鳥瞰ニュース

空にいるような軽い気分で・・・

しゃべり方観察(その7)

2008年04月30日 09時54分56秒 | 言葉の世界
うなりしゃべり、がなりしゃべり、ねこなでしゃべり、おねがいしゃべり、したりしゃべり
こごとしゃべり、ぱずるしゃべり、はきすてしゃべり、のうがきしゃべり、てんびんしゃべり

《ぱずるしゃべり》
少し前まで携帯電話での会話は、要点だけを早口にしゃべらなければと焦りながら分秒を競った。わたしは効率よく経済的に話すセンスがない。言い間違いをして訂正する、言い換えを何度もする、あげくは的確な表現がみつからなくて立ち往生する、話があっちに飛びこっちに戻り、時間的経過も順序がバラバラで連ならない、焦っているうちに呂律まで回らなくなる。つまりわたしのしゃべりはパズルのピース状に分かれていて、聞いている相手は自分でそれを一つの絵に組み合わせなければならないのだ。ご苦労様です。

それでも、ほぼ毎日携帯電話で話をしなくてはならない。箇条書きの要領で出来るだけ文章を短く句読点をまめに・・というようなことを前もって頭のなかでイメージして電話を掛けるのだが、相手のその時々の状態も違ったり、いきなり思いがけない質問をされたり、反応が予想外であったりすると、話がぱずるしゃべりになってヨレヨレになる。

そこで最近は仕事の話でもプライベートでも、こちらからの発信はすべて携帯メールでやるようにしている。向こうからの電話は、これはもう相手の電話料金になるわけで、初めからこちらを知った上での覚悟の上だろうから不都合は我慢してもらうしかない。でもできるだけ一語一語無駄なくしゃべるようにしているつもりだ。努力もしているつもりだ。

こちらが、どんなにひどいぱずるしゃべりをしても、てきぱきとフォローして理解して話をすすめてくれる人がいる。聞き上手というよりすすめ上手とでも言うのだろうか。それぞれの仕事のプロは想定問答集が頭に入っているからだろう。

全面的に受け入れて想像力豊にこちらの言いたいことを引き出してまとめてくれるなら、それはヒーリング系ボランティアを自然にやっているということにもなろうか。ところが上手く話を聞きながらいつのまにかあるところに誘導してしまうような詐欺商売もはびこっているようだ。今日のニュースで言っていたが、年金課や税務署の職員を名乗って言葉巧みに騙す振り込め詐欺が急増しているそうだ。

話は戻るが、ぱずるしゃべりのわたしは本当に携帯メールとインターネットの普及が有難かった。一方的な独り言が多いのだけれど、自分の中のピースを一応まとまりのある絵にしようと時間を盗んでは打込んでいる。蛇足ながら『打込んでいる』はタイピングをする動作のことだ。求道的に打込んでいるのではない。
 (つづく)

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渋谷・夫殺害事件の判決について思ったこと

2008年04月29日 13時58分45秒 | 個人的主張など
殺人と死体損壊・遺棄の罪に問われた被告に東京地裁は懲役15年(求刑懲役20年)の判決を言い渡した。精神鑑定の評価が焦点だったが、動機や犯行前後の行動から「完全責任能力があった」と判断して鑑定結果を採用せず、起訴事実をいずれも認定した。その上で「夫の頭部を執拗に殴打し続け、遺体を5つに切断し遺棄するなど残酷な犯行。夫が生きているように装うメールを送り、息子の安否を気遣う両親の気持ちを踏みにじった」と述べた。弁護人は「責任能力の判断には精神鑑定を尊重すべきだとした25日の最高裁判決に反し不当だ」と批判。控訴については「するべきだと思うが、本人はこれまで控訴しないと言っており、相談したい」と話した。(静岡新聞より抜粋)

この判決について、懲役15年が長いか短いか、そして精神鑑定の結果による責任能力の有無、死体損壊遺棄の猟奇性に関心が行きがちだが、なぜこの事件は起きたのかがもっと世に知られるべきだと思った。インターネットなら簡単に調べることが出来る。

公判では明らかになっていることだが、この被告は父親から永い間DVを受け、高校や大学も父親が決めた学校に行かされるという育ち方をしている。そして結婚した相手がまた暴力を振るう父親と同じタイプだったのだ。その被害から逃れるシェルターに避難さえしているのに、その後夫の元にもどり又DVの被害を受け、その被害を隠蔽する《囲い込み》が夫によってなされ支配され精神を病んでいったのだ。

なぜ女性評論家や女性キャスターたちは声高にこの事件をとりあげることをしないのだろう。これは男の強権発動に対して女が正当防衛としての逆襲をした事件ではないか?これ以上耐えられないという身の危険を感じた女が逃げることもかなわず起こした行動がたまたま殺人事件になってしまったということではないのか?

