鳥瞰ニュース

空にいるような軽い気分で・・・

ニュージーランドの地震について思うこと(その2)

2011年02月28日 22時58分43秒 | 随筆或いはエッセイ
中国での地震被害現場や、韓国でのデパート倒壊現場からの奇跡の生還が、ニュージーランドの語学学校倒壊現場からは、当初の数人以外に成されていない。誰もが残念無念の想いだろう。遺体がその現場から何人見つかったという具体的な発表もない。全数は増えているのに具体的内訳が発表されない。諦めてはいないが、もしかしたらと遺体を確認させることを希望しても叶えられない。広く立ち入り禁止にされて倒壊現場近くにさえ行けない。

日本人にはどうにも理解しにくい対応だ。自然災害に対する対応マニュアルがきっちり決められていて、それを守っているからなのだろうか。家族だからこそわかる証拠や直感というようなものを一番に大事にして尊重するのが日本的なら、DNA鑑定だけを科学的根拠としてそれ以外を無用とするのが西欧的な考えなのか。

日航機の御巣鷹山の時は被災者家族達が部分的遺体の入った柩を次々に見て回るシーンがあった。我々にはそれが当たり前だ。ただ、あの時は自衛隊機(ヘリコプター)に死体を乗せてはならないという規則があるとかで、遺体をイカダのようなものに積み、吊り上げて運ぶという何とも信じがたい頭の固さと言うか融通の無さを示したものだったけれど・・・。

天災による壊滅状況を、二次災害防除のために封鎖してどうしようというのか! という気がしてしまうのだ。専門技術なんかより、人海戦術のマンパワーを使わないで市当局や警察が災害地を上から目線で仕切るのがどうも解せない。9.11の時は消防士が沢山犠牲になった。想像力が働かなかったと言ってしまっては身も蓋もない。彼らは使命感と職業意識だけで突っ込んで行ったのだ。そういう遮二無二の雰囲気を感じられないのは何故だろう。9.11から学んだことが生かされているという事なのだろうか。

市民を守るという大義の危機管理マニュアルが、厳しく立ち入り禁止区域への入場チェックをほどこしているのか。それにしても・・・と違和感を感じつつ辛い思いをしているのは現地周辺で待機している、行方不明者の家族だろう。『奇跡』を待ち望んで新聞やテレビに見入る部外者も人知れず違和感を感じつつ、宗教観の違いだろうかなどと思い惑っている。

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ニュージーランドの地震について思うこと

2011年02月26日 03時33分45秒 | 随筆或いはエッセイ
取材姿勢;被災者家族への取材がひどすぎる。舐めるようにカメラは追いかけ、取材記者はマイクを突きつけて無理強いの詰問口調だ。現地へ向うべく空港に行く途中であったり、搭乗手続きを急いだりしている人達は、まるで犯罪を犯した者のように困惑しカメラを避けている。家族の安否を気遣うよりも報道陣への不快感が先立っているように見える面持ちを観ると、テレビ映像を観ながら自分がカメラを向けているように居心地の悪い気持ちになる。映像には群がる報道陣もついでに映っているのでなおさらだ。クライストチャーチでは、病院に入り込んだ日本人記者が2人警察に拘束されたという。アメリカでのポトマック川への飛行機墜落事故で、或るカメラマンが川に浮く瀕死の女性を撮って問題になったことがあった。そのとき女性がすぐ助け上げられたなら助かったかも知れないと非難され、カメラマンも自責の想いを後に語ったのだった。戦場カメラマンなら許される、或いは積極的に撮るべき事態も、似て非なる災害現地報道においては別物の行動規範があろう筈なのに、と思うのだ。

災害現場での人命救出活動映像を観ていつも思うことがある。自分がそのような現場に直接居合わせたことがないからなのかも知れないが、突っ立っている人が多くて働いている人が少ないと思ってしまう。10人いたらたいてい1人か2人しか腰をかがめていない。連絡を取り合っているのか、安全確認をしているのか、二次災害を防ぐために見張っているのか。不謹慎かも知れないが、はた目に観たら呆然としている人が多すぎる気がしてしまうのだ。事態は急を要しているのだから、人海戦術が一番必要だろうに、バケツリレーのような列ができていてよさそうなのに、と思うのである。

