいことだ。
因果の精査と更生への惜しみない努力をする度量があってこそ、国としての体面も保てるというものではないだろうか。

見せしめ、犯罪抑止効果という考え方がある。
死刑をあつかった小説や映画をみて思うのだが、あれは密室殺人だ。
死刑囚は目隠しをされ、少数の関係者だけに見守られて執行は秘密裏になされるようだ。

見せしめ、犯罪抑止をめざすなら、多くの人が見守るなかで公然と行われる方がよりよいのではないだろうか。
被害者の家族が望むなら、彼等の見ているところで、
死刑囚の家族もすべて呼んで、
始めに取り調べた警察官も、
取調べ検察官も、
死刑を求刑した裁判担当検察官も、
死刑を言い渡した判事達も、
弁護むなしく成功を勝ち得なかった弁護士も、
執行にGOサインをした、
法務大臣以下官僚役人達も
勢ぞろいしたなかで、
目隠しなどせず行ったらいいだろう。
もちろん、マスコミにも公開しテレビ実況がされる中で行われるべきではないか。
それ位の優しさと礼儀が執行される死刑囚に対して払われてしかるべきではないかと思う。

というのが、どうしても言うのなら・・・への妥協。
今回はここまで。

(まだつづく)

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死刑確定と死刑執行と(その1)

2008年02月03日 11時28分03秒 | 個人的主張など
最近ある被告の死刑が最高裁の上告棄却により確定しました。
日を置かず法務省が死刑囚3人の刑執行を発表しました。
死刑という言葉を聞いたり目にしたりする度に、ほんとうにがっくりがっかりしてしまう。
国というのは何だろうと考えてしまう。
そもそも国とは・・・とか、誰それの国家論によれば・・・とかを述べるつもりはない。
体系的に学んだこともないので、実は知識がない。
という訳で、自分のなかにある原則のようなものを直感的に述べてみよう。
国が自国民を合法的に死刑にするということは、破滅への道を選ぶようなものではないか?
西洋の物語だったか中国の春秋戦国時代の実話だったか定かではないのですが、想い出した事があります。
隣の国から攻められて敗北が確定的になった王が、兵に命じて自国の領民を皆殺しにしたという話。
それに極端だが、ガイアナで起った人民寺院というカルトの教祖が信者に自殺を命じて900人余りも死に自分も自殺した話まで想い出しました。
自分のなかでは、上記の話などが死刑と直ぐにリンクしてしまうのです。
最高刑を受ける人間というのは、人間社会の未来を望むにあたっての貴重なサンプルだ。
どのような育ち方育てられ方をして、どのような偶然や必然が重なって事件を起こしてしまったかを、あらゆる角度から検証すべきサンプルなのだと思う。
そして、そのような事件を起こしてしまった後でも、どのように人が変わることができるのかをじっくりと観察すべきサンプルでもあるのではないか。
突出した象徴的で貴重なサンプルを、多くの検証もせずに刑死させてしまうなんて、なんてもったいないことをするのだろう。
国家の未来への希望を摘むことにならないのだろうか?
多くの徒労感や疲労感や敗北感を残して死刑が執行されてしまうことによる弊害は計り知れないのではないか?

あまり長い文章にせず書きつないでいこうと思います。
(つづく)

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