事件後の隠ぺい工作などについても、精神鑑定医の証言で明らかになっている。幻覚を見るような異常な精神状態において起きた殺人事件だ。暴力を自分に振るう人間が生きている時の状態とその人間が死んだ(いない)状態とでかなり違う精神状態なのではないだろうか? 連続しているようで、まったく別状況になってしまった不連続の事件なのではないかと思うのだ。

被告はどのような判決が出ようと控訴しない考えらしい。それは何故か。判決などどうでも良いということなのだろう。自分が犯してしまった殺人事件について、それを避ける道はなかったか、よりよい方法はなかったかというような反省や悔恨はあまりないのだろう。自分を支配し暴力を振るう人間がいなくなったということで安らかになっているからだ。おそらく初めての精神的安寧を感じているからだ。

この事件では被害者の夫がどういう家庭に育ってDVをする人間になったかは問題にされない。被害者を責めるのはタブーかも知れないが、DVをするような人間にしてしまったという反省や自責などの声が少しも出てこないのは何故だろう。被告は幼い頃から連続的被害者であったのが一転加害者だ。そのとまどいを癒すのには何が必要なのだろう。心神喪失として無罪になっていたとしたらそれも酷かも知れないが、懲役15年というのはあんまりだ。フローチャートに従ったような機械的判決だと思う。
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しゃべり方観察(その6)

2008年04月28日 21時29分05秒 | 言葉の世界
うなりしゃべり、がなりしゃべり、ねこなでしゃべり、おねがいしゃべり、したりしゃべり
こごとしゃべり、ぱずるしゃべり、はきすてしゃべり、のうがきしゃべり、てんびんしゃべり

《こごとしゃべり》
こごとしゃべりと前回のしたりしゃべりは類似しているようで実は正反対の面の方が多い。したりしゃべりは内向きの陶酔であり、こごとしゃべりは外向きの気晴らしだ。外向きの外はおとなしい弱者相手に限られる。したりしゃべりは内向きでありながら相手は多数のことが多く、こごとしゃべりは外向きだが、相手はほとんど一人だ。

私の母がこんなことを語ってくれたことがある。祖母は母が幼少の頃、ワルイ子になると『そうかそうか、そういうワルイことばかりしてるのなら、私はお遍路さんになってお前がイイ子になるように巡礼するから・・・』とよく言ったとの事だ。方言の絶妙な小言モードで言ったらしい。そして母は『なんで、こっけ(こんな)に自分はワリー子なんだろと、切なくてどうしょもなかったてー』と眼をしょぼしょぼさせたのだった。

その母は出来の悪い思春期の末っ子に対してはいつもいつもこごとしゃべりなのだった。そして私はそれを、ただじっと聞くというマゾヒズムを楽しんでいたのだ。ところが自分が親になって子供に何かまとまったことを言う時にこごとしゃべりになっていて、《あ、嫌だな》と思うことがある。よほど反面教師として自覚してないと出てしまうものなのだろう。

話し方、呼吸法、人との付き合い方等々多くのニュアンスが代々伝わっているのだろう。親の模倣をすることから成長が始まるのだろうから当然と言えば当然の話ではあるけれど、子供にもこごとしゃべりをはじめとして多くの嫌な面が伝わってしまっているのかも知れないと思うと忸怩たるものがある。
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監視カメラ映像のこと

2008年04月27日 05時36分00秒 | 個人的主張など
ある地方の街でプランターの何十本だか何百本だかのチューリップが花を切り落とされた。類似のことが他所でもあって、マスコミが一斉にとりあげた。そして、防犯カメラに映った映像が全国放送で流され、ユーチューブでも見られるようになっている。モノクロ画像の連続でパラパラしたものだが一応映像だ。こういう映像は多少荒くても決定的な証拠となって、身近な人間ならほぼ特定できるだろう。心当たりの人は情報を・・・と通報(密告)の勧めまでもやっていた。

結論から書こう。本当に身震いするほど恐ろしい。監視社会になっている事が。マスコミ各社がこんなことを一斉に取り上げ、テレビ放映してしまうことが。そして警察はマスコミに踊らされるように、誘導された世論に後押しされるように、警戒態勢を敷いて犯人逮捕を目指し、チューリップ一本を抜いた人間さえも逮捕して世に晒す。

どうして日本のマスコミは大人の対応ができないのだろう。子供じみた軽犯罪に対してこのヒステリー状態は何なのだろう。いけにえを探し回っている雰囲気にあっては、あらぬ疑いをかけられる人も出てくるだろう。疑心暗鬼を行政とマスコミが協力して作り上げてどうする。

