幼いシマヘビが居たすぐそばの材木を裏返したら、今度はこいつがいた。
身を縮めているから、こんなにも太いのだろうが、長さが6㎝余りで太さは最大直径3㎝というところか。
湿ったところにしか居られないやつだから、材木が湿気てカビの類がはびこっているこの場所で冬越しをする段取りがついていたのだろう。
ふだんなら、ナメクジは見つけしだい踏んで、すり潰すのだけれど、こいつにはそれができなかった。
哀れみを感じたわけではなく、踏んだときの感触を思って腰が引けただけのこと。
地獄に落ちてから、ナメクジのねばねばで救ってもらわなくてもいい。
何となく置きっぱなしになってあるコンクリートブロックをどけたら、冬眠体勢のこいつがいた。
見たことのない柄なので、何モノかわからない。
しばらくキョトンとしていたのは、半冬眠状態だったからか。
普通の人の小指ほどしかない細さで、うごきだしたときの目見当では体長40センチほど。
毒を持つマムシやヤマカガシの模様ではない。
もしかしたら、これが人の尻の穴にもぐるといううわさのジムグリかも知れない。
それとも、温暖化の影響による、外来種の進出か。
毒蛇でないとはかぎらないので、とりあえずしゃがんで画像を撮り、家で検索してみようと立ち上がったら、スルスルと動きだして草むらに消えた。
調べてみたら、何ということもない、ただのシマヘビの子ども。
毒を持っていそうな、危ない雰囲気を持っているだけで、多少なりと身を守れるのだろう。
幼いときは横縞で、成長するにつれて縦縞になるのだろうか。
経年変化を見てみたいもの。
一昨日書いた記事の続きになるのだが、川向こうの景色を観たあとで戻る途中にこんなモニュメントを見た。
銘板に書かれた文章にここの地名が入っているのだが、特殊な地名であるという自覚がないままに書かれているように思われる。
真人(まっと)というのはすごい地名ではないか。
小学生のときに、アイヌ人が自分たちの文化を紹介するために学校でパフォーマンスを披露してくれた。
その中で、まっと(真人)という地名はアイヌのモノだと言っていた。
信濃川(しなのがわ)はアイヌの言い方なら、シナノベツとなる・・などとも言っていた。
本当だったのだろうか!?
私の記憶は間違いない、と言い張る自信はない。
半世紀以上も前の記憶で他人に話したこともない事だけれど、最近になってその真人に住む人と知り合いになれたことが何となく嬉しい。
雪国の神社は、狛犬も雪囲いをする。
雪が静かに降り積もり、暖かい時は上から順に規則正しく溶けたなら、こんなことをする必要はない。
屋根からの自然落下もあれば、風が巻いて吹き溜まりになることもある。
偏った積もり方をしたり、密度(堅さ)の違う層ができたりして、偏った圧力がかかる。
春先に晴れて表面が溶けたあと、急激な寒さで氷点下になると積雪表面がカチカチに凍る。
その後で温度が上がると、締まった重い雪がぶら下がるような状態となり、いろんなところを部分的に強い力で引っ張るらしい。
石灯篭なんかも丸太で原始的なテントをつくるように囲わないと、倒れてしまう。
ウチの石灯籠もいつの冬に倒れたのか、そのままになっている。
直そうにも笠石(というのかな?)が重すぎて一人二人の人力ではどうにもならない。
雪が降らなかったら無駄になる徒労仕事をしないと、現状維持できない。
雪国に住む人はそれぞれが、想像力を働かせ、創意工夫を重ねつつ、仕方なしに冬と対決する準備をする。
追記;菊の御紋が異様に光っているとの指摘で、よく見ると何だか象の目のように見えてきた。花びらを数えたら16枚。それなら伊勢神宮系なのか。調べてみたいとも思わないけれど。
こういう山里は、美しい紅葉に染まることがない。
ナナカマドがあるような高度なら、美しい色合いに染まるのだけれど、落葉樹が少なくて杉ばかりの山里は、こんな地味な秋。