なぜ土木工事に使われるベルトコンベヤーのようなものが使われないのだろう。安全を確認しつつ隙間を見つけて深部へ奥底へと生存者の発見に努めることが最優先されるのはわかるが、それと平行して大事なのが堆積した瓦礫の取り除きだろうに。安全確認のために、救助活動を一時中止したという報道もあったり、半壊した建物の崩落の危険性などがあるため、市街地への立ち入りを禁止したという報道もあったが、それぞれの思いから勝手な行動をする住民や報道陣や野次馬や外部から来る様々な理由を持つ人など総てを、半強制的に組織化して救護救援瓦礫撤去に駆り出すことはできないものなのだろうか、と思ったりするのである。

イラクに自衛隊が派遣されたことがあったが、あれは人為的に破壊された道路やインフラの復興のための派遣だった。そして攻撃される危険もあったり、ロケット弾が駐屯地に撃ち込まれたりした。自然災害の今回こそ、なぜ自衛隊を派遣することをしないのだろう。復興支援ではなく、緊急の人命救助である。それも日本人が多数被災している救援活動に対してだ。攻撃や非難はされないだろうから、武器は持たずにスコップと自前の食料と訓練された統制力と筋肉を惜しまず使ったら良いだろうに、と思う。

人型ロボットがスペースシャトル・ディスカバリーで宇宙ステーションに運ばれるという記事があった。アニメのガンダムにあったモビルスーツのような災害時用人型重機が投入されたらいいのにと思ったり、頑丈で小型な檻に作業員を入れて吊り下げ、安全を確保しながら撤去作業を迅速にやったらいいのにと思ったり、チリの落盤事故時の救出に使われた1人乗りエレベーターのようなものを隙間から突っ込んでモグラのように進んだらいいのにとか思ったりするのである。

勝手な想像をしている野次馬に過ぎないのだろうけれど、瓦礫から煙が出ていたりして、想像するだけで息が苦しくなりそうだ。死者の身元確認が遅れているのは当たり前のことだろう。生存に希望を抱いている人が大半なのだから。『救出』というニュース速報がテレビに流れ、『奇跡』や『奇跡的』という文字が新聞一面トップに踊るのを待ち望んでいるのだ。

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八百長は負の伝統か。

2011年02月18日 17時44分08秒 | 勝手に応援
このブログではカテゴリーに『勝手に応援』というのを設けている。そこで大相撲の事は10回も書いている。タイトルだけ羅列してみよう。

相撲技の革命  2008.1.19
相撲はベクトルである(相撲を観つつ思うこと:その1)  2008.5.17
相撲は『溜め』が命である(相撲を観つつ思うこと:その2)  2008.5.18
相撲は美を求める(相撲を観つつ思うこと:その3)  2008.5.20
大相撲から『Oh SUMO』が分離独立。   2008.5.27
2008年大相撲名古屋場所5日目をテレビ観戦して思ったこと   2008.7.18
相撲協会のどたばたで、誰が勝ち誰が負けるのか   2008.9.4
三ヶ月と十日前のブログを再掲載   2008.9.8
大相撲に八百長はないと思っている人なんて居るのだろうか?   2008.11.2
勝ち逃げの朝青龍  2010.2.6

応援の気持ちはないので、このカテゴリーに入れなかったが、{謝意のない謝罪}というタイトルで朝青龍の暴力事件から引退へとなった記者会見のことを小沢一郎の会見と抱き合わせで2010.2.5にも書いた。

3年前までは、大相撲をテレビでよく観た。そしてブログに好意的なことを書いていたんである。ところが、朝青龍がタチの悪いガキ大将ぶりを見せ、ロシア人力士の不祥事があり、北の湖理事長が辞任したりしたことをブログには書いたが、あれからだんだん大相撲は観なくなった。

大相撲はいろいろありながらも、ごっつぁん体質の商売上手を保ち続けてきたように見えるが、今度こそ本当の大打撃を受けているだろう。それなのに昔のことが忘れられず、恋々と古き良き時代が帰ってくるのをひたすら待っているように見える。

大阪場所を中止したのは下手な逃げだなと感じた。莫大な余剰金を持っているのだから、無料開放して、野次と怒号の中で、それこそ八百長のないガチンコ相撲をやったら感動を与えられたのに、と思うのである。

ロシア人力士三人の追放にしたって、下手すると外交問題にまでなると前に書いたのだが、まさかあれでロシアが北方領土に関して強硬路線に転じたのではないだろうけれど・・・でもなにせ、『第二次大戦の結果を日本は認めなければならない』などとロシア政府高官が言い、北方領土は戦利品だとあからさまに主張している。おっと横道にそれたか。