もっと取り上げるべき巨悪はいくらでもあるだろうに。後期高齢者医療制度にしたって、なぜ前もってのシミュレーションができなかったのだろう。あれもこれもそれもだ。

四ヶ月ほど前のことだが、歓楽街が隣り合わせになっている繁華街に早朝から行く用があった。冬の彩りにポインセチアのプランターが歩道に並べられていた。その内の4~5鉢が商店のシャッターに投げつけられたり、倒されたりして無残に散らばっていた。吐しゃ物まであって、酔っ払いの仕業というのがあきらかだった。これはマスコミに取り上げられることもなく、「しょうがないなぁ酔っ払いは・・・」で鉢も元通りにされ、片づけられた。これが大人の対応だ。やんわりとした緩さが必要なのだ。

最近、小学校の登下校時に交差点などの要所要所にリタイアした人たちが子供達を見守っている。そろいの蛍光色のジャンパーを着て『見守り隊』などとプリントされていたりする。見守りという事なら、子供達の安全に役立ち、見守る方にはボランティアとしての張り合いも満足も得られ、それはそれで一石二鳥なのだろう。しかしこれが監視にならないように切に望みたい。

《監視体制と集団ヒステリー状態》というタイトルで書こうと思ったのだが、例証をあげて考察することができない。思いつくままにこんな形でしか書けないのが残念だ。全体主義やナチズムまでもっていけたらとまでは考えなかったが、そこまでの論に発展させることだってその気になればできるかも知れない。

余談になるのだが、先日たまたま仲代達也、三船敏郎、新珠三千代の出演している映画『大菩薩峠』をテレビで途中からだが観た。仲代演じる机竜之助の鬼気迫る殺陣がすさまじい。心の闇をあのような映像にしたのはすごいなと感じた。そしてネットの青空文庫で『大菩薩峠』を読み始めた。

理性で抑えてはいても、大抵の人間には、特に男には『大菩薩峠』の竜之助のような心の闇が心象風景としてあるのではないかと思う。それが理知の境界を踏み越えてしまって傘を振り回しチューリップをなぎ払うようなことを時に起こすこともある。何だか感情移入してしまいそうだ。 

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しゃべり方観察(その5)

2008年04月25日 20時25分58秒 | 言葉の世界
うなりしゃべり、がなりしゃべり、ねこなでしゃべり、おねがいしゃべり、したりしゃべり
こごとしゃべり、ぱずるしゃべり、はきすてしゃべり、のうがきしゃべり、てんびんしゃべり

《したりしゃべり》
したりしゃべりは講演の演者によくあるしゃべり方だ。特に中高生などに対して「夢は強く思っていたら必ずかなう・・・」なんて熱っぽく語る成功者(?)の話法だ。『自分を見ろ!こんなにも成功して、母校の後輩に教訓を垂れているではないか!努力して運を掴んで夢をかなえてみろ!夢は必ずかなうと言っておこう。現実には万に一つもないが。どうだ私を見上げるんだ。あこがれるだろう成功者に!!』とたぶん想い、自分に酔っているに違いない人を今までにかなり見た。「夢は必ずかなう」などと、どういう神経で言うのだろう、罪作りな言い様である。

バブル期の頃だが、ある会社のお客さん感謝デーのような会合で大蔵官僚だという税務署長の講演があった。経済の先行きとか業界に関連することなどは有るか無しかで、ほとんどは東大から大蔵省へと進んだキャリア歴や国費での海外留学といった自慢話に終始した。その中のひとつのエピソードには唖然とした。話し振りを覚えているので再現してみよう。『エイズはアルコールに弱(よお)う御座います。あーいうものは気合でどうにでもなるのでございまして、事前にでございますね、アルコール分の強いお酒を口に含みまして、ぷーっと吹き付けるのでございます。わたくしなぞは色々ありましたが、そのやりかたで、まったく感染することもなく今日に至っております』としたり顔なのであった。アホくさ!

もうひとつ思い出した講演がある。高校生の頃のことでもう何十年も前なのだが、母校の一期生だか二期生だかというエラくなった先輩が全校生徒を前に話した内でずっと忘れられない話題がある。『すぐに中国の時代がくる・・・何と言っても広い国土と何億という人口だ。中国に目を向けなさい』というもので、私は時々思い出してはまだだなぁと思っていたのだった。「先輩!ようやく、そんな気配です。あなたの『すぐ』はこんなにも時間がかかりましたよ・・・先見の明も早すぎると光りません」

したりしゃべりは、してやったりという顔でしゃべるというイメージなのだ。でも、したり顔で辞書を引いてもネットで検索しても『してやったり』という説明は出てこない。したりは為(し)たりだそうだ。些細な違いにはこだわらないでおこう。したりしゃべりの本人は良い教師を演じているつもりであり、それを受けている方は反面教師として観ていることが多々あるのだと踏んでいる。一方的に片方がしゃべり、片方は黙って聞いているのであれば、それはそれで良い関係なのかも知れない。と、これもしたりしゃべりか。
(つづく・・・・そろそろ中休みするかも)