山好きの人に4輪駆動の軽自動車で、山を案内してもらった。
私の生家とは信濃川を挟んだ対岸の地で、子どもの頃にさんざん眺めていた場所に行くことができた。
遠望した景色とは大違いに奥行きのある複雑な地形だった。
そのウチのひとつがここ。
いい景色ではあるけれど、色合いの素晴らしさや、極端さはない。
こんな谷にも、人が住み続けてきたのかという驚きばかり。
平家の落人伝説がある隠れ里かも知れない。
山越えの253号線を行くと、景色の良いところに駐車スペースが設けてあったりして、粋を感じる。
素晴らしいのに、撮ってみるとそうでもない。
中途半端で何ということもない早朝だったからか。
稲刈り後だったからか。
紅葉が始まったばかりだからか。
光の加減を何時間も待たないと、景色の良さとして撮れない場所なのか。
細工すれば良くなるのか。
切り取り方に工夫が必要なのか。
とにかく実際はもっと良かったのにと、残念な結果。
仕事上の付き合いの人から、またまた奥さま手作りのシフォンケーキをいただいた。
プロ級というか、セミプロというか、完全にプロというか。
どういうふうに、抹茶の波模様をつくるのだろう。
混ぜすぎない止め時がコツか。
周りにチョチョイのチョイと、こんなケーキを作るヒトはいない。
ウチで買うことは、まず考えられないので、よそさまから頂いて初めて食べられるモノ。
むかし、父がときどき珍しい頂きものを『とうらいもの』と呼んで嬉しそうにしていた。
変換すれば『到来物』と出てくる。
学校で遣唐使を習ったときに、父が『唐からやってきた珍しい物』とはしゃいでいたのではないかと思ったものだ。
はたしてどうだったのか、確かめようがないけれど気になる。
この実も赤くて、こちらは美味しそうに見える。
一粒だけを見たら、グミみたいだ。
葉っぱがそれなりの紅葉をしている。
これも来春咲くつぼみが左右にひかえている。
実を熟させ、来春のつぼみも用意してから、葉は散るのか。
『葉は』の『はは』が『母』と最初に変換された。
ははあわれ。
花のあと、薄緑色のコブの連なりができて、次第に赤み(桃色に近い)がさしていたのが弾けた。
不気味に赤むけだから、触るのは控えて、撮るにとどめた。
右側向こうには、来春咲く砲弾型のつぼみが見える。
冬になる前から、つぼみができるのか。
寒さをしのぐためだろう、まるでフェルト。
これは、よその家で使われていたドアの取っ手。
一切合切廃棄処分されるところを、貧乏性の男の目に止まり、中途半端に捨て置かれている。
アンティークを大切にするイギリスならば、そのての市で相応の値がつく良い品ではないだろうか。
毎日毎日人の手に握られ、手垢や汗や脂で、味がでた代物。
これを生かすには、他との調和も考えながら、重厚な扉が必要かもしれない。
こういう取っ手は、ふつう握り玉を回してドア枠に入っているチョボを引っ込め、ドアを開ける。
これは、チョボがなくて握りだけ。
何か良い取っ手でもないかな、という機会が訪れ、こいつを思いだした。
錠前は室内から閂で、外からの錠はなし。
付けてから載せたら良いのに、これでいこう変更は無しと、退路を断つためにいま。
これが自然にぶらさがっているのを見るのは、たぶん二度目だ。
子どものころからなじみのアケビかと思ったが、色合いが少し違う。
アケビなら裂けていてもよさそうな感じなのに丸いままで、葉っぱが決定的に違う。
パッションフルーツかとも思ったが、丸さや艶が違う。
カラスウリとは色も大きさも違いすぎる。
ムベで間違いないだろう。
いつも通る近所の目線の高い位置にあったのを発見した。
春になったら、これがムベの花かと、気づくかどうか。
郁子という一度も会ったことのない従姉がいる。
見惚れるほどにきれいな字で書かれた、私の母宛の手紙を読んだことがある。