永年にわたって行われてきた星の貸し借り、その延長の賭博と八百長は負の伝統なのだろう。神事だ国技だと見えを張りたいのなら、あの大銀杏の曲げを全力士が切り取って、どこかに奉納したらよかろうに。ザンバラ髪でガチンコ勝負の迫力を見せる位のパフォーマンスをやらないと、禊ぎとはならないのではないか。そんなシーンを観てみたい。

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仕事のこと

2011年02月13日 13時20分39秒 | テレビ・ネット・映画
2/11NHKドキュメンタリー『無縁社会 新たな“つながり”を求めて。』を観ていろいろと想うことがあった。どういう感想をもったかとか、その番組内容を説明するブログなどは膨大な量の発信が成されているだろう。

私が想った些細なことを一つ。『仕事』についてだ。仕事もなく社会とのつながりもない孤独な人が近所のゴミ拾いを始めるというシーンがあった。社会と繋がりを持つきっかけに一人でボランティア活動をするのは、実に自然な成り行きだと思った。

私は毎日、車であちこちに行っているので、そのような人を目撃することがある。複数で同じジャンパーなどのしるしを付けてやっているボランティアではなく、自分のオフィス前の清掃をやる人とも違う個人的ボランティアだろうと思われる人が原付バイクで投げ捨てられた空き缶を拾い集めながら道路端をゆっくり行くのを見たことがある。他にも善意の個人的行動をよく見るようになった。

高校生の頃、仕事という言葉が住んでいる場所によって違うことを知った。私は里山そのものの田舎に住んでいて、子供の頃から割り当てられた仕事があった。毎朝の拭き掃除や、時季に応じての薪割りや草取りや雪降ろしなどをやるのは、一人前にできなくても義務的に当たり前の役割だったので、それを仕事と呼んでいた。ところが、高校のある市の中心地に住む同級生たちにとって仕事とは金を稼ぐことだった。彼らはこじんまりした家に住み、小遣いも沢山なら、アルバイトをして賃金を得るのもいて金まわりが良かった。私の『仕事がある』と言った事について『何それ・・そんなの仕事じゃない』と馬鹿にする風だった。

話はずれるが、理科や物理でベクトルや熱量なんかを習う時に『仕事』や『仕事量』が出てくる。私は牧歌的な生活だったので素直にその言葉を受け入れることはできたが、街中で育った人らは受け入れにくかったのではないだろうか。仕事というのは経済活動をして賃金を得るものだろうに、と思ったりしなかっただろうか。

現代の世の中は、仕事というのを経済活動に狭めて使っている。「赤ん坊は泣くのが仕事だ」という言葉がある。泣くことは不満不快の自己主張だけれど泣いて肺が鍛えられるのだから、適度に泣かせておくのも必要ということなのだろう。

と、このように奇妙な羅列をしたのは『仕事』の意味を広義に使いたいからだ。自分はこの世にいても意味がないのではないか・・・社会に必要とされていないのではないか・・・と仕事のない孤立した生活をしていて絶望する人が多くいるようだ。何でもいいから、動いたらいいのに・・・動いたら、賃金は得られなくてもそれは広義の仕事になるのに・・・と想うのである。仕事とは人とのつながりを持つこと確認することだとも言えそうだ。

自分の身内のことを言えば、私の母は田舎で父の死後、独居老人となって7年間過ごした。認知症となり晩年を不幸なまま終えさせてしまった。独身を通している姉が東京で難病を抱えながらも働き独り暮らしをしている。もう一人の姉は長野県で子を成さず未亡人となり独り年金暮らしをしている。娘も東京で独り暮らしで自活している。何ということだろう。必要なときに助けを求める人が身近にいるのだろうか。

私は独り暮らしを独身時代に10年間したけれど、独りで住むことはもう考えられない。どのような形態であれ独り暮らしは避けて同居人のいる生活を続けようと想っている。私は孤独を愛する風によそおい、そんな思われかたをしているかも知れない。でも周りには宣言しているのだ。独り暮らしは不自然だから自分は決してしたくないと。不自然だけではなく不合理で不経済で不利益が多い。私には成したい仕事も成さねばならない仕事もわんさかとある。殆んど賃金にならない事だけが頭のなかで空回りしているだけだけれど、広義の仕事が一杯で風邪を引く閑などないのだと見えを張ってみる、或いは見えを切る。