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しゃべり方観察(その4)

2008年04月24日 18時27分33秒 | 言葉の世界
うなりしゃべり、がなりしゃべり、ねこなでしゃべり、おねがいしゃべり、したりしゃべり
こごとしゃべり、ぱずるしゃべり、はきすてしゃべり、のうがきしゃべり、てんびんしゃべり

《おねがいしゃべり》
何だか言いにくそうに含むところもありそうに、つっかえつっかえ相手の様子を注意深くさぐりながらしゃべる人がいる。本当のところは、いつも的確な言葉はないかと言葉の引き出しをさぐっているしゃべり方なのかも知れない。それをおねがいしゃべりと名づけよう。

相手をして聞いていると、何が飛び出してくるのかとワクワクしたりイライラしたりするのである。ゆったりとした気分で何の負い目も引け目もない状態ならば、鷹揚に『何でも言ってみなさい・・・どんなお願いでもおねだりでも聞くにやぶさかではない・・・多少のことなら叶えてもあげようじゃないか』てなもんだ。

しかし、こちらに余裕がない状態だと、『かいつまんで言うとこういうこと?』などとついつい突っ込みを入れたくなる。話し始めたはいいけれど、じっと聞いていても収まりがつかなくて話が消えてしまったりする。『オチは何?』と聞くのはヤボだ。聞く方が話をまとめてやって着地をかわりにやってあげなくてはならないのだ。

おそらく先天的に不遇な人なのだろうと踏んでいる。しかし不遇を最強の武器にしている人だっているのではないだろうか。ドイツ製の高級車を運転している濃い目のお化粧の方! あなた不遇じゃないですか? 余計なお世話ですね! スミマセン。
(つづく・・・だろうか)


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しゃべり方観察(その3)

2008年04月23日 21時56分16秒 | 言葉の世界
うなりしゃべり、がなりしゃべり、ねこなでしゃべり、おねがいしゃべり、したりしゃべり
こごとしゃべり、ぱずるしゃべり、はきすてしゃべり、のうがきしゃべり、てんびんしゃべり

《ねこなでしゃべり》
これは偶然ある会社のオフィスで、電話を次々に掛けている人に感じたしゃべり方だ。犬と違って猫はいきなり飼い主にさえ爪を出して引っかくことがある。それで、猫に接するときには『爪を出さないでね』『いきなり引っかかないでね』という気持ちがあって、ねこなで声になるのだろう。たぶん。

うなりしゃべりとは正反対のしゃべり方が、ねこなでしゃべりだ。敵意はないのですよ・・と上ずった声で優しく語り掛けながら、相手の様子を全アンテナを駆使してさぐる。最終目的は、おのれの意のままに手なずけようということだ。

営業活動で接待するときのことを面白可笑しく話してくれた人がいた。曰く『担当者に這いながら寄っていって、ほんでベンチャラ言いながら擦り寄ってお酌するんですわ!ほんま、その姿だけは嫁はんに見せたないですわ』と言いつつ、でも嬉しそうでもあるのだ。つまり手なずけて商売が成り立っているからなのだろう。

ねこなでしゃべりには、ときどきは爪を出してやらなければならない。そうしないとせっかくの上ずった演技力に磨きがかからない。これ見よがしに爪とぎをして見せたりもしたい。

ねこなでしゃべりに対してうなりしゃべりをしたらあまりに可哀想だ。猫を相手にしてるつもりが、犬だったらツライだろう。ねこなでしゃべりには、猫になったつもりで対するのが礼儀に違いないと踏んでいる。
(つづく・・・はず)

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しゃべり方観察(その2)

2008年04月22日 19時05分39秒 | 言葉の世界
うなりしゃべり、がなりしゃべり、ねこなでしゃべり、おねがいしゃべり、したりしゃべり
こごとしゃべり、ぱずるしゃべり、はきすてしゃべり、のうがきしゃべり、てんびんしゃべり


《がなりしゃべり》
これはもう、ある政治家でも、落語家でも、近所にいる嫌われ者のだれかれでも、昔の学校の教師でも誰でも一人や二人すぐに想像できるだろう。ある特定の個人の『がなり』を思いだすだけで体調に変化を来たしてしまう・・・ということだってあるだろう、たぶん。

朴訥とした話し振りだったのが急にがなりしゃべりになる人がいる。自分の言いたいことがかたまりになって現れたときに、そのかたまりを全部一気にしゃべらないではいられない人なのだ。周囲の空気が多少変わろうが、全体が少しでも欠けてはならじと必死の(パッチどころか)パニックになって、まくしたてる。