母の葬式の合間に、俳句をやっている義伯母と郁子の話が出て、郁子は『ムベ』と読むと季語なのだと教えてもらった。
秋の季語なのかと思い、この度この機会に調べた。
郁子の花が春の季語なら、郁子の実が秋の季語だとか、むべなるかな。
石蕗と書かかれる漢字を見れば、やはりと納得できるほどに強い種類だ。
繁茂するというほどではないけれど、着実に増えていく。
綿毛にぶら下がる種は風に吹かれて飛び、お隣の玉石敷きの犬走りにも芽をだす。
幸いなことに、それを喜んでくれているので、すくわれる。
初冬に咲くはずの花。
まだ十月秋盛りの紅葉さえまだなのに、気分は初冬。
モミジの葉っぱの色づきが遅すぎるのか、ツワブキの開花が早すぎるのか、それぞれの生理がずれてしまったのか。
今度の冬も寒い冬になるらしい。
私の田舎は3mの積雪が当たり前の豪雪地帯。
同じ冬でもいろんな顔を見せる。
湿った重い雪が降ると、木の先端が折れる。
かなり降雪があっても、連続して降らなければ屋根の雪下ろしをしなくてもいい。
降雪積雪が少なくても、低温日が続いて雪解けが遅れることもある。
工務店の親方に聞いたのだけれど、雪国の建築は積雪に耐える構造になっているので、ぺしゃんこにつぶれることはあまりないとのこと。
それよりも軒先が折れてしまうことを気遣う必要があるそうだ。
地震や積雪で家がつぶれるほどのときは、ねじれてつぶれる事が多いとか。
ウチはつぶれることをはあまり心配しないでもよいと言ってもらっているのだが、とにかく屋根の雪下ろし代金が少なくて済む冬になることを願うばかり。
ツワブキのことを書き始めたのに、とりとめなくツブヤキになってしまった。
画像のストックがなくなって、何かないかと見回したら、これが眼にとまった。
最高に見栄えがする時期を過ぎていたので、アングルに悩んだ。
来年おなじような機会があったら、全部の花が生き生きしている状態の、この設定で撮りなおしてみたい。
このりっぱなホトトギスは、まさか買ったものではないだろうし、かといって捧げるようにもらったのではないだろうと思いながら誰からかと聞けば、近所の生協仲間からとのこと。
ほかの花瓶にも生けてあった。
自分の庭でこんなにも堂々たるホトトギスを、よそに何本も与えるほど育てることができるのかとビックリポン。
NHKの連続テレビ小説『あさが来た』でヒロインが言う「ビックリポン」が出た。
ところどころで強い香りに遭遇し、地べたに散り敷くだいだい色の溜まりを見るようになった。
金木犀は樹形のこんもり具合に較べ、花が小さい。
咲いている花としては目立たないのにインパクトは強い。
一方赤とんぼ、赤とんぼとは言い慣わしていても、何々アカネという名で、いくつか種類があるそうだ。
田舎ならいつでも林の中で見かけるけれど、この真っ赤なとんぼが秋になると増えてくる気がする。
金木犀と赤とんぼをうまく一度に撮ることができなくて、ピントも合わせられなくて、こんなトリミングをしてみた。
追記;この真っ赤な赤とんぼは、どうやら単独でいることが多いナツアカネ。
秋空を覆うほど群れて飛ぶことがある赤とんぼは、少し黄色っぽいアキアカネ。
林の中に小さな社があった。
どういう由来やら縁起やら、古いものではなさそうだ。
つい最近というわけではなさそうでありながら、しっかりと建っていて、水平垂直が保たれ、風化していない。
こういうのが建っていると、小ぶりでも、ある雰囲気をかもしだす。
扉を開けたら、あっと驚くサプライズが用意されている、なら面白いけれど、そういうことはないのだろう。
最近の若者はやるのかどうか、お堂の中に置いてある何かを持ってくるようにという約束に怖い仕掛けがあって、というような肝だめしにうってつけだ。
石積みがしっかりしている。
追記:ひまひまに、文章を手直ししたり、付け加えたり、てにをはを削ったり換えたりしている。
他の日のものも気づけばついつい放っておけない。