よほどはっきりさせたいからなのか、境界プレートの矢印がETみたいに指差し合ってるのがありました。
互い違いにしていけば、境界線の正確さが二倍になるだろうに、何故だろう。
京都府と宇治市は別の自治体だから解るにしても、京都市と京都市公園にはテツandトモでなくても、『何でだろう~何でだろう~♭』。
境界は『きょうかい』としか読まないと思っていたのに、土木建築不動産業界では『けいかい』と言うようで、何かの折りに『けいかいはどこ?』なんて言うと、ヤリテっぽい。
初めて行った目的地から帰り道を探していて、この地碑が目に入った。
高槻市柱本に行ったときのこと。
江戸時代、淀川を往来する大型船に対して飲食物を売っていた小舟・・・営業特権を与えられ・・・無作法御免の特権も与えられ・・・とWikiにある
『喰らわんか』と地元の言葉でガサツに呼びかけるのは、どんな声音だったのだろう。
言い方次第でわざとらしい威嚇に聞こえたり、馴れ合いの甘えに聞こえたり、優しい思いやりに聞こえたりもしたのだろうな・・・と思う。
気分によって、相手によって使い分ける売り手もいたんだろうな・・などと思ったり。
自宅前にゴマダラカミキリが転がっていた。
拾い上げたら脚を少しだけ動かしたけれど、アリがすでにたかっていて瀕死の状態。
撮ろうと思い、どこに置くか見回して、この金網の上にした。このカミキリの複眼に映る最後のシーンは編み目ということになる。アリも来づらいだろう。
ゴマダラカミキリを変換すると『胡麻斑天牛』と出た。Wikiで見ると『胡麻斑髪切』とある。
胡麻のような斑なのだから、ゴママダラカミキリ或いはゴマフカミキリなのではないのか? 同じ音が続く時は、一字一音を省略するのは有りなのかな? ゴマフは湯桶(ゆとう)読みだから駄目なのかな?
天牛というのはカミキリムシのことだそうだ。どこが牛に似ているのだろう。私の撮った画像を見ると、『アー確かに首、頭、目の辺りと触覚(角)の付き方なんか牛そっくりだな』と・・。
髪切はまぁ説明する程ではないか・・。『遊女が客に真心を示すため髪を切ること』なんてのもあった。(Macの変換辞書より)
今秋には閉店する近鉄momoの祭場広場で刑務所作業製品を販売していました。
飛騨の家具か松本の家具と思うような高級木工家具があったり、靴やベルトなどの皮革製品があったりした中で目を引いたのが○に獄の紋のある前掛け。
ネットで調べたら、刑務官のアイディアから作られ、ネット販売などもして良く売れているそうだ。
『軽卒』だと思う。いかにも獄卒のアイディアらしいと想う。人が感じられない。
地獄を表現したら良かったのだ。軽薄なイラストをやめてリアルな地獄絵図にしたら良い。
全長620mもあるのに、歩行者が普通に通るトンネルです。
高校生が一番多く利用する・・と思われます。
自転車で、あっちからこっち側の高校に通う学生もいれば、こっちからあっちの高校に通う学生もいるからです。
両校とも山の斜面にあり、周りも途中も新興住宅地です。
このトンネルが開通して山科宇治間の抜け道になり、車道はひっきりなしの通行量。
かなり暗いトンネルだけれど、この中で犯罪が起きるということはないと思われます。
トンネルはS字カーブになっており、入ったばかりは出口が見えないので、かなり不気味です。
車の音がうわんうわんと響くのも不気味なら、一瞬途切れて静寂があったりするのも不気味で、壁が丸いのも圧迫感があって不気味。
明るい未来に向かっていく気分になれるトンネルにできなかったのでしょうか?
先の見えない薄暗いトンネルに入るのは覚悟が必要で、歩く内に懐疑的になったり内省的になったり不安になったりするのです。
楽観的な人にとっては涼感スポットかも知れません。
拓本は紙をくっつけてその表面から墨のタンポを叩くから字が反対にならないのに、それを知らずに、文字のひっくりかえった拓本を作ってしまったのか?