もちろん気分も内容も『もう我慢がならん』症候群の発作状態。相手を圧倒して自分だけスッキリしようという魂胆丸見えの少し可哀想な人(状態)だ。がなりしゃべりは協調性欠落の状態なのだろう。テレビで各党政治家の討論番組などを観ていて、その典型をよく見る。相手が話してるのを黙って最後まで聞けない人が多い。それでいて「黙って聞きなさい」と自分は言ってばかり。

国民性や風土に広げて考察することはしたくない。実はできない。鳥瞰ニュースと謳いながらも身の丈の観察でしかないから勝手な結論になるのだがこの辺りで結論を出そう。「がなりしゃべり」は暴力である。しかし同情の余地もある。がなりしゃべりをする人は、運悪くウンコばっかり踏んでるタイプの人なのだろうと踏んでいる。
    (つづく・・か)


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しゃべり方観察(その1)

2008年04月21日 18時44分01秒 | 言葉の世界
うなりしゃべり、がなりしゃべり、ねこなでしゃべり、おねがいしゃべり、したりしゃべり
こごとしゃべり、ぱずるしゃべり、はきすてしゃべり、のうがきしゃべり、てんびんしゃべり

テレビや映画で見る人たち、自分の周りの人たち、記憶に残っている人たちのしゃべり方を何となく分類をしてみたら、今のところ上記の10種類になった。二つを使い分けたり、話す相手によって状況によってどうにでも変わる人もいたり、折衷型だったりするけれど、ひとつひとつ勝手な解説をしてみよう。

《うなりしゃべり》
これはあるテレビ番組にゲスト出演していた民間会社社長のしゃべり方に、『うなりしゃべりだな!』と感じた。普通にしゃべっているし、話し方もまぁまぁソフトで説明も過不足なく上手いのだが、うなり声が入っている感じなのだ。

うなりは犬の威嚇だ。少しでも変な動きをしたら吠えるぞ噛みつくぞというアピールだ。うなりしゃべりは異論を受け付けない威嚇が込められている・・・ような感じがするのだ。自信に満ち溢れているのか、それとも唸りながらやって来たのが習い姓になってしまったのか。運良く成功した社長タイプに多いしゃべり方かも知れないと踏んでいる。

 (その10まで続けるつもり・・途中で気が変わるかも知れないけれど・・つづく)

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「私の頭の中の消しゴム」(韓国映画)を観て思ったこと。(すこしネタバレ)

2008年04月20日 00時02分42秒 | テレビ・ネット・映画
これもまた偶然BS放送で観た。ヒロインのスジン役と相手のチョルス役が、単に女と男という以上に対照的な際立ち方で見事なラブ・ストーリーだった。顔が大写しになるシーンが多用されていたが、その時の二人の眼差し、口元、表情の微妙な演技が実に見事なのだ。アップに堪えるというのはこういうことか・・と思った。

裕福な家庭で恵まれた境遇の美女に、自分を生んだ母親から捨てられ一人で生きて来たと語る荒んだ野獣が徐々に心を開いていく。スジン演じる女優が実にはかなげで育ちがよさそうで美しい。対するチョルス役の野獣は、がっしりと大きくふてぶてしい男振りが頼もしい。観ていて自然に両方に感情移入してしまっていた。

そして切ないのが、稀な例だという若年性のアルツハイマーの症状がすすむスジンの現実を知って動揺するチョルスの演技だ。現実を受け入れ難くて、無理な希望的未来を語ったりするやるせなさも胸を打つ。

記憶が喪われていくという感覚はどんなものなのだろう。縁あって認知症にはかかわりがあった。将来自分自身が認知症になる可能性がある。認知症患者との付き合いは未知との遭遇だ。予期せぬことが起り、その場その場で試される。

この映画のラストはとても印象的だった。愛し合ったことを想い出して欲しい、自分を判って欲しい、そして一度も言わないでしまった『愛してる』を伝えたいチョルス。初めての出会いのファミリー・マートから始めるのだ。ファミリー・マートというのがこれ又計算された設定なんだろうか?

想い出して欲しいというのは患者への気配りのない、自分のエゴでしかないわけで、現実にはあり得ない展開のような気がしたけれど、感動的なラストはラブ・ストーリーとして上手い仕上げだった。とても心温まる映画を観た。いや、これはよい映画ミダ!

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『メタボ猿』と『愛を与えたい症候群』

2008年04月18日 18時06分45秒 | 個人的主張など
【堺市が管理する大浜公園(同市堺区)の猿山に住むアカゲザルが、集団肥満に陥っている。常駐する管理人も金網もないため、見物客から餌をもらい放題になっているのが原因らしい。おなかはだらんと垂れ下がり、ついたあだ名は「メタボ猿」。市大浜公園事務所は昨年からダイエット食に変えたが、焼け石に水だ。
猿山の周りには「害になる食べ物を与えないこと」と書かれた看板が四つあるが、毎日10~20人がパンや菓子を投げ与えている。近所の女性は、朝食の残飯やバナナ、かりん糖、ピーナツなどをやるのが日課という。「大きな猿に餌を取られる小さな猿がかわいそうで」
日本モンキーセンター(愛知県)の加藤章園長によると、10年ほど前から猿山の周囲を透明なプラスチック製の壁で覆って餌を投げ込めないようにしたり、専用の餌を限定販売したりと見物客の餌やり対策が進んだ。「まだそんな管理をしている公園があったとは。無制限に食べ物が与えられる状況を放置しているのは明らかな虐待。早く手を打つべきだ」と忠告する。 
 長谷川昌治・大浜公園事務所長は「食べ残しがなかったので餌の量や内容は適切だと思っていた」と話す。今年度中にも金網の設置などを含めた改修を検討するという。】asahi.comより抜粋


画像には何ともすごい体型の猿が映っている。昔、中学校でならった美術の本に高村光雲作の老いた猿を彫ったものが載っていた。芸術と現実の違いを思ったりする。だが現実は現実なりにすばらしい迫力で、何とも多くの示唆に富んでいるではないか。マスコミに取り上げられて、市の関係者にすれば『まいったな!困った!』状態だろう。しかし無制限に食べ物が与えられる状態を放置するのが虐待なのか? 何だか釈然としない。目くそ鼻くその気がしてしまうのだ。

猿は見ていて飽きないと言う人は多い。猿を見ながら、人の社会をのぞき自分の生き方を見たり自分の来し方を思い起こしたりしているのだろう(実は私がモデル)。すべての猿が肥満になっているのではなくて力の上位の猿がひどいらしい(もしかしたらオスだけ?)。飽食、怠惰、強欲、権力、独占、倦怠、その他多くの生きた比喩がサル山にはあるのだ、たぶん。小猿は活発で遊びまわり肥満になったりする暇がない。肥満の小猿がいたら、これはもう人間並みの堕落なのだ、たぶん。

猫おばさんと呼ばれる人がいる。猫好きが高じて野良猫を捨ておけない人達のことだ。大阪と奈良の境で目撃したことがある。車道脇で餌やりの用意をするおばさんと、その前方に距離をおいて猫が数匹『あ、これがそうか!』と思った。野良猫をつかまえては獣医に避妊手術をしてもらっている知人もいる。猫おじさんも見たことがある。ドバトやユリカモメに餌をやる人は、これはもうどこにでもいる。それが猿になっただけのこと。しかも心ならずもか計らずもか市民の娯楽のために飼われているサル山の猿だ。マスコミに取り上げられ、専門家?の警告があったとて、金をつぎ込んで何もかも窮屈にすることはない。いいではないか、このままで・・と思うのだ。

情が深くて、それを持て余してしまうような人がいる。赤ん坊を見たら「抱かして」と奪うように母親から抱き取る。赤ん坊を見ると乳房が張って痛くなる女の人さえいるのだからして・・。ペットとしての犬猫も家族としての想いから極端に擬人化した接し方をしている人も多い。衣食足りて礼節を知ると言うけれど、衣食足りて愛があふれている状態なのかも知れない。

飽愛(豊愛?あるいは満愛?)の時代なんです。愛を与えたい症候群なのです。愛のはけ口を閉ざさないで下さいな・・・。そんなもの、社会的に有意義な方に目を向けたらいいのに・・献血でも介護ボランティアでも何でもありますよ、人の役に立ちますよ、満足が得られますよ・・・と言うなかれ。愛はまったくもって現れ方は個人的で人それぞれ独特なんでありますからして・・・。
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「北京ヴァイオリン」を観て思ったこと(少しだけネタバレ)

2008年04月15日 23時14分39秒 | テレビ・ネット・映画
BSで何の予備知識もなく観たのだが、心温まるよい映画だった。同じく中国映画の「この櫂に手をそえて」を観た時の心持ちを思い出した。しかし「この櫂~」の子役の圧倒的な存在感ある演技力と比較すると、見劣りする気がした。

「北京ヴァイオリン」は現代中国が舞台だが、大掛かりなセットを用いるようなストーリーではないのでアクションシーンや大事故シーンがあるわけではないし何箇所かの同じ場所でのシーンが多い。まったくの素人としての感想だが、あまり金を掛けていない連続テレビドラマを縮小して映画仕様にしたというような印象を受けた。

良い映画だったのだ。そこそこ感動もしたのだ。けれども、ここはこうしたらいいのになぁ、あそこはもっとあれを強調してあーやったら・・・というような意見が自分の中にむくむくと湧いてくるのだ。名前のある登場人物は皆すばらしいキャラクターを演じていて、それぞれによかったのだけれど・・。