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危険回避の想像力

2011年02月02日 16時47分59秒 | 随筆或いはエッセイ
今冬は記録的な大雪が各地で観測されていて、雪害被害の報道が絶えない。それらの報道を見るにつけ、なんで予報がありながら、もっと気をつけないのだろうと疑問に思う。報道のあり方にもきっと問題があるのだ。同じパターンの『○○年間住んでいるがこんな大雪は初めてだ・・・」とか、「こんなに降るとは思わなかった」というくだりばかりピックアップして流す。

責任は誰にもない天災なのですよ…、運の悪い人がいるのですよ…、自己責任としか言いようのない間の悪さだったんですよ…と紹介しているに過ぎない気がしてしまう。鳥取での大雪で何隻もの舟がバランスを崩して転覆した災害などは、雪の多く降る地方の人から見れば信じられない程の危機対応能力の欠如なのだろう。

私は雪国の生まれなので、雪害に対する不安を切実に感じる方だ。屋根に積もる雪は一様であることはめったにない。風の向きによって必ず偏った積もり方をする。長時間降り続けた新雪は屋根のぐるりに雪庇を作る。積もった後の日の照り方や温度でも状態は常に違うのだ。重量バランスが極端に偏らないように想像力を働かせることが大切だ。今日も雪の重みで建物が潰れて人が亡くなる事故があった。

雪降ろしは一番積もっている所から降ろさなくてはいけない。降ろす前に一階の窓の保護状態はどうか、投げ降ろす場所はあるか等を考えた上でしなくてはならない。スノーダンプという一輪車の車輪を外したような道具が無かった時分、私の田舎の雪降ろしは、新雪の時はコスキ(木の鋤)を使い、そうでない時はシャベルを使っていた。大人が黙々と確実に雪降ろしをする姿を見て育っているので、徒労でしかないような雪との戦いには、嫌だとか寒いとかの感覚を持つ前に体が動く。

私の田舎では屋根の雪降ろしを『雪掘り』と言う。屋根の雪を降ろすのではなく、雪に埋まった家を掘り出すのだとか何とか…。そんな事はともかく、強い印象で記憶に残っているシーンがある。雪が降ると、鉄道にはラッセル車が何度も走り、ロータリー車も走り、ジョルダンだマックレーだと興奮したものだ。

除雪車の活動を見るよりも印象的なのは、それらが走った後での人海戦術の除雪作業だ。Vの字の底に線路がある状態になった急角度の壁を切り崩して河岸段丘状にする。ラッセル車が飛ばす雪を受ける余地が必要だからなのだろう。凸型の底を抜いて逆さまにした状態にすると言えば解ってもらえるか。雪だから垂直な壁を作ることができる。足場の水平面は1m50位で垂直壁は3mにもなろうかという空間を線路沿いに作っていくのは臨時雇いの人夫さんだったのか工夫さんだったのか。その着実で美しい仕上がりには、子供心に大人の労働の尊さのようなものを感じたものだった。

この文をどのように締めくくるか思案している。徒労の中に尊さがあると言いたい訳ではない。危険予知の必要性を説きたいのだ。誰も騒がないから大丈夫だろうと何もしないで大事になることがある。誰かが間違った情報を叫んで流言蜚語を引き起こし悲劇が起きることもある。たった一人が尖端的な行動を起こし、それが伝播して災害を最小限にすることもある。リーダーが誤ることもあれば、リーダーがリーダーたる所を示すこともあるだろう。何はともあれ個々が日頃からシミュレーションをやっておくに限るのだ。

ここで思い出したことをひとつ。子供の頃、よく一緒に登下校していた同級生がいた。雨上がりに二人で歩いていて、行く手からトラックがやってきた。国道だったがまだ舗装はされておらず水溜りがいくつもあった。二人は並んで歩いていたのだが、私は車が泥水をはねたらモロにかぶる位置にいた。車が来る、タイヤを見る、水溜りがある、泥水を必ずはねる・・と見た瞬間、私は友人を盾にして隠れた。友人は泥水をまともにかぶり、私は全く無事だった。友人は穏やかな性格だったので笑い合っただけだったが、私たちの間には微妙な亀裂が入ったに違いない。キヨシくん、あの時は済まなかった。いつか謝りたいと思う。

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