魚拓は魚に墨を塗って紙をくっつけると聞いたことがあるけれど、今までしたいと思う機会もなかった。
拓本をやろうとして、魚拓を思いだしたからこうなったと推理したけれど、銘板全体が塗られていないから、そんなことでもなさそうだ。
いたずらだとしても、何をしたかったのか意図がわからない。
怨恨の線で想像するとしたら、この字を書いた書家あるいは有名人に嫌がらせをしたかったのか。
事件性があるかも知れないので、触れてみるのは控えた。
山科川に合流する直前の合場川にかかる橋。
待てど暮らせ来てもらえなかった男の恨みが滲んでいるのか・・『合場橋であいばしょう』じゃ芸がなさすぎだけれど・・・。
先の戦川から少し京都寄りの谷筋を流れる川で宇治カントリーゴルフ場の山から流れてくる。
こんな名だから、当然ながら伝説があるのです。
待望の男の子として生まれたにも関わらず両親を早くになくして、悪次郎と呼ばれる程にぐれた男が如来さまの粋な計らいで心を入れ替え善行を重ねて、弥陀次郎と言われるまでになったという話。
この川も一昨年氾濫した。
弥陀次郎の名が泣くではないか・・。
たたかい川と呼んだりいくさ川と呼んだりで統一されていないようだが、どういう由緒があっての名前なんだろう。
三室戸寺から流れ出す川で一昨年の豪雨時に倒木が川をせき止めて氾濫した。
宇治川本流は氾濫しなかったのに、流れ込む支流のいくつかが氾濫して、志津川では家が流され死者もでた。
宇治が大変なことになっていると心配してくれて何人かが連絡をくれたけれど、遠く離れた実家に帰省していてのんきに過ごしていたのでした。
青く塗装した水道管が大小2本ある。
ここに流木が引っかかっている大雨時の画像もネットで見た。
これは私が撮った数日前の画像。
これでも国が管理する一級河川なんである。
水道管の説明があってもよさそうなのに、銘板もなければ看板もない。
一本はガス管?・・・ということはないだろうな・・両方水色だから。
典薬というのを例によって、wikiで調べてみると、典薬寮(てんやくりょう、くすりのつかさ)は、律令制により制定された機関で、宮内省に属する医療・調薬を担当する部署・・・てなことが書いてある。
すると、このアルプラザ宇治東店の近辺は、そのむかし薬草園のようなものがあったのか・・それとも典薬寮の荘園があったのか・・・
この下を流れる川は確か戦川だったはず。
散歩の途中に画像を撮ってから日をおくと、面白いと思ったのが何だったのかあいまいになって、キーボードを打つ2本指打法も湿りがち。
初めて聞く名前の木だったので調べてみると、ブルーベリーのような食べられる実がなって、小小坊と書くのだとwikiが教えてくれる。
パソコンの変換では南燭という漢字がすっと出てきた。
燭は『しょく』でともしびのことだから、『なんしょく』と引いてみても、難色やら何色やら何食やら男色やら・・・南燭と小小坊には辿り着けなかった。
言葉遊びはこれくらいにして、このしゃしゃんぼは立派に育っていて、宇治市名木百選に選ばれたエリート。
今まで、『あれまこんな所に・・』という山の中で立て札を見たこともあるけれど、たいていは神社仏閣の地に育っている大樹が選ばれているのだ。
それで、このしゃしゃんぼは『犬の連れ込み禁止』の神社境内にあった。
立て札の横のひょろっとした木ではなくて、しめ縄のある方だろう・・当然ながら。
これだけの大木で、神社にあって登ることもできないとなると、この実はヒヨドリやカラスの絶好の餌となっているだろう。
その時期に実が自然落下するのであれば、シートなど広げて待ち受けたいと想うけれど、見咎められたりするんだろうか?
よその神社にあった宇治市名木百選の椎の実は拾い集めて食べたことがある。
『しんめいじんじゃ』を変換したら、『新名人じゃ』と最初に出てきた。
天地神明に誓って、の天地神明は『天地の神々』と広辞苑にある。
するとこの神明神社は、神々の神の社か・・・などと思ったけれど、この神明はアマテラスオオミカミのことで、この神社は本社が伊勢神宮のお伊勢さんとも呼ばれる古い神社だとか。
大神とオオカミと狼・・・こういう考察をしたらかなりの下調べと長考をした上で、長文も必要だろうから、即諦める。
狼の一部が飼いならされ品種改良されて犬になったわけですが、そんな犬は神域に連れ込んではいけないのでしょうね。
明智光秀が山崎から逃げる途中に、この神社の井戸に隠れたという、その井戸も残っている。
宇治橋から少し下流の川岸に、ほぼ四角形に杭が打ち込んである場所が数カ所ありました。
杭の表面は黒くなっているから腐食防止に焦がしてあるのだと思われますが、どのくらい前のものか想像がつきません。
秀吉の太閤堤の跡というのもこの近くにありますから、その可能性・・・まさかそんな昔のものが、今現在川岸に剥き出しである筈はない・・・でしょうね。
現在の護岸は、きっちりと削られた石ががっちり組まれた石垣や腐食防止処理をされた鉄の蛇籠で組まれている所もありますが、ほとんどはコンクリートです。
それにしても松の杭でしょうか・・・
宇治橋から下流方向の左岸は車の通行が多くて歩く人はなく、右岸はその辺りの人が利用するだけの土手なので、風景自体が捨て置かれている感じです。
四角と四角の間は竹で組んだ蛇籠があったのでしょうか・・・何だかとても気になる木杭です。
この石碑は淀競馬場の近くに建っていた。
鳥羽伏見の戦いはここよりずっと上流、現在の小枝橋付近で勃発したのだが、次第に戦場が下がり淀での激戦のあと東軍は敗走していくことになる。
私が生まれ育ったのは新潟県の十日町だけれど、会津藩の領地だった。
越後での戊辰戦争は長岡藩の戦いが有名で、十日町は西軍が進んでいった通り道の一つになったようだ。
小さな戦闘も山向こうの小出という地であった。
西軍(官軍)の戦死者は東京招魂社(今現在の靖国神社)に祀られ、敗走した東軍は賊軍となり、戦死者はその地その地の僧などにより埋葬されたようで、残念無念の碑なんであります。
旧陸軍の火薬庫や火薬製造所があったそうで、引き込み線の土手が奈良へ通じている旧街道を横切っています。
その土手下で通行の邪魔になりながら、この標柱がありました。
何故かしら誰も撤去せずに、70年以上建っていることになります。
引き込み線跡にレールはなく、広大な敷地の内の一部は団地になり、一部は学校が建ち、一部は陸上自衛隊宇治駐屯地となっています。
視界を遮る高い土手と標柱が負の遺産として遺ったままになっています。
何という名で呼んでいるのだろう。
自転車は通ってもよいが、降りて出入りせよという装置。
この土手を通勤通学に利用する人は居なさそうだから、ここで渋滞が起きることはないのだろう。
私が歩いた時は、ママチャリ一台と歩行者5~6人とだけすれ違った。
橋があって道路と交差する場所にこのステンレス製装置がある。
無謀自転車と車の事故を未然に防いでいるだろうけれど、中学生あたりは降りないで通り抜けているだろう。
いつだって若いというだけでチャレンジャーだから・・引っかかって転んだりもしているんだろうな・・と思わせる干渉杭。