映画というのは沢山フィルムを回して、それを監督が切り貼りして完成させるらしいから、その完成品を試写してみないと、俳優はじめスタッフはどういう映画になったのか判らないのかも知れない・・・などと思ったりして、何だかすっかり監督気分にさせてくれる映画だ。もしかしたら、切り貼りの仕方でストーリーさえ変わってしまうのだろう・・・か。

そうだとしたら、というよりこの「北京ヴァイオリン」ではそうなのだろうと確信に近い感じを持った。観ている途中で、父親が二番目の先生に接近する時に話した事は作り話なのだろう・・と思ったのに、作り話ではなく真実という形で終わってしまった。実は作り話として映画を撮っていたけれど、監督が編集している間に、作り話としての部分を割愛してしまったのではないか・・・と思ったのだ。

作り話にした方が、ぐっと作品に深みが増すのになぁ・・・と自分が監督なら、こーしてあーして、そうしてというのを今楽しんでいる。それぞれのキャラクターに不満も不足もない。もっと沢山それぞれに演じさせて、長く深い作品にしたい・・・などと思ってしまうのだ。こんな風に思わせて楽しませてくれるのもそこそこすばらしい作品だからなのだろう。「北京ヴァイオリン」は余韻に浸るより、監督遊びを楽しませてくれる作品だ。


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「Mr.& Mrs.スミス」を観て思ったこと。(ネタバレ)

2008年04月13日 16時33分33秒 | テレビ・ネット・映画
殺し屋(すご腕ヒットマン)どうしの男女が偶然にお互いのことを全く知らないまま運命的な出会いをして一気に燃え上がり結婚してしまう。6年後に仮面夫婦となっていて二人でカウンセリングを受けいるのだが、その後互いの正体を知り殺し合いになり、両方の組織(闇の結社?)からの攻撃を受け、それを危うくかわしながらもその間に理解し合い感じ合い、最終場面ではカウンセラーの前に二人嬉しそうに座って『セックスの事を聞いてくれ!』なんて言うのだ。

こういうのをどういうジャンルに入れるのだろう。アクション映画の振りをしたラブ・コメディなんだろうか? カーチェイスにしても、爆破シーンにしても、アクションシーンにしても、CGなのか合成などの特撮なのか、スタントマンを使った実写なのか、これでもかこれでもかという位の無茶苦茶な破壊に次ぐ破壊だ。そして例によって名前のない兵隊脇役はコロコロ殺され、主役の二人は命がどんなにあっても足りない程の危機に際しても不死身の、有り得ないスーパーマン振りで打開していく。だから痛快で面白い。

アメリカの映画を観ていていつも感じるのは、どんな状況設定のどんな人間の組み合わせでも、夫婦や家族のテイストと言うのか、核のようなものは全く同じだということだ。教会で神父か牧師の前での結婚、そしてマリッジ・リング、芝生のある家、夕食を共にする家庭生活。

この映画では、外していた指輪を帰宅寸前に指に嵌めるというシーンが夫婦双方にあった。夫の方では衿に付いた口紅を拭くというシーンもあった。仮面夫婦になっていても、サイボーグ並のタフ人間であっても夫婦としての礼儀というのか作法というのか、古典的なスタンダードに縛られているのが面白い。そういう安定した生活ベースが必ずあるという前提がないと、映画として成立しなくなるのかも知れない。アメリカの映画は、観客を裏切る展開ばかりで緊張感を連続させてはいけないと考えての創り方が確立しているのだろうか。

以前に、周防監督の「それでもボクはやってない」の感想を書いたとき、映画にはウフフの温暖化効果を期待したい、と書いた。この映画は、リアリズムの点でハイテクの機器も爆発も衝突もリアルだが、現実には有り得ないストーリーで生々しくはない。大規模な仕掛け花火を観ているのとあまり変わらないという意味で、スカッとする娯楽映画だ。夫婦の会話のセリフもウフフだ。

しかし、観ているときは面白いがあまり心に残らない。前言を翻してしまうのだが、何か少し重い感じというか、胃がもたれて欲しいのだ。それで想いだすのが、ここでのブラッド・ピットが女たらしのチョイ悪役で出ていた「テルマ&ルイーズ」だ。あの映画のラストは感慨深かった。ロードムービーなのだが、物語が進行する間にはスカッとする部分もあるが、さまざまな事件展開のなかでこれではハッピーエンドには終われないというハラハラ感があり劇的なラストへと突き進んでいく。あの映画はフーと胃もたれがした。ブラピのチョイ悪もよかった。知的なスーザン・サランドンと官能的なジーナ・デイヴィスの対照的な役割と演技がよかった。ああ。

また横道にそれた。アンジェリーナ・ジョリー! いいですねぇ。あの唇が堪らない。何とか姉妹という巨乳姉妹が日本にいますが、あの姉の方はもしかして、アンジェリーナ・ジョリーを取り込んでるんだろうか? アクション映画で、高級コールガール実は国籍不明すご腕ヒット・ウーマンみたいな役を、巨乳キリキリ締め付けて演じさせてみたい・・・と思う監督はいないのだろうか? 観てみたい!


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「オリバー・ツイスト」を観て思ったこと。(ネタばれ)

2008年04月12日 15時08分02秒 | テレビ・ネット・映画
少し前になるがテレビでポランスキー監督の映画「オリバー・ツイスト」を観た。この映画は何十年も前に別の監督作品のものを観た。ディッケンズの小説が映画化されたものを続けてやっていたのかも知れない。と言うのは、「二都物語」を同時期に観たからだ。こちらの方は、えらく感激して本を買い夢中で読んだ。しかし「オリバー・ツイスト」の方は、主人公オリバーが少年スリ集団を率いるフェイギンの住み家に行って、スリ技を披露されて驚くシーンあたりしか覚えていなかった。「二都物語」が圧倒的に印象深くて「オリバー・ツイスト」は影薄く本も読んでいない。

映画を観に行くことは久しくなくて、テレビでやる時に偶然観るという程度の映画好きでしかないけれど、ポランスキーの映画は昔たまたま映画館で「チャイナ・タウン」を観たことがあった。ジャック・ニコルソンが、チョイ役で出た監督に小鼻を切られるシーンとラストのシーンが忘れられない。望遠レンズで、大きな夕陽が撮られ、それに向かって行く車に銃が発射され、車がゆっくりと止まり、車内が映される・・・。

そして今回、そのポランスキーが監督をした「オリバー・ツイスト」をこれも又たまたまテレビでやると知って期待を持って観たのだ。正直なところ、莫大な制作費をかけたという時代考証のセットに一番感銘を受けた。下層階級、中層階級、そして、上流貴族階級の感じがよく解った。あれが当時のイギリス、そしてヨーロッパ・・・という感じでわたしの記憶回路にしっかりインプットされた。

作品としての感想はここで述べようとは思わない。「小公子」や「小公女」のような、あるいは、「安寿と厨子王」のようなものかな・・という印象だ。本を読まなければ、ディッケンズの書きたかった意図はあまり解らないだろうと思われるし、名作を映画化することはなかなか大変なんだろうな・・などという不遜な感想まで持ってしまった。

それより、以前の作品で記憶していたシーンがそっくりこの作品でも踏襲されていて、そこがやはり印象深かった。オリバーがロンドンに歩いて向かう途中で粗末な食事を振舞ってもらうことはあったが、それ以外では初めて大人に親切に温かく迎えられて仲間を得た場面だからなのだろう。この映画では何たってフェイギン役がすばらしかった。この人は『ガンジー』を演じたサー・ベン・キングズレーという名優だそうだ。あの映画も良かった。勉強になった映画だった。

さて、フェイギンのこと。子供を手なずけて悪事を働き、盗品を売って稼ぐ老獪な悪党ではあるが手荒なことは望まない。やさしい面があり、言葉巧みに少年達を操っていて、既に年寄りなのに老後の蓄えと称して、貴金属宝石を鍵付きの箱に入れて秘密の場所に隠している。オリバーに対して優しいのは、オリバーの風貌が将来有望で女を手玉に取ってだまし、いくらでも貢がせたりできる筈だと見究めているからでもあったのだろうと思わせるセリフがあった。

そうなのか、やはり風貌、顔立ちが人生を左右する大きな要因なのか・・・。この映画ではオリバーの憂いを含んだ眼差しが大きな転機となる条件になったというシーンがある。この作品の主人公は、憂いを含んだ顔立ちの将来女性に持てるだろう美少年でなければならないのだ。

さて物語の最後、幸運にも最良の安寧を得たオリバーが(これも実は映画では彼の性格描写やその因果関係はあまり出てこないので、ほとんど風貌のおかげ)フェイギンに親切にされたことが忘れられなくて、彼に面会に行くシーンがある。牢にいるフェイギンはほとんど気が狂っているのだが、オリバーに対して老後のために貯めていたあの宝石類を『全部おまえにやる』と言うのだ。その演技とシーンがすばらしい。
人はモノではなくキモチのものだ。そんな事を感じさせてくれた映画だった。


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死刑確定と死刑執行と(番外緊急アピール) 

2008年04月10日 21時52分45秒 | 個人的主張など
 4人の死刑を執行、鳩山法相が発表
 今の大臣のもとで3度目、合わせて10人となる死刑執行です。鳩山法務大臣は、死刑囚4人の死刑を執行したと発表しました。
 「4名の死刑を執行しました」(鳩山邦夫 法相、10日)
 鳩山大臣自らが発表した死刑執行。大臣就任以来3度目、合わせて10人となる死刑執行です。 (TBSニュース)


       処刑をやめろ!

           人を殺すな!
 
              殺されるな